小折城(こおりじょう)

小折城の基本情報

通称・別名

生駒屋敷

所在地

愛知県江南市大字小折字郷中

旧国名

尾張国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

生駒家宗

築城年

弘治・永禄年間(1555〜1570)

主な改修者

生駒家長、織田信雄

主な城主

生駒家長

廃城年

明治4年(1871)

遺構

中門

指定文化財

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

下奈良城(愛知県一宮市)[2.8km]
宮後城(愛知県江南市)[3.7km]
岩倉城(愛知県岩倉市)[3.9km]
小牧山城(愛知県小牧市)[4.0km]
小口城(愛知県丹羽郡)[5.0km]
大野城(愛知県一宮市)[6.8km]
一宮城(愛知県一宮市)[6.8km]
下津城(愛知県稲沢市)[7.0km]
松倉城(岐阜県各務原市)[7.0km]
楽田城(愛知県犬山市)[7.2km]

小折城の解説文

小折城(こおりじょう)は、現在の愛知県江南市に存在した平城。

歴史
生駒氏は藤原忠仁の子孫で、大和国を本貫としていたが、文明年間(1469年−1487年)に生駒家広が応仁の乱の戦禍を逃れ、寂れていた林氏の旧領尾張国小折に移住した。後の岩倉街道などが通る交通の要所であったことから生駒氏は馬借として財を成し、代々織田氏と関わり勢力を拡大するようになった。最大時には飛騨から東三河にまで商圏を拡大していた。

生駒氏が権力を持ち表舞台に出始めたのは、生駒家宗の娘、吉乃が織田信長の側室となり、長男・織田信忠、次男・織田信雄を産んだ頃である。この頃に小折城を築かれた。

天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いの際には戦いの最前線となり城は大幅に改修された。織田信雄が追放された後、家長は隠居していたが、息子の生駒利豊は豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いの後は徳川家康に懇願され松平忠吉に仕えるため尾張に残った。 

その後、生駒利勝は尾張藩主徳川義直に仕え、子徳川綱誠の守役となる。子孫が家老となり4,000石を領した。一国一城令により小折城は廃城となったが、在所持ちを許され周辺領地と遺構は縮小されるもそのままに生駒氏下屋敷としての機能を果たしながら存在した。給地換えの際にも在所の小折村を失うことなく明治時代を迎えた。

明治以降、下屋敷は解体された。現在は旧下屋敷中門と碑を目にすることができる。

小折城の口コミ情報

2020年08月30日 八朔
御供所城[小折城  周辺城郭]



堀尾吉晴邸跡。吉晴出生の地として知られる。八剱社の敷地内に有り、桜の名所である五条川が流れ、公園も整備されている。

2019年04月23日 てつ&あゆ治部大輔
生駒家石像群(久菴桂昌大弾定尼墓碑)[小折城  碑・説明板]



織田信長の室で、信忠、信雄、徳姫の母である吉乃さんの墓碑。
脇の大木は彼岸桜。五条川のソメイヨシノより1週間程早く満開を迎えます。

2019年04月23日 てつ&あゆ治部大輔
富士塚[小折城  碑・説明板]



5世紀末の前方後円墳。

小牧・長久手の戦いで、徳川家康が生駒家を訪れた際、織田信雄とこの塚に登って、豊臣秀吉方の陣形を見渡した場所。ここで家康は小牧山の先取りを決意したと言われている。

生駒家6代利勝が、生駒家の由緒と武功を後の世に伝えるために、林羅山の孫の碑詩とともに六角の石碑を建立した。亀型の台座をしており、お亀塚とも呼ばれています。

2012年10月28日 尾張守ひろっちぃ
小折城

保育園の隅に生駒屋敷(小折城)の説明書きと石碑が立っているだけでした。

「ニッポン城めぐり」を始めるには?

「ニッポン城めぐり」は、iPhone・androidの両アプリに対応。
利用料金は無料、アプリ内の課金も一切ナシ!いますぐ城めぐりを始めてみよう!

スマートフォンからのアクセス方法

app store app store  ■iPhone
 AppStore で「ニッポン城めぐり」を検索。

google play ■Android
 Google play で「ニッポン城めぐり」を検索。

スマホを持って城をめぐろう!スマホでお城スタンプラリーゲーム「ニッポン城めぐり」 ニッポン城めぐりとは? GooglePlay Appstore