小折城(こおりじょう)

小折城の基本情報

通称・別名

生駒屋敷

所在地

愛知県江南市大字小折字郷中

旧国名

尾張国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

生駒家宗

築城年

弘治・永禄年間(1555〜1570)

主な改修者

生駒家長、織田信雄

主な城主

生駒家長

廃城年

明治4年(1871)

遺構

中門

指定文化財

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

下奈良城(愛知県一宮市)[2.8km]
宮後城(愛知県江南市)[3.7km]
岩倉城(愛知県岩倉市)[3.9km]
小牧山城(愛知県小牧市)[4.0km]
小口城(愛知県丹羽郡)[5.0km]
大野城(愛知県一宮市)[6.8km]
一宮城(愛知県一宮市)[6.8km]
下津城(愛知県稲沢市)[7.0km]
松倉城(岐阜県各務原市)[7.0km]
楽田城(愛知県犬山市)[7.2km]

小折城の解説文



小折城(こおりじょう)は、愛知県江南市にあった日本の城(平城)。

歴史 

室町時代

生駒氏は藤原忠仁の子孫で、大和国を本貫としていたが、文明年間(1469年-1487年)に生駒家広が応仁の乱の戦禍を逃れ、寂れていた林氏の旧領尾張国小折(のち布袋町)に移住した。後の岩倉街道などが通る交通の要所であったことから生駒氏は馬借として財を成し、代々織田氏と関わり勢力を拡大するようになった。最大時には飛騨から東三河にまで商圏を拡大していた。

戦国時代

生駒氏が権力を持ち表舞台に出始めたのは、生駒家宗の娘、吉乃が織田信長の側室となり、次男・織田信雄を産んだ頃である。この頃に小折城が築かれた。

天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いの際には戦いの最前線となり城は大幅に改修された。織田信雄が追放された後、家長は隠居していたが、息子の生駒利豊は豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いの後は徳川家康に懇願され松平忠吉に仕えるため尾張に残った。 

江戸時代

その後、生駒利勝は尾張藩主徳川義直に仕え、子徳川綱誠の守役となる。子孫が家老となり4,000石を領した。一国一城令により小折城は廃城となり生駒家の中心が名古屋城下に移ったが、在所持ちを許され周辺領地と遺構は縮小されるもそのままに生駒氏下屋敷[1]として隠居所の機能を果たしながら存在した。給地換えの際にも在所の小折村を失うことなく明治時代を迎えた。

明治時代以後

明治維新以降に下屋敷は処分された。

廣間家の門 

旧下屋敷中門は生駒家の典医だった廣間家がもらいうけ、布袋町本町5丁目の廣間家に移築された。1975年(昭和50年)2月12日には「廣間家の門」として江南市有形文化財に指定された。廣間家の門は欅造りであり、漆喰による六角形のなまこ壁を有する。

小折城の口コミ情報

2023年09月28日 れいぶ尾張守りっく
小折城



少し東に桜の有名な五条川が流れいて 尾北自然歩道になってます

2023年06月10日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
堀尾吉晴公、金助とその母供養塔(桂林寺)[小折城  寺社・史跡]



桂林寺由緒沿革
天正十八年(1590)北条氏の小田原城は落城する。この小田原攻めに、丹羽郡御供所出身の堀尾金助も参加したが、陣中で病気になり18歳で没しました。金助の父、茂助はその菩提の為に、京都妙心寺に俊厳院を建立し、金助の13回忌には、老母はその冥福を祈って、東海道筋の精進川に架かる、裁断橋の架替えをしました。
この堀尾氏の屋敷跡に桂林寺はあります。寺伝によれば、文明十六年(1484)桂林租香が開山し、ご本尊に聖観世音を泰安して長楽寺と称しました。その後、永禄十二年(1569)兵火の為に堂塔を焼失し、正保年間(1624〜43)に僧龍嶽が現在地に再建して、大香山 桂林寺と改称しました。

本堂は2層の堂々たる建物で、寺伝に寛政七年(1795)の大般若経六百巻、元禄十一年(1624)の梵鐘があります。また、境内には堀尾吉晴公、金助とその母の供養塔があります。

山門両側にある袖壁(築地塀)は、五本線の筋塀(定規筋)となっており、格式高い寺院を示します。

2023年06月04日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
生駒家石造群(久昌寺墓地)[小折城  寺社・史跡]



この墓地には、信長の室・久菴桂昌(前野家文書では吉乃とする)と、生駒家歴代の当主及び、その室等が眠っています。
生駒氏は、家譜によれば藤原氏の流れで、もとは大和国生駒郷(現奈良県)に住み、文明・明応(1469〜1500)の頃に、初代 家広が小折村へ移り住んだと言われています。
四代 家長の妹 久菴桂昌が信長の室となり、織田家との関係を深め、家長も信長の家臣として活躍し、生駒家の存在感は大いに高まりました。
久菴桂昌は信長との間に、信忠・信雄・徳姫(家康の嫡男 信康の正室となる)の三人の子を産みました。
五代 利豊は主家が秀次、秀吉と替わりましたが、関ヶ原の戦いの時には、福島正則に属して戦功をあげ、家康の命によって松平忠吉、徳川義直に仕え、知行二千石を賜り、ここに尾張藩士としての地歩が固まりました。
以後、尾張藩士として代々勤める中、功績あって六代 利勝の代に三千石、十代 周房の代に四千石の大身となりました。十代 周房、十一代 周邑、十四代 周晃、十五代 周行は年寄(老中、家老相当役)まで昇進し、尾張藩政の中枢を担いました。また、周行は明治政府(大政官)から愛知県の原型となる名古屋藩の権大参事に任ぜられました。
墓地の北西の位置に東を向いて、久菴桂昌の墓(圭頭板形墓碑)があり、その左には初代と二代、三代夫妻、四代夫妻、五代夫妻と二人ずつ合葬となった墓(笠付板形墓碑 大型のものは江戸時代前半に多い)計四基が並んでいます。
六代 利勝の室以降は個々に葬られ、墓地の南西側(東向き)に十五基と北側(南向き)に八基の大きな圭頭板形墓碑(寛政期以降の大型のものは珍しいとされる)が林立しています。
江南市教育委員会
説明板より。

生駒家石造群は、江南市小折町の「宝頂山墓地」「清水山墓地」、江南市田代町の「久昌寺墓地」「田代墓地」にある(墓碑 計35基)が江南市の指定文化財となっています。

以前は、雑草で埋もれていましたが、新たに砂利が敷き詰められて綺麗になっていますが、本堂跡地は特に整備されていません。

2023年06月01日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
石碑・説明板[小折城  碑・説明板]



生駒氏の邸址

生駒氏の祖は藤原忠仁で、大和の生駒郷に山荘を建ててから子孫が住み姓を生駒と称した。家広にいたって、丹羽郡小折村に移り住み家名をあげた。二世 豊政をへて、三世 家宗の女久庵桂昌大禅定尼は、織田信長の室となり信忠・信雄・岡崎 信康の室を生んだ。四世 家長・五世 利豊に戦国の武将として、大いに功績を立て、のち利豊は尾張藩主に厚遇された。六世 利勝以後は、尾張藩に仕え四千石を領し、この地に邸を構え世々重住であった。
なお当所には、明治十三年から四十年まで、丹羽郡中心の高等小学校が設置されていた。
いまこの地に、保育園を建設するにあたり碑を建てて、その歴史を刻み由来を明らかにする。
昭和五十年九月吉日  江南市

石碑裏面碑文より。

以前は、石碑裏面は樹木によって読めなかったが、樹木が剪定されて石碑裏側が確認出来るまでになっていた。

2023年05月31日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
生駒家石造群(清水山墓地)[小折城  寺社・史跡]



生駒家石造群(清水山墓地) 市指定文化財

ここは、生駒家六代当主 利勝が眠っている墓所です。利勝には尾張藩三代藩主 綱誠の傅役を勤める等の功績がありました。二回にわたる加増によって知行千石を加え、生駒家は三千石の大身となりました。
生駒家(母の生家)へ養子として入って利勝は、先祖由来の地を尋ねるなどして家譜を整え、家訓を残しました。また、生駒家の発展に功のあった四代 家長・五代 利豊を葬る宝頂山墓地を作りました。さらに、生駒家の由緒・武勲を記した石碑(碑詩は林羅山の孫 信篤に依頼)を富士塚に建立しました。この富士塚は、小牧・長久手の戦いの折に家康が上ったと伝えられております。
利勝は生駒家の「家」の整備と、その存在の主張に努めた人でした。
江南市教育委員会

説明板より。

小折領主藤原生駒氏利勝父者從五品
因幡守利豊母者濃列苗木城主藤氏遠
山友政長女也童名辰千代八右衛門尉
右近大膳因幡主計賓名者利忠利勝也
尾陽國主   源君三世奉仕右領外
千知増有

石碑裏面碑文より。改行箇所は石碑に準じる。

民家に囲まれた場所に、ひっそりとあります。

2023年04月04日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
中門[小折城  遺構・復元物]



広間家の門(市指定文化財)
桁行 6㍍・梁間 2.6㍍・入母屋造・本瓦葺

広間家はもと、生駒家の典医でした。
廃藩置県のおり、生駒屋敷の中門を貰い受け移築したものです。
欅造りで、屋根は起破風にみられる凸形の曲線形がきれいであり、波をかたどった棟瓦や、波間に龍とおぼしき動物が水煙をはいている鬼瓦は美術の粋をこらし立派です。
当時、この門から駕籠が出入りしたといい、南袖には棒を挿した穴がついており、門の正面のなまこ壁など、昔時の生駒屋敷の偉容がしのばれます。
江南市教育委員会
説明板より。

説明板に鬼瓦に特徴があり立派とあったので、写真を撮って拡大して確認、龍は分からなかったが、鬼瓦全体に波がほどこされた、見たことない瓦だった。

2023年04月04日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
生駒家石造群(宝頂山墓地)[小折城  寺社・史跡]



ここは、生駒家を大きく発展させたと言われる方達の墓所です。東より四代 家長夫妻の二基の五輪塔、五代 利豊夫妻の二基の家形石廟、十代 周房の墓碑があります。家形石廟は桃山時代から江戸時代にかけて、大名や経済力のある階級の中で作られることがありました。市内では唯一のものです。この地には、利豊の邸宅があったといわれ、六代 利勝がゆかりの地に墓地を作ったものです。周房は後年に葬られました。
生駒家は、その家譜によれば藤原氏の流れで、もとは大和国生駒郷(現奈良県)に住み、文明・明応(1469〜1500)の頃に初代 家広が小折村へ移り住んだと言われています。四代 家長の妹 久菴桂昌(前野家文書では吉乃とする)が信長の室となり織田家との関係を深め、家長も信長の家臣として活躍し、生駒家の存在感は大いに高まりました。桶狭間の戦いの後、信長から「諸荷物馬一匹国中往還認可」の判物を受領しています。
五代 利豊は秀次、次いで秀吉に仕えました。関ヶ原の戦いの時には福島正則に属して戦い、宇喜多秀家の小姓頭 足立勘十郎を討ち取るなどの武勲を立てました。その後、家康の命によって松平忠吉、徳川義直に仕え、知行二千石を賜り、尾張藩士としての地歩を固めました。
十代 周房は八代 政長の弟の子として生まれ、養子として生駒家へ入りました。力量を認められて、年寄(老中、家老相当役)まで昇進しました。功績により千石を加増され、生駒家は四千石(六代 利勝の代に三千石となる)の大身となりました。

江南市教育委員会
説明板より一部抜粋。

墓石には綺麗な花が供えられて、大切にされていると思いました。

2023年04月03日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
生駒家石像群(久菴桂昌大弾定尼墓碑)[小折城  碑・説明板]



生駒家石造群(田代墓地)
ここは、織田信長の室となり、信忠・信雄・徳姫(家康の嫡男信康の正室となる)の三人の子を産んだ四代 家長の妹久菴桂昌(前野家文書では吉乃とする)の墓碑で、荼毘に付された、この地に建立されたものです。

(表) 仏像浮彫
(銘) 久菴桂昌大禅定尼葬地也
尾州丹羽郡小折町新野経塚 (裏面)

江南市教育委員会
説明板より。

田代墓地内にある久菴桂昌大禅定尼墓碑については、久菴桂昌大禅定尼の死を哀れみ、荼毘に付された場所に小牧山(城)に向けて、建立した碑であるとされています。

江南市指定文化財(天然記念物)の彼岸桜は、ほぼ散っていました。残念…。

墓地利用者用の駐車場があります。

2022年10月20日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
白木古墳[小折城  寺社・史跡]



墳径 東西約12㍍、南北約10㍍、墳高約2㍍の円墳とされる。墳頂に数基の石塔があったが、昭和45年頃、一部が削平されて形状が変わってしまった。
付近には、弥生時代後期から古墳時代へかけての遺跡があって、古墳への関連性が創造される。
「大口町史」より。

墳丘とされるの場所は、墓地となっている。
白木古墳周辺には他にも「いわき塚古墳・白亀塚古墳」などがあったが、消滅しているので少しでも残されたのは、良かったと思います。

2022年10月20日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
白木遺跡[小折城  碑・説明板]



白木遺跡は、五条川左岸の自然堤防上の縁辺に立地する古墳時代から平安時代の遺跡。
遺跡は、圃場整備の際に遺物が発見されたことを契機として、昭和四十七年に発掘調査が実施され、古墳時代の竪穴建物二基、「人」と刻書された奈良時代の須恵器等が検出されている。

現在は、畑の片隅に石碑が立つのみです。
遺跡の少し東側に、白木古墳がある。

2022年07月08日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
久昌寺[小折城  寺社・史跡]



久昌寺の本堂、庫裏は解体されて、基壇すら残っていない状態となっていました。

久昌寺公園部分には、丸太(梁?)が3本程、残されていたが、天正期の古材なのだろうか?

久昌寺について、調べると明治24年(1891)の濃尾大震災後に、小折の久昌寺(江南市)から、龍潭寺(岩倉市)に本堂、又は、何かしらの建物を、移築したと伝えられているらしい。

龍潭寺は、久昌寺と同じ曹洞宗の寺院で、岩倉城主 織田信安が現在の位置に移したとされる織田氏と縁のある寺院らしいので、調査されて後世に残して欲しいと思います。

2022年07月06日 尼崎城讃岐守一口城主
小折城



6月5日、岩倉城下城後に名鉄犬山線岩倉駅から2駅乗車して布袋駅から徒歩にて登城。進軍していくと保育園に隣接した一角に<生駒氏の邸址>の石碑と説明板がありました。説明板を読むと信長公の奥さんの吉乃の方の屋敷でした。秀吉公が信長公に仕官したのもこの屋敷で信長公や秀吉公が天下制覇への第一歩を踏み出した地がこの生駒屋敷だったようで歴史浪漫あふれる地に立てて何だか嬉しくなってきました。
下城後、生駒屋敷跡から190mの龍神社にも立ち寄ってみましたが趣きのある神社でした。私はここで満足して布袋駅に戻ったのですが先人方の口コミを読んでみると近くの久昌寺にも寄ったら良かったなあと後悔しました。

2022年05月15日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
久昌寺[小折城  寺社・史跡]



久昌寺公園は、令和4年5月9日〜令和4年7月29日まで、立入禁止となっています。
公園駐車場も封鎖されていますので注意して下さい。

庫裏部分の屋根瓦が降ろされ、建具などが外されてしまっていて、無惨な姿になってしまっていました。

2022年02月26日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
井上城[小折城  周辺城郭]



井上城は、城というより館といった方が適当かう思われる館城で、防衛を重点とした戦国の城でもなければ、御殿というものでもなく、その中間的なもので、簡素な防備と極く質素な建造物で構成させた館ではなかったかと想定させている。
説明板より抜粋

五条川沿いに、説明板や、石碑がある。

2022年02月24日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
久昌寺[小折城  寺社・史跡]



久昌寺の本堂は、大正十四年(1925)の建築。庫裏の建築年は、不明だが江戸時代頃とされる。戦災や、地震等から生き残って来た、建造物が壊されてしまうのは、とても残念です。

公園利用者用の駐車場があります、小折城跡、吉乃御殿跡など、近所なので合せて見学すると良いと思います。

2022年02月23日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
富士塚[小折城  碑・説明板]



富士塚(お亀塚)
富士塚は、五世紀末(490年頃)の前方後円墳と言われています。
今までは、古墳は発掘された事はありませんが、畑地化された前方形地帯からは、古墳時代の埴輪や須恵器・土師器など出土しています。
天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いで、東軍の将・徳川家康が、生駒屋敷(小折城)を訪れた時、織田信雄と富士塚に登って、西軍・豊臣秀吉の陣形を見渡した場所です。この時、家康は小牧山の先取りを決意したと伝えられています。
のち、この地に生駒家六代の利勝が「天地は生之本也。先祖は類之本也。孝子慈孫其本を知らざる可からざるなり。尾張の国士、生駒主計利勝、其祖の為に、碑を小折村富士塚に建つ……」という書き出しで、初代家広からの由緒と、武功を後の世に伝えるため、天和二年(1682)朱子学者 林羅山の孫 信篤に碑詞を頼み、六角の石碑に刻み、亀型の台石の上に建てました。別名お亀塚とも言われ、市の指定文化財になっています。
江南市教育委員会

古墳の上に登ることが出来ます、周囲は住宅地になっていますが、家康、信雄が登って見た景色を想像すると良いと思います。

2022年02月23日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
御供所城[小折城  周辺城郭]



堀尾跡と八剱社
堀尾氏は鎌倉時代の終り頃、御供所に本拠を構えた尾張屈指の名族であり、八剱社はその邸宅跡である。
この八剱社は、堀尾帯刀が熱田宮の八剱社を勧請して、永徳二年(1383)に創建、それ以来再建をくり返して今日に至っている。

説明板より抜粋

若宮八幡社と八剱社があり、その南東の角地に石碑や、堀尾金助と母の像、説明板等が設置されています。神社前の用水路が、堀跡に見えなくはないが、遺構は残っていない。

2022年02月23日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
裁断橋[小折城  遺構・復元物]



堀尾跡公園の裁断橋は、堀尾氏ゆかりの地に、江戸時代に書かれた『尾張名所図会』を基に設計され、戦災で焼失した姥堂の山門と合せて、復元されたもので、擬宝珠は、名古屋市指定文化財を許可を得て精密に、複製したものが設置されています。

裁断橋は、名古屋市熱田区にあった橋で、宮宿の東の外れの精進川に架けられた橋。
1926年に、川が埋められ橋は撤去されたが、擬宝珠のある4本の橋柱は路傍に残されていた。
1945年の名古屋大空襲により、周辺の多くが焼失したが、擬宝珠は焼失は免れた。 
1953年戦災で焼失した姥堂が再建された際、境内の池に規模を縮小され再建された。
1993年姥堂の建て替えの際、池が埋められ往時の様相は無い。
擬宝珠は、名古屋市の文化財に指定されて、名古屋市博物館に収蔵されている。

2022年02月22日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
小折城



布袋東保育園の南西隅に生駒氏の邸跡の石碑と説明板が設置されています。
保育園の敷地辺りが二の丸で、保育園の東側の県道越えた場所に三の丸があり、本丸は、久昌寺の東側で、県道に分断されている所にあったと思われます。

石碑の裏面にも、何やら説明書きがあるみたいだが、樹木が生い茂り読めなくなっている。
(光沢のある石碑は、自分の姿が写り込まないように、手を伸ばして横側から撮影しているので、怪しい人に見えるかも)

久昌寺の東側に10台程駐車出来る、駐車場ありがます。

2022年02月22日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
埴原屋敷[小折城  周辺城郭]



埴原加賀守の屋敷跡と言われる。埴原加賀守は、本能寺の変の後は織田信雄に仕え、天正十八年(1590)に信雄改易後、徳姫に随行して、この地に移住し、住んだと言う。

埴原屋敷は、小折城(生駒屋敷)絵図の西の丸の北西位置にあり、龍神社の北側の常観寺の南側一帯にあったと思われる。

龍神社の境内にある、文殊知恵社、源太夫社は生駒屋敷内にあったと思われる。

2022年02月22日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
吉乃御殿[小折城  遺構・復元物]



吉乃御殿跡
夫、土田弥平次(源太夫)を、1556年 明智城の戦いで亡くし、喪に服した吉乃の前に現れた尾張の荒武者、織田信長。
二人は、ここ吉乃御殿で逢瀬を重ね、信忠、信雄、徳姫を授かるが、産後の肥立ちが悪く、吉乃は二十九才の若さで、信長の願いむなしく世を去ったと言われている。
口軽な小者であった、木下藤吉郎の人材を見抜き、信長と秀吉の「絆」となった吉乃は、近世の扉へと時代をいざなった。
力石の由来
祭礼の時、生駒氏が家臣の者に、この石を担がせ、力試しをさせて五穀豊穣を願ったと伝えられる。また、この地の門左衛門氏が音頭をとったことから門左衛門石とも言う。
説明板より

小折城(生駒屋敷)の絵図からすると、西の丸南西に位置すると思われるが、遺構は残っていない。

2022年02月01日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
江南市歴史民俗資料館[小折城  関連施設]



江南市歴史民俗資料館には、生駒氏の資料や江南市の史跡からの出土品など展示されています。

令和4年3月31日まで、二子山古墳に行って、現地でチラシの写真を撮り、係員さんに見せると『二子山古墳』の史跡印(一人一枚 印刷物)が頂けます。

2022年02月01日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
二子山古墳[小折城  寺社・史跡]



二子山古墳は犬山扇状地の末端、標高約十五㍍の水田地帯にあります。
誰を葬ったか、はっきりしていませんが、五世紀末のこの地方を治めた豪族のもので、前方後円墳です。

横から見ると二子山(後円部が高い)のかたちで、真上から見ると後円部は丸く、前方部は後円部から前へ張り出し、先が開いた四角形をしています。
この古墳の規模は、全長約六十㍍で、後円部の直径三十五㍍、高さ七㍍あり、前方部の幅五十ニ㍍、高さ四㍍で西北を向いています。
明治二十年頃、考古学者の柴田常恵氏は「東京人類学会誌」に『この古墳は、二子塚、または弁慶塚とよび、周囲はすべて水田に囲まれており堀はないようである。村人に聞くと、先年まで一個の円塚(墳)が二子塚の右三十五㍍離れたところにあったが今は破壊されて無い、かっては左にも円塚(墳)らしい畑が残り、たぶん陪塚であろう。』と述べています。
発掘は嘉永二年(1849)と、明治二十年(1887)二回にわたり、金環、玉類、刀、馬具(轡、鐙など)須恵器など出土しています。そのうち、馬具は東京国立博物館に収蔵されていますが、その他の出土品の所在はわかっていません。

説明板より

この前方後円墳は、墳丘の上に登ることが出来ます。後円部の墳頂には、二等三角点があります。

2022年01月25日 鎌倉公坊臣相模守よしよし
久昌寺[小折城  寺社・史跡]



最初は16年前、小折城散策で偶然御寺の前で信長公母方の檀家の土田さんに出会い本堂に上げて頂き色々お世話に成り、2016年の3回目訪れ廃寺に成るかも知れない話を聞いて以来、関係各所に久昌寺の文化財指定可能な相対的な実例を市役所の郷土史料室みたいな所の元教師のオッサン等に紹介したり信長公関連団体や河村名古屋市長や大村知事の事務所に陳情したり、戦国武将系イベント開催に関わる愛知県の観光協会にも救援要請をしました。
織田木瓜紋会に相談したり、信長公の信仰した浄土宗の関東の大本山光明寺の部長さんや駿府の徳川家の姫様達の菩提寺の華陽院の御住職にも相談をし、浄土宗なら重要寺院の救済制度が有る事を知り曹洞宗にもお知恵を拝借にあがりました。
当時の曹洞宗の人事部長の藤沢市の花応院の御住職にも面会し御知恵を拝借し、東京都の曹洞宗海禅寺の御堂焼失→再建後の都指定文化財化の保護実例も紹介し市指定史跡はおろか県指定史跡に境内そのものを出来る事を江南市に進言ましたが結局は江南市役所は全く後ろ向きでした。
昨年は愛知県自民党議員や江南市議に直メで実情も共有しました。
愛知県民ではない神奈川県民ですが10年近く保護の訴えもガン無視され続け守れなかった事、信長公、お類様、生駒歴代の御位牌を3回拝ませて頂いた者として痛恨の極みです。

崇敬する信長公、お類様、申し訳ございません。

土田さんに生前に許可を得て皆さんに拡散する為に撮影させて頂きました生駒お類様と信長公の御位牌の写真を改めてコチラにも残させて頂きます。

皆さん、御二人と生駒と織田の地縁を忘れないで差し上げて下さい。

2022年01月25日 大蔵卿キコウシ
久昌寺[小折城  寺社・史跡]

4月にも取り壊し始め、23年度中に公園として整備。
吉乃らの墓は残し、本尊など関係する品を収める堂を跡地に建てる予定。

2021年12月30日 伊賀内匠助
小折城



現在は保育園のすぐ隣、石碑と看板だけです。近くにお寺がありました!

2021年12月28日 右近衛少将与助
小折城



名古屋鉄道犬山線布袋駅から南南東へ約1.5km、布袋東保育園に隣接して「生駒氏の邸跡」の碑があります。登下園の時間にかかる時は車が混雑しますし、親子の往来が多いので十分注意してください。

2021年09月12日 【城郭道】たっきー
御供所城[小折城  周辺城郭]



愛知県大口町にある堀尾家ゆかりの地です。堀尾吉晴(国盗り物語のおかげで個人的には茂助の方が好感を持てる)が誕生した地ですね。堀尾吉晴といえば松江城。松江城といえば骨折。…………。

現在は五条川両岸に堀尾跡公園や八剣神社などが広がっています。遺構はありませんが、門や裁断橋が雰囲気を漂わせてくれています。石碑や銅像は八剣神社の片隅にあります。

この地の堀尾氏を境に南の小折あたりは生駒氏。北の宮後あたりは蜂須賀氏という感じに栄えていたようですね。尾張の名族をめぐるのにもってこいの地なので是非行ってみてください。

2021年09月04日 井伊弾正忠直憲
吉乃御殿[小折城  遺構・復元物]

織田信長と吉乃が逢瀬を重ねたと言われる、屋敷のあった場所。信長は吉乃との間に3人の子を授かる。

2021年09月04日 井伊弾正忠直憲
久昌寺[小折城  寺社・史跡]

織田信長の側室、吉乃の菩提寺。財政難により市に売却され、本堂や庫裏は解体され公園として整備される事が決まった。誠に残念でならない。

2021年02月11日 マイロ
小折城



小折城というより、生駒家屋敷跡と言われた方がピンと来る感じです。屋敷跡、遺構はほぼ残ってません。一部が保育園になってて、石碑と説明版が二の丸跡らへんにあります。駐車場は有りませんでした。

2021年01月23日 まいける遠江守【桔梗】
井上城[小折城  周辺城郭]



小折城の周辺城郭、井上城です。

この城は南北朝の頃豪族有馬氏によって築かれた城で有馬氏はここに居城して井上の庄岩倉市一円と近村合せて十七ヶ村を領有していた。 然るに嘉吉三年西暦一四四三年有馬主殿正のとき 時の尾張守護代下津の城主織田郷広から帰順を命じてきた。更に宿老伊藤源内も重ね重ね帰順を進言したが応ぜず却って退け守護代に反したので守護代織田郷広に攻められ遂に落城した。

岩倉市文化財保護委員会

現在は石碑と説明板が建てられています。
五条川沿いに城址はあります。
小折城や岩倉城のついでに、また五条川のお花見の際にお時間があれば寄ってみてください。


2021年01月13日 しげしげ主税頭信繁
小折城



布袋東保育園の敷地に城碑と案内板が建ててあります。

2020年08月30日 八朔
御供所城[小折城  周辺城郭]



堀尾吉晴邸跡。吉晴出生の地として知られる。八剱社の敷地内に有り、桜の名所である五条川が流れ、公園も整備されている。

2019年04月23日 てつ&あゆ左近衛中将
生駒家石像群(久菴桂昌大弾定尼墓碑)[小折城  碑・説明板]



織田信長の室で、信忠、信雄、徳姫の母である吉乃さんの墓碑。脇の大木は彼岸桜。五条川のソメイヨシノより1週間程早く満開を迎えます。

2019年04月23日 てつ&あゆ左近衛中将
富士塚[小折城  碑・説明板]



5世紀末の前方後円墳。

小牧・長久手の戦いで、徳川家康が生駒家を訪れた際、織田信雄とこの塚に登って、豊臣秀吉方の陣形を見渡した場所。ここで家康は小牧山の先取りを決意したと言われている。

生駒家6代利勝が、生駒家の由緒と武功を後の世に伝えるために、林羅山の孫の碑詩とともに六角の石碑を建立した。亀型の台座をしており、お亀塚とも呼ばれています。

2012年10月28日 尾張守ひろっちぃ
小折城

保育園の隅に生駒屋敷(小折城)の説明書きと石碑が立っているだけでした。

小折城の周辺スポット情報

 松の丸表門(犬山城移築門、浄蓮寺)(遺構・復元物)

 中門(遺構・復元物)

 吉乃御殿(遺構・復元物)

 裁断橋(遺構・復元物)

 生駒屋敷跡(遺構・復元物)

 富士塚(碑・説明板)

 生駒家石像群(久菴桂昌大弾定尼墓碑)(碑・説明板)

 石碑・説明板(碑・説明板)

 白木遺跡(碑・説明板)

 御供所城(周辺城郭)

 井上城(周辺城郭)

 埴原屋敷(周辺城郭)

 久昌寺(寺社・史跡)

 二子山古墳(寺社・史跡)

 神明神社(寺社・史跡)

 龍神社(寺社・史跡)

 神福神社古墳(寺社・史跡)

 龍潭寺(寺社・史跡)

 白木古墳(寺社・史跡)

 長福寺廃寺(寺社・史跡)

 法光寺(長福寺塔礎石)(寺社・史跡)

 生駒家石造群(清水山墓地)(寺社・史跡)

 生駒家石造群(宝頂山墓地)(寺社・史跡)

 生駒家石造群(久昌寺墓地)(寺社・史跡)

 堀尾吉晴公、金助とその母供養塔(桂林寺)(寺社・史跡)

 いわき塚古墳(消滅)(寺社・史跡)

 トイレ(トイレ)

 堀尾跡公園駐車場(駐車場)

 駐車場(駐車場)

 江南市歴史民俗資料館(関連施設)

「ニッポン城めぐり」を始めるには?

「ニッポン城めぐり」は、iPhone・androidの両アプリに対応。
利用料金は無料、アプリ内の課金も一切ナシ!いますぐ城めぐりを始めてみよう!

スマートフォンからのアクセス方法

app store app store  ■iPhone
 AppStore で「ニッポン城めぐり」を検索。

google play ■Android
 Google play で「ニッポン城めぐり」を検索。

スマホを持って城をめぐろう!スマホでお城スタンプラリーゲーム「ニッポン城めぐり」 ニッポン城めぐりとは? GooglePlay Appstore