宮後城(みやうしろじょう)
宮後城の基本情報
通称・別名
- 蜂須賀屋敷
所在地
- 愛知県江南市宮後町八幡
旧国名
- 尾張国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 安井重継
築城年
- 応永年間(1394〜1428)
主な改修者
- -
主な城主
- 安井氏、蜂須賀氏
廃城年
- 不明
遺構
- 土塁
指定文化財
- -
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
小口城(愛知県丹羽郡)[2.9km]
小折城(愛知県江南市)[3.7km]
下奈良城(愛知県一宮市)[3.9km]
松倉城(岐阜県各務原市)[4.3km]
大野城(愛知県一宮市)[5.6km]
伊木山城(岐阜県各務原市)[5.8km]
羽黒城(愛知県犬山市)[6.1km]
小牧山城(愛知県小牧市)[6.2km]
楽田城(愛知県犬山市)[6.3km]
犬山城(愛知県犬山市)[7.1km]
宮後城の解説文
[引用元:Wikipedia「宮後城」の項目]
宮後城(みやうしろじょう)は、尾張国丹羽郡宮後村(現在の愛知県江南市)にあった日本の城。「蜂須賀屋敷」「小六屋敷」などとも呼ばれる。
歴史
築城年は不明であるが、応永年間(1394年 - 1428年)より安井氏の居城で、天正の頃まで住んだ。
周囲の土居や壕を巡らし、東西60間(108メートル)、南北80間(144メートル)。
『前野文書(武功夜話)』によれば、戦国時代に、安井弥兵衛重幸の息子安井重継が居城していた。重継の姉安井氏が嫁いだ蜂須賀正利は、蜂須賀城が織田信秀との対立により奪われてしまったため、蜂須賀正勝らと共に宮後城を間借りして移り住んだ。正勝の長男・蜂須賀家政(後の阿波徳島藩祖)は、この地で生まれたとされ、「蜂須賀家政公誕生之地」の石碑がある。
その後、天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いで羽柴秀吉の砦として修築されたが、砦部分は和睦後に破却された。
江戸時代の寛永年間に家政の誕生地ということで本殿が再建され、参勤交代のときに徳島藩の者は宮後村に立ち寄ったという。
昭和43年(1968年)、県道江南犬山線が屋敷を通ったため古井戸は埋められ、遺構は残っていない。
参考文献
- 平井聖ほか『日本城郭大系 第9巻』(新人物往来社刊、1979年)
- 【書籍】「江南市史 資料 4 (文化編)」
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宮後城の口コミ情報
2024年09月09日 参傳民部大輔茶磨梁
宮後城
跡地は住宅建設が進んでおりますので、宮後八幡宮と蜂須賀家政公誕生地をみられた方がいいかなと思います。
2024年04月07日 前田利家猫耳メイド萌
宮後八幡社[宮後城 寺社・史跡]
宮後城跡
宮後八幡社の北 約200㍍の所に蜂須賀小六の住んだ蜂須賀屋敷と呼ばれる所がありました。
天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いについて書かれた古文書には豊臣方の砦として「宮後砦」という記述のあるものがいくつかありましたが、その詳細についてはこれまでほとんど判っていませんでした。
しかし、平成十一年(1999)に郷土史研究家が、地籍図(明治時代の地図)上に「城跡道」という文字を発見し、それを手がかりに城跡とみられる地割を割り出しました。
その後、航空写真の判読、現地踏査等の調査を実施した結果、河岸段丘(川の流れなどによって階段状になった地形)を利用した典型的な城館跡であることが判明したのです。
現在のところ、城の範囲は図のようなものと推定されています。内郭と外郭に分かれていたとみられ、周りには堀と土塁をめぐらして防御を固めていたと考えられています。
宮後城は、小牧・長久手の戦いの終結後に講和条件の一つとして破却されたという記録があり、現在地上にはその形跡がほとんど残っていませんが、戦国末期の城の造営や改修の方法を考える上で非常に貴重な資料であるといえるでしょう。
また、宮後城跡との関連は解明されておりませんが、宮後城跡の一角から子、丑、卯、申、酉、戌の干支の文字が彫られた石が複数見つかりました。
令和五年(2023)には、宮後城跡の中心地と想定されていた土地で発掘調査が行われ、平安時代末〜鎌倉時代初頭の堀と推定される溝状遺構、戦国時代の堀と推定される溝等が確認されました。
江南市教育委員会
説明板より。
宮後城の標柱や説明板が撤去されたのは残念だが、宮後八幡社境内に宮後城跡の説明板が新たに設置、説明板の下には発掘調査で出土した干支の文字が彫られた置かれています。
2024年、最初の口コミ何処にするか悩んでたら、四月になってた~!?
2024年03月03日 赤翡翠
宮後城
宮後八幡社に新しい城趾の案内板が設置されています。城趾の一角から発見されたという干支の文字が刻まれた石も並べられていて見学できます。
2023年11月01日 内蔵允ゆうたん
宮後城
近くの神社に蜂須賀桜があります。城の痕跡はわかりませんでした。
2023年10月15日 鬼図書頭陽姫
宮後城
先日まで残っていた説明看板が撤去され、新築の戸建てが建っていました😭
2023年06月09日 前田利家猫耳メイド萌
宮後城
令和五年二月上旬頃まで、宮後城跡の発掘調査が行われ、現在は宮後城跡の標柱や案内看板が撤去されています。
急な発掘調査は、やっぱり開発の予兆であったらしく、久々に訪れると住宅の基礎が完成していて、ちょっと残念です。
令和4年度 第2回江南市文化財保護委員会に関する議事録によると、宮後城跡の標柱は撤去され、宮後城跡の案内看板は宮後八幡社の中に立てられるらしい。
新たな案内看板には、発掘調査の内容や、出土遺物も記載されるらしいので、案内看板が設置されるのはいつになるやら…。
2022年08月28日 前田利家猫耳メイド萌
蜂須賀家政公誕生之地[宮後城 碑・説明板]
蜂須賀家屋敷跡(宮後城跡)
宮後八幡社の境内を含め、東西六十間・南北八十間(一間は約1.8㍍)という広大な屋敷であった。
この屋敷は、旧宮後城で土岐氏が美濃・尾張を領有していた応永(1394〜1398)のころ、尾張を治める要地として、安井氏が守っていた城であった。
天文年間の後半、蜂須賀小六は母が安井氏の娘であったので故あって、母の在所に住むことになり、木曽川の川並を支配した。尾張国地名考に宮後村は「この村に蜂須賀小六の屋敷跡あり」と記し、昭和四十三年頃までは「小六屋敷」といわれ、外堀・古井戸も残っていたが、都市化の波に抗しきれずその跡もない。今は、県道 江南・犬山線沿いに「蜂須賀家政公誕生之地」という石碑が残っているのみである。
蜂須賀氏のほかに、戦国時代の武将 浅野長政は、安井弥兵衛の長子として、ここで生まれているという。
後に、叔父の浅野又右衛門の養子となり、ねね(秀吉の室)の妹ややを妻とした。(武功夜話・張州府志より)
江南市観光協会
宮後城跡の碑より、県道を挟んだ北側に、石碑と説明板があります。
2022年07月31日 【城郭道】たっきー
前野屋敷[宮後城 周辺城郭]
前野屋敷、愛知県江南市。
豊臣秀吉に仕え、活躍をした前野将右衛門長康をはじめとする前野氏一族の屋敷があるところです。前野氏の家系は今も続いているとか。かの有名な『武功夜話』はこの地から見つかっています。
現在、立派な長屋門や蔵が構えられていて石碑、説明板も整備されてます。
2022年05月02日 飛騨守勘助
宮後城
宮後城跡と宮後八幡社セットで見てきました。天気も良くて、八幡社内の蜂須賀桜の緑も映えてました‼️近場にも良いとこが沢山あります‼️GW、お出かけもヨシ、近場のリア攻めもヨシですよ〜😊✨✨✨
2022年04月30日 兵部卿スーさん
宮後城
名鉄江南駅から線路沿いに20分ほど歩きました。住宅街の空き地に説明板が建ってました。蜂須賀小六の嫡子家政が生まれた城とのことですが、場所が特定できたのは最近のようです。遺構は何も残ってないですが、近くの宮後八幡宮に石垣が少し残っているようです。
2022年03月06日 前田利家猫耳メイド萌
五丁堀砦[宮後城 周辺城郭]
小牧・長久手の戦いの際、織田・徳川軍の砦として築かれた。
石碑の裏面碑文
天正甲申歳小牧長久手ノ役西軍ニ備ヘ
五丁有余ノ堀割ヲ構ヘ前野喜左衛門
義康手兵三百騎ヲ以テ砦ヲ守ル
宮後城と小口城に挟まれた立地に位置している、宮後城とは距離が近いので、長大な堀が
あってこんな名称になったのかは不明。
城跡は、畑地や住宅地になり、遺構は残っていない、畑の片隅に石碑があるのみ。
2022年03月04日 前田利家猫耳メイド萌
宮後八幡社[宮後城 寺社・史跡]
宮後八幡社は、応永の頃(1394〜1427)安井弥兵衛(尾張守護土岐氏家臣)が宮後城を築き、その鎮護の神として勧請したと伝えています。(武功夜話)
その後、寛永元年(1624)徳島藩主 蜂須賀阿波守家政公が再建したもので、祭神は誉田別命(応神天皇)・天照大神です。
家政は幼少の頃、父の小六とともに宮後の安井家(母の在所)に住み、元亀元年(1570)父に従って初陣をしています。その後、秀吉の天下平定のために働き、四国の徳島藩の大名になった孫の忠英の後見として、再び国の政治にあたりました。
老境に達した時、故郷 宮後の地が忘れがたく、八幡社の本殿、釣殿・拝殿を再建、寄進しました。
そのことは棟札に「奉建立八幡宮御本社並釣殿拝殿大旦那宝宿様」と書かれていることによってもわかります。
構造、手法などから見て家政の寄進したもので、一間社流れ造り、本殿は一間四方の建物で桧皮で葺いた屋根の面が流れるように反った造りです。
正面向拝、蟇股の菊花彫刻、懸魚等、桃山時代の面影を残し、尾北における八幡造りの古建築として貴重です。
昭和33年3月29日には、県の重要文化財に指定され、その後、昭和43年に解体修理が行われています。
この社の周囲の石積土塁は、宮後城の塁壁(砦)で野面積に往年のいぶきを感じさせます。
また、昭和のはじめまで境内には大きな槙、天に聳える松の大木、社殿の前には樹齢を経た桧の神木が茂っていました。
江南市教育委員会 説明板より
拝殿の前に、伊勢湾台風で倒れた桧の神木の古株が残されている。
この八幡社には、鳥居・蕃塀は無いが石積みがあり、その前に社号標と蜂須賀桜があります。
2022年03月03日 前田利家猫耳メイド萌
前野屋敷[宮後城 周辺城郭]
吉田雲龍家の屋敷を中心として、かっての前野氏一族の屋敷があったことが、慶長十三年に作られた「前野村道之覚」絵図と、むかし「八屋敷」と近くの人々がいっていた事によってわかる。
先祖は稲木庄主良峯氏の子孫で、良峯高長(1200)が前野氏の元祖と言われている。
岩倉 織田伊勢守に仕え家老も勤めた家柄である、近郷の豪族 生駒・蜂須賀・安井・坪内氏などとの姻戚関係をもつ名門として地域の開発・発展に大きく貢献したことが古文書や「言い伝え」で知られている。
昭和三十四年の伊勢湾台風で屋敷内の土蔵が被害を受け、整理中に祖先が残した「武功夜話」などの文書類が発見されて先祖をはじめ、この地の様子が鮮明に浮かびでてきた。
特に、天下統一を進めた、織田信長や豊臣秀吉とは深い関係をもち、また、蜂須賀小六とは義兄弟の契りを結んだ、前野将右衛門長康をはじめ小坂孫九郎雄吉、同助六尉雄善、野田清助、森勘解由などの武将たちを排出したのも、この屋敷である。
江南市観光協会
立派な長屋門や蔵の前に、説明板の他に、前野小兵衛加賀守由緒碑、瓢箪の石碑がある。
この説明板がある場所が、吉田雲龍家なのだろうか?この蔵が伊勢湾台風で被害を受けた蔵なのだろうか?
2022年03月01日 前田利家猫耳メイド萌
説明板[宮後城 碑・説明板]
宮後城跡
江南市前野町の旧家に伝わる、戦国時代の伝承記録「武功夜話」には、十六世紀の中頃、この宮後には、蜂須賀小六の住んだ屋敷があり、その規模は南北約150㍍、東西約120㍍にも及んでいたということが、記されています。また、天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いについて書かれた古文書にも、豊臣方の砦として「宮後砦」という記述のあるものがいくつかあり、宮後城の存在自体は確実とさていましたが、正確な位置など詳細については、これまでほとんど判っていませんでした。
しかし、このほど郷土史研究家が地籍図(明治時代の地図)上に「城跡道」という文字を発見し、それを手がかりに城跡とみられる、地割を割り出しました。
そして、その後、航空写真を判読・現地踏査等の調査を実施した結果、この場所が河岸段丘(川の流れ等によって階段状になった地形)を利用した典型的な中世の城館跡であることが判明したのです。
現在のところ、城の範囲は図のようなものと推定されています、内郭と外郭に分かれていたとみられ、その中心は、ちょうどこの場所にあたります。館(尾張の中世城館は城というより館に近い)の周りには、堀と土塁をめぐらして防御を固めていたと考えられ、土塁については、現在も一部その痕跡が残っています。一辺100㍍という規模は、この時代としてはかなり大きなものですが、これは小牧・長久手の戦いの際に、以前からあった屋敷を秀吉が戦争用に改修した為と、考えられます。
宮後城は、小牧・長久手の戦いの終結後に、講和条件の一つとして破却されたという記録があり、現在地上にはその痕跡がほとんど残っていませんが、戦国末期の城の造営や改修の方法を考える上で非常に貴重な資料であると言えるでしょう。
江南市教育委員会
説明板より
説明板にある土塁の痕跡は何処に有るのだろうか?、宮後八幡社にある石塁のことだろうか?
東側に流れている川は、堀として利用されたのかな?
2022年03月01日 前田利家猫耳メイド萌
武馬屋敷[宮後城 周辺城郭]
築城時期は不明。近畿地方から、移って来た「武馬氏」の屋敷とされる。
周辺の領民の協力を得て、井戸を掘り、屋敷の周囲に堀や土塁、石垣を巡らせた堅固な造りであったと伝えられている。
現在は、更地となり遺構は残っていない。若干、西側に竹藪が残っているのが、気になったが…。
2021年09月06日 虹ノ松能登守
宮後城
気を付けて見ていなければ、あっという間に通りすぎてしまうような場所です。道路沿いに宮後城址の石柱があり、南側に説明の立て看板があります。
写真の通りの空き地です。南側には車では入れないので気を付けてください。
2021年07月29日 いち近江守喪中
宮後城
蜂須賀家小六の所縁の地。堀や土塁で囲った館跡。廃城されたが、小牧・長久手戦にて秀吉軍の砦にて使用されたと説明板にあり。近くの神社(八幡社)にも土塁の名残らしき物が残存している
2021年04月26日 VIFAM 【7】尾張守
宮後城
木曽川から近く、木曽川から持ち込んできたと、思われる、礎石が残っていて、とても可愛いです。
2019年05月12日 しげぽん
宮後城
城址へのアクセスは、案内看板がある路地側ではなく、県道側からの方が便利です。
城址説明の案内板がかなり劣化してるのが、残念でした
2019年04月13日 我流尾張守クール
宮後城
尾北の古刹「飛保の曼陀羅寺」
現在の本堂は宮後城で生まれた蜂須賀家政公が再興したものだそうです。4月末から5月初めにかけて毎年「藤まつり」が開催されます。それに合わせて所蔵品が一般公開されます。信長公や秀吉公に絡む古文書もあるそうで、関ヶ原合戦の前哨戦では東軍の軍議も行われたようです。
地元では曼陀羅寺といえば藤まつりです。
一度訪れてみてはいかがでしょう。
2016年06月14日 蓬左の武将尾張守⚡️晋作
宮後城
安井重幸が城主の時、その娘が蜂須賀城の蜂須賀正利に嫁ぎ、小六正勝が生まれる。
しかし、尾張領内に住しながら美濃斎藤家に仕える蜂須賀家は織田家よって逐われ、正勝は生母の実家である安井家に逃れる。(安井城)
当時の城主、重継には弥兵衛という男子があったが、隣りの一宮市で浅野長勝の婿養子(のちの長政)となっていたため、正勝が城を継ぎ、小六家政が誕生したため、現在生誕地碑がある。(蜂須賀屋敷)
ここを中心にすぐ北に前野長康をはじめとする前野一族、さらに北方の木曽川沿いに坪内利定、転じて南には稲田貞祐・稙元、さらに南に織田信長の寵愛を受けた吉乃が信忠・信雄を生んだ小折城(生駒家宗・家長)、その東に堀尾泰晴・吉晴、さらに東に生駒親正などの同時代人がひしめいていた。
また、この城の東方には犬山織田家の出城である大道寺砦を兼松正吉が守っていた。
この状況下で木下藤吉郎が登場することで、これらの人々が全て有名武将になっていくのは非常に興味深い。