宮後八幡社

宮後八幡社([宮後城  寺社・史跡])

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宮後八幡社の口コミ情報

2024年04月07日 前田利家猫耳メイド萌


宮後城跡
宮後八幡社の北 約200㍍の所に蜂須賀小六の住んだ蜂須賀屋敷と呼ばれる所がありました。
天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いについて書かれた古文書には豊臣方の砦として「宮後砦」という記述のあるものがいくつかありましたが、その詳細についてはこれまでほとんど判っていませんでした。
しかし、平成十一年(1999)に郷土史研究家が、地籍図(明治時代の地図)上に「城跡道」という文字を発見し、それを手がかりに城跡とみられる地割を割り出しました。
その後、航空写真の判読、現地踏査等の調査を実施した結果、河岸段丘(川の流れなどによって階段状になった地形)を利用した典型的な城館跡であることが判明したのです。
現在のところ、城の範囲は図のようなものと推定されています。内郭と外郭に分かれていたとみられ、周りには堀と土塁をめぐらして防御を固めていたと考えられています。
宮後城は、小牧・長久手の戦いの終結後に講和条件の一つとして破却されたという記録があり、現在地上にはその形跡がほとんど残っていませんが、戦国末期の城の造営や改修の方法を考える上で非常に貴重な資料であるといえるでしょう。
また、宮後城跡との関連は解明されておりませんが、宮後城跡の一角から子、丑、卯、申、酉、戌の干支の文字が彫られた石が複数見つかりました。
令和五年(2023)には、宮後城跡の中心地と想定されていた土地で発掘調査が行われ、平安時代末〜鎌倉時代初頭の堀と推定される溝状遺構、戦国時代の堀と推定される溝等が確認されました。
江南市教育委員会
説明板より。

宮後城の標柱や説明板が撤去されたのは残念だが、宮後八幡社境内に宮後城跡の説明板が新たに設置、説明板の下には発掘調査で出土した干支の文字が彫られた置かれています。

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2022年03月04日 前田利家猫耳メイド萌


宮後八幡社は、応永の頃(1394〜1427)安井弥兵衛(尾張守護土岐氏家臣)が宮後城を築き、その鎮護の神として勧請したと伝えています。(武功夜話)
その後、寛永元年(1624)徳島藩主 蜂須賀阿波守家政公が再建したもので、祭神は誉田別命(応神天皇)・天照大神です。
家政は幼少の頃、父の小六とともに宮後の安井家(母の在所)に住み、元亀元年(1570)父に従って初陣をしています。その後、秀吉の天下平定のために働き、四国の徳島藩の大名になった孫の忠英の後見として、再び国の政治にあたりました。
老境に達した時、故郷 宮後の地が忘れがたく、八幡社の本殿、釣殿・拝殿を再建、寄進しました。
そのことは棟札に「奉建立八幡宮御本社並釣殿拝殿大旦那宝宿様」と書かれていることによってもわかります。
構造、手法などから見て家政の寄進したもので、一間社流れ造り、本殿は一間四方の建物で桧皮で葺いた屋根の面が流れるように反った造りです。
正面向拝、蟇股の菊花彫刻、懸魚等、桃山時代の面影を残し、尾北における八幡造りの古建築として貴重です。
昭和33年3月29日には、県の重要文化財に指定され、その後、昭和43年に解体修理が行われています。
この社の周囲の石積土塁は、宮後城の塁壁(砦)で野面積に往年のいぶきを感じさせます。
また、昭和のはじめまで境内には大きな槙、天に聳える松の大木、社殿の前には樹齢を経た桧の神木が茂っていました。
江南市教育委員会   説明板より

拝殿の前に、伊勢湾台風で倒れた桧の神木の古株が残されている。
この八幡社には、鳥居・蕃塀は無いが石積みがあり、その前に社号標と蜂須賀桜があります。

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