蜂須賀家政公誕生之地
蜂須賀家政公誕生之地([宮後城 碑・説明板])
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蜂須賀家政公誕生之地の口コミ情報
2024年12月27日 【城郭道】たっきー
愛知県江南市に位置する宮後城は、蜂須賀家政公の出生地でもあります。
【蜂須賀家政について。】
永禄元年(一五五八)に誕生。父は、かの有名な蜂須賀小六(正勝)。
元亀元年(一五七〇)の姉川の戦いで初陣を果たして以来、様々な合戦で手柄を挙げ、四国平定後には阿波国(徳島県)を拝領。一宮城に入った後に、徳島城を築き、徳島の礎を築きました。
余談ですが、徳島城が完成した記念に城下へ「好きに踊れ」とお触れを出したことが、阿波踊りの発祥とも言われています。
七将襲撃事件で石田三成を襲撃した七将の一人としても著名。
関ヶ原の戦い直前に黒田長政に嫁いだ娘の糸姫が離縁されたことにより、以後百二十七年にわたって黒田家と蜂須賀家は不通大名になったこともあります。
伊達政宗からは、「阿波の古狸」と称されました(『名将言行録』より)。
寛永十五年(一六三八)十二月三十日、死去。享年八十一。
現在、宮後城の内郭があったと思われる位置に、「蜂須賀家政公誕生之地」という石碑が建っています。徳島藩祖として重要な人物ですので、必ず見てください。義務です。
2022年08月28日 猫耳◇□◁△▷▽⊿萌
蜂須賀家屋敷跡(宮後城跡)
宮後八幡社の境内を含め、東西六十間・南北八十間(一間は約1.8㍍)という広大な屋敷であった。
この屋敷は、旧宮後城で土岐氏が美濃・尾張を領有していた応永(1394〜1398)のころ、尾張を治める要地として、安井氏が守っていた城であった。
天文年間の後半、蜂須賀小六は母が安井氏の娘であったので故あって、母の在所に住むことになり、木曽川の川並を支配した。尾張国地名考に宮後村は「この村に蜂須賀小六の屋敷跡あり」と記し、昭和四十三年頃までは「小六屋敷」といわれ、外堀・古井戸も残っていたが、都市化の波に抗しきれずその跡もない。今は、県道 江南・犬山線沿いに「蜂須賀家政公誕生之地」という石碑が残っているのみである。
蜂須賀氏のほかに、戦国時代の武将 浅野長政は、安井弥兵衛の長子として、ここで生まれているという。
後に、叔父の浅野又右衛門の養子となり、ねね(秀吉の室)の妹ややを妻とした。(武功夜話・張州府志より)
江南市観光協会
宮後城跡の碑より、県道を挟んだ北側に、石碑と説明板があります。