生駒家石造群(宝頂山墓地)

生駒家石造群(宝頂山墓地)([小折城  寺社・史跡])

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生駒家石造群(宝頂山墓地)の口コミ情報

2023年04月04日 前田利家猫耳メイド萌


ここは、生駒家を大きく発展させたと言われる方達の墓所です。東より四代 家長夫妻の二基の五輪塔、五代 利豊夫妻の二基の家形石廟、十代 周房の墓碑があります。家形石廟は桃山時代から江戸時代にかけて、大名や経済力のある階級の中で作られることがありました。市内では唯一のものです。この地には、利豊の邸宅があったといわれ、六代 利勝がゆかりの地に墓地を作ったものです。周房は後年に葬られました。
生駒家は、その家譜によれば藤原氏の流れで、もとは大和国生駒郷(現奈良県)に住み、文明・明応(1469〜1500)の頃に初代 家広が小折村へ移り住んだと言われています。四代 家長の妹 久菴桂昌(前野家文書では吉乃とする)が信長の室となり織田家との関係を深め、家長も信長の家臣として活躍し、生駒家の存在感は大いに高まりました。桶狭間の戦いの後、信長から「諸荷物馬一匹国中往還認可」の判物を受領しています。
五代 利豊は秀次、次いで秀吉に仕えました。関ヶ原の戦いの時には福島正則に属して戦い、宇喜多秀家の小姓頭 足立勘十郎を討ち取るなどの武勲を立てました。その後、家康の命によって松平忠吉、徳川義直に仕え、知行二千石を賜り、尾張藩士としての地歩を固めました。
十代 周房は八代 政長の弟の子として生まれ、養子として生駒家へ入りました。力量を認められて、年寄(老中、家老相当役)まで昇進しました。功績により千石を加増され、生駒家は四千石(六代 利勝の代に三千石となる)の大身となりました。

江南市教育委員会
説明板より一部抜粋。

墓石には綺麗な花が供えられて、大切にされていると思いました。

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