生駒家石造群(久昌寺墓地)

生駒家石造群(久昌寺墓地)([小折城  寺社・史跡])

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生駒家石造群(久昌寺墓地)の口コミ情報

2025年09月23日 猫耳和装メイド萌え


布袋駅近くで、信長と吉乃、子供達の銅像の写真を一頻り撮ったので、小折城(生駒屋敷)、久昌寺(生駒家石造群)まで行ってみましたが、久昌寺公園駐車場から見るに、石造群は藪化していました。

さらに近づくと、入口に虎ロープがあり封鎖されていました。ロープには、何かしら貼り紙がされていた痕跡がありましたが、詳細は不明です。

久昌寺跡地には遊具が設置されて、一応公園として機能していると思われます。
久昌寺に、元々設置されていた説明板も、久昌寺跡と新しく貼り替えられていました。

2023年06月04日 猫耳和装メイド萌え


この墓地には、信長の室・久菴桂昌(前野家文書では吉乃とする)と、生駒家歴代の当主及び、その室等が眠っています。
生駒氏は、家譜によれば藤原氏の流れで、もとは大和国生駒郷(現奈良県)に住み、文明・明応(1469〜1500)の頃に、初代 家広が小折村へ移り住んだと言われています。
四代 家長の妹 久菴桂昌が信長の室となり、織田家との関係を深め、家長も信長の家臣として活躍し、生駒家の存在感は大いに高まりました。
久菴桂昌は信長との間に、信忠・信雄・徳姫(家康の嫡男 信康の正室となる)の三人の子を産みました。
五代 利豊は主家が秀次、秀吉と替わりましたが、関ヶ原の戦いの時には、福島正則に属して戦功をあげ、家康の命によって松平忠吉、徳川義直に仕え、知行二千石を賜り、ここに尾張藩士としての地歩が固まりました。
以後、尾張藩士として代々勤める中、功績あって六代 利勝の代に三千石、十代 周房の代に四千石の大身となりました。十代 周房、十一代 周邑、十四代 周晃、十五代 周行は年寄(老中、家老相当役)まで昇進し、尾張藩政の中枢を担いました。また、周行は明治政府(大政官)から愛知県の原型となる名古屋藩の権大参事に任ぜられました。
墓地の北西の位置に東を向いて、久菴桂昌の墓(圭頭板形墓碑)があり、その左には初代と二代、三代夫妻、四代夫妻、五代夫妻と二人ずつ合葬となった墓(笠付板形墓碑 大型のものは江戸時代前半に多い)計四基が並んでいます。
六代 利勝の室以降は個々に葬られ、墓地の南西側(東向き)に十五基と北側(南向き)に八基の大きな圭頭板形墓碑(寛政期以降の大型のものは珍しいとされる)が林立しています。
江南市教育委員会
説明板より。

生駒家石造群は、江南市小折町の「宝頂山墓地」「清水山墓地」、江南市田代町の「久昌寺墓地」「田代墓地」にある(墓碑 計35基)が江南市の指定文化財となっています。

以前は、雑草で埋もれていましたが、新たに砂利が敷き詰められて綺麗になっていますが、本堂跡地は特に整備されていません。

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