伊木山城と伊木瀬兵衛忠次
伊木山城と伊木瀬兵衛忠次([伊木山城 碑・説明板])
伊木山城 に投稿された周辺スポット(カテゴリー:碑・説明板)、「伊木山城と伊木瀬兵衛忠次」の地図・口コミがご覧頂けます。
※「ニッポン城めぐり」アプリでは、スタンプラリースポットとなっている3,000城それぞれの地図に、周辺城郭や史跡など、様々な関連スポットを自由に追加できます。
伊木山城と伊木瀬兵衛忠次の口コミ情報
2025年10月12日 猫耳萌え可児参戦予定
伊木山城と伊木清兵衛忠次
永禄八年(1565)、織田信長は美濃攻略の第一歩として斎藤方の拠点であった伊木山を攻め取り、砦を築きました。伊木山山頂には、その時代の曲輪や石垣が残っています。
伊木清兵衛忠次(1543〜1603)は、元の名を香川長兵衛といい尾張清須の生まれです。忠次は伊木山攻めの功績により「伊木」の名を与えられ、その後は信長の家臣・池田恒興に仕えて活躍しました。
天正十二年(1584)、「小牧・長久手の戦い」で池田恒興が戦死すると、忠次は恒興の次男 輝政を補佐し、池田家を守りました。忠次はその功績により、豊臣秀吉から直々に竹ヶ鼻(現 羽島市)の領地を与えられました。
天正十八年(1590)、池田輝政は岐阜城から三河 吉田城へ移ります。それに伴って忠次は、輝政から田原城を与えられました。
慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いの際、池田輝政は東軍に味方します。輝政は東軍の先鋒部隊として、西軍の織田秀信が待ち構える岐阜城の攻略に臨みました。八月二十二日、輝政らは木曽川を渡って西軍の築いた新加納の砦を攻撃します。忠次は、この戦いにおいて池田隊の先鋒を務め、新加納の戦いに勝利し、敵を岐阜城に追い込む活躍をしました。関ヶ原の戦いは東軍の勝利に終わり、輝政は家康から播磨国を与えられ、忠次は輝政から播磨国 三木城を与えられました。慶長八年(1603)、忠次は三木城で没しました。墓は兵庫県三木市の本要寺にあります。
忠次の息子 忠繁は、姫路城の普請奉行に任ぜられ、縄張りを行いました。忠次没後、跡を継いで池田家の家老となりました。その後も伊木家は、岡山藩 池田家の家老として存続しました。
令和五年八月 各務原市教育委員会
説明板より。
案内看板の横にある標柱、「伊木山風致地区」が一瞬「伊木山屋敷地区」に見えてしまった…。









