各務城
各務城([伊木山城 周辺城郭])
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各務城の口コミ情報
2024年06月09日 前田利家猫耳メイド萌
平成二年に各務原市が発行した「各務原市史」及び、平成十二年に発行された東海古城研究会の機関誌「城」によると、大友皇子(天智天皇の子)に命を狙われ、大和の国 吉野を脱出した大海人皇子(天智天皇の弟)は、舎人 村国男依の出身豪族を頼って美濃に入ります。そこで、地元の村国氏・各務氏が中心となり、兵を集め近江の大津宮へ村国男依の指揮で進軍し勝利し、この功績により村国男依は「連」(むらじ)の姓(かばね)と「外小紫」(げのしょうし)の冠位を与えられ下級貴族となり、各務原を仕切ると共に、主家は奈良に在住し、都に勤めました。
また、壬申の乱の戦功で各務原の租税はかなり優遇されていたとされます。
村国男依の子孫は、天平宝字八年(764)仕えていた、恵美押勝(藤原仲麻呂)が乱を起して失敗すると、村国氏の勢力は衰退し歴史の記録から姿を消していきます。
一方、各務郡では壬申の乱における無名の兵士とされる各務氏が台頭し、各務郡を統治する郡司に成り上がります。
各務氏は、各務郡・厚見郡の大領(郡司の長官)を歴任し、勢力を拡大していきました。
平安時代、広野川事件が発生し、事件後には、美濃国司・尾張国司が共に交代しているとされます。郡司の処罰については不明だが、その後、各務氏は承久の乱で朝廷側で参戦し敗北、領地を没収されたと伝わります。
その後、室町時代になり、守護代 斎藤氏の一族が、この地に居城を築き各務氏を名乗り、それが各務城と言われています。
織田信長の美濃侵攻の際に、落城。そのまま廃城となったと思われます。
石碑正面 史跡 各務氏一族居城地
左側 御野国各務郡各務郷字城之屋敷
右側 大領 各務氏は奈良・平安の時代、各務郡を支配した豪族である。
村国神社から石碑を目指して散策したが、城館の痕跡ないかな?