説明板
説明板([加納城 碑・説明板])
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説明板の口コミ情報
2025年09月20日 猫耳**⊿▽△☆萌え
加納城は、関ヶ原合戦後の慶長六年(1601)に大坂城の豊臣氏への備えのため、徳川家康が中世加納城の跡地に築城を命じました。
近世加納城の初代城主は、家康の娘 亀姫の婿である奥平信昌で十万石を与えられました。江戸時代を通して奥平氏三代、大久保氏一代、戸田氏三代、安藤氏三代、永井氏六代の譜代大名が城主を勤め、永井氏の時代に明治維新を迎え、城内の建物は解体されました。
加納城は東と南に荒田川、北に清水川、西に長刀堀に囲まれた平城です。大手門は城の北側を通る中山道に面し、三の丸、厩曲輪、二の丸を経由して本丸に至ります。本丸南側には大藪曲輪があります。城下町は中山道沿い(加納宿)と長刀堀の西に広がります。
絵図によれば、本丸、二の丸、三の丸、厩曲輪に櫓がありました。二の丸北東角(現岐阜地方気象台)には、享保十三年(1728)に焼失するまで、岐阜城の天守を移築したとされる三階の隅櫓がありました。
本丸大手桝形の発掘調査では、土塁とその裾を巡る石垣や櫓門の礎石と雨落溝が見つかりました。本丸大手北側の調査では、堀底に畝状の仕切りを設けた障子堀が見つかりました。本丸南堀からは、肥前産磁器の椀や大皿、高級食卓塩の入れ物である焼塩壺、宴会や儀式で使用した土師器皿などが大量に出土しました。
また、御殿があった二の丸からは、金箔を貼った土師器皿の他、食したアワビ、サザエなどの貝類、アユやコイなどの淡水魚、タイ科、ニシン科、カレイ科など様々な海水魚、ニワトリやガン、カモ類、キジ類、ツル類などの鳥類の骨が見つかり、大名の豪勢な暮らしぶりの一旦を垣間見ることができます。
令和元年十二月 岐阜市
説明板より。
中世加納城(沓井城?)についての記載は無い。
上茜部城に行こうてして、道を一本間違えて思わず、加納城跡に来てしまった。