紅蘭女史生誕之地・圓徳寺
紅蘭女史生誕之地・圓徳寺([曽根城 碑・説明板])
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紅蘭女史生誕之地・圓徳寺の口コミ情報
2022年11月10日 前田利家猫耳メイド萌
女流漢詩人及び梁川星巖の妻として、著名な紅蘭は、文化元年(1804)に曽根の庄屋である、稲津長好の次女として、この地に生まれました。幼名は「きみ」。漢詩人としては、「張紅蘭」と称しました。
十三歳の時に、又従妹の梁川星巖が江戸から戻り、私塾の「梨花村草舎」を開設したので、入塾しました。十七歳の時、二人は結婚しました。星巖 三十二歳、紅蘭 十七歳でした。
以後、江戸や京都に住み、星巖が天下の漢詩人として大成し、明治維新の成立に貢献した活動を、妻として弟子として支えました。
紅蘭が生涯に作った詩は、400首程で、どれも素晴らしく、画も巧みで「群蝶の図」は、大垣市の重要文化財に指定されております。
明治十二年(1879)京都において、七十六歳で死去。大正十三年月、維新成立に尽力したことに対して、従五位を追贈されました。
曽杭山 圓堂寺 由緒
平安時代、菅原道真公の直弟である、大炊御門の末孫 藤原家成が、この地に下向し、その三男 道隆が天台宗 圓徳寺を延喜十五年(915)建立した。
二十八人の村人と共に建立したことから、二十八姓の寺とも言われる。
その後、本願寺第三世 覚如上人が美濃に御巡化のおり、住職の清浄房釈正道は、帰依して十字の名号をたまわり、康永元年(1342)天台宗から、浄土真宗に改宗した、この時の住職を開基(初代)としている。
やがて、第七世住職 道善のもとへ戦国武将である、明智光秀の姉、照子が嫁いだ。道善と三人の男子は、天正十年(1582)山崎の合戦で光秀を助けて参戦したが敗退、長男は討死し、次男・三男は、輪之内町里と福束に落ち逃れ、現在その子孫が門徒として杉山・野村姓を名乗り、この地に住んでいる。
当時の伽藍は、戦禍で焼失したが後に復興し、また再建して今日に至っている。
説明板より。
曽根城周辺をウロウロして見つけた、お寺の由緒に山崎の合戦の文字が…。