呂久の渡しと小簾紅園

呂久の渡しと小簾紅園([曽根城  寺社・史跡])

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呂久の渡しと小簾紅園の口コミ情報

2022年11月24日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁


呂久の渡し・呂久渡船場跡
天正時代 織田信長が岐阜に在城し、天下統一のため、京に近く交通の要衝である、近江の安土城に居所を移した頃から、美濃と京都の交通が頻繁となり、赤坂〜呂久〜美江寺〜河渡〜加納の新路線が栄えた。
これが、江戸時代の初頭に整備されて五街道の一つ、中山道となりこの呂久の渡しも、それ以来、交通の要所となった。
慶長十五年(1610)頃、この呂久の渡しの船頭屋敷は十三を数え、中でも船年寄 馬渕家には、船頭八人、助務七人が置かれていた。
その頃の川巾は、平水で90㍍、中水で120㍍、大水では180㍍に及んでいたといわれている。
文久元年(1861)には、皇女和宮親子内親王が中山道をご降嫁の折、この呂久川を渡られ、その折船中から東岸の色鮮やかに紅葉した楓を眺め、これに感懐を託され『おちてゆく 身を知りながら もみじ葉の 人なつかしく こがれこそすれ』と詠まれた。
後に、和宮様のご遺徳をしのび、昭和四年(1929)この呂久の渡しの地に歌碑を中心とした、小簾紅園が建設され、昭和四十五年(1970)には巣南町指定の史蹟となった。
この地呂久の渡船場は、大正十四年(1925)木曽川上流改修の揖斐川新川付替工事完成により、この地より東へ移り、現在の揖斐川水流となり、長い歴史を閉じることとなった。
瑞穂市
説明板より。

少し、落ち葉多めになってましたが、紅葉が綺麗でした。

2020年08月23日 とんかつおやじND


小簾紅園
公武合体で仁孝天皇の第8皇女和宮が徳川第14代将軍家茂に嫁ぐため中山道を御降嫁され呂久川(現在の揖斐川)を御座船でお渡りになる際、色麗しく紅葉しているもみじを一枝舷に立てられ、玉簾の中からご覧になり

「おちていく 身と知りながら もみじ葉の 人なつかしく こがれこそすれ」

と御感慨をお詠みになりました。
中山道散策ガイドより

呂久の渡し
江戸時代、中山道が整備される以前から、東西交通の要地であった呂久には、杭瀬川(伊尾川、揖斐川)の渡場が設けられていた。
天正10年(1582年)、武田攻めより凱旋した信長を、稲葉一鉄が領内の呂久の渡しにて饗応する。

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