城城(しろのじょう/じょうじょう)
城城の基本情報
通称・別名
- 城
所在地
- 千葉県佐倉市城704他
旧国名
- 下総国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 六崎氏
築城年
- 鎌倉時代
主な改修者
- -
主な城主
- 六崎氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、腰曲輪、櫓台、土橋、土塁、横堀(空堀)、堀切
指定文化財
- 市史跡(城城跡)
再建造物
- -
周辺の城
-
佐倉城(千葉県佐倉市)[3.1km]
本佐倉城(千葉県印旛郡)[3.7km]
古屋城(千葉県四街道市)[3.7km]
謙信一夜城(千葉県佐倉市)[5.8km]
臼井城(千葉県佐倉市)[6.7km]
根古屋城(千葉県八街市)[7.3km]
師戸城(千葉県印西市)[7.4km]
木出城(千葉県四街道市)[7.6km]
中沢城(千葉県富里市)[7.9km]
御茶屋御殿(千葉県千葉市)[9.7km]
城城の解説文
[引用元:Wikipedia「城城」の項目]
城城(じょうじょう/しろのじょう)は、千葉県佐倉市城(じょう)にあった日本の城(平山城)。
概要
城跡は佐倉駅の南東約1.5キロメートルに位置する[1]。鎌倉時代に千葉氏の庶家である六崎氏が築城し、応永年間(1394年-1427年)まで居城した。
「城」は、もともと「円城」といわれたところで、千葉常胤が第7子日胤のためにここに円城寺を創建している。
構造
比較的低い台地の多い佐倉地方においては、珍しく純粋に山城形式を用いた貴重な遺構である。東・北・南の3方に水田地帯が開け、西のみが外郭に接するが、その外郭に移るところに櫓台が設けられている。
アクセス
- 京成・JR佐倉駅よりちばグリーンバス 城郵便局下車 徒歩10分
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城城の口コミ情報
2019年05月26日 下沼下総守雄信
時崎城[城城 周辺城郭]
「リア攻めマップ」には、城趾入口に「関連城郭」マークを記した。城城趾はフェンスや深い藪に阻まれて近寄れないが、こちら時崎城趾は市民の森となっており、中に入ることも可能。主郭や井戸跡、腰曲輪、土塁などの確認ができる。クルマで訪れた場合、駐車場がないので、田んぼ沿い付近のやや広い道に路駐することになる。地元住民のご迷惑にならないよう配慮を。
2017年08月24日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
城城
六崎周辺には金部田城、城城、高崎城、高岡城、時崎城など同程度の規模の城が複数ある。これらは、大体は城城を中心とするネットワーク上にあったと考えられる。特に時崎城、城城、金部田城は北から三つ並んだ舌状台地にそれぞれ造られているので、これら全てで一つの城郭機能を果たしていたのではないか?城城のみというより六崎城郭群として考えた方が適しているかもしれない。時崎城は遺構が残されており、北側から入れる。入ってすぐ登った所にあるのが2郭、2郭が取り囲む様になっている一番高い所が1郭、北側の比較的広い所と、中央の開けた所がそれぞれ4郭、3郭と考えられるが、同じ郭かもしれない。南に続く細い土地が5郭であるが、立入り禁止である。城城、金部田城については宅地化されており、入る事が出来そうになかった為断念したが、調べると入口らしきものはあったらしい。
※ミスがあった為修正致しました。
2017年08月07日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
城城
六崎の千葉氏
六崎を含む印東荘は、元々上総氏庶流の印東氏の所領であった。上総広常が源頼朝に討たれた後も千葉氏の配下として印東氏は残ったが、宝治合戦に関わり没落する。その後は千葉氏嫡流が印東荘を治めていたと見られ、室町時代の応永期の記録では三谷、平河、六崎氏の名が見える。城城はこの頃造られたとされる。城城とは奇怪な名前であるが、元は円城と呼ばれていたらしく、円城寺氏発祥の地であるという。城の近くには円城寺という寺があり、平家討伐のおり、戦死した園城寺の僧で千葉常胤の七男、日胤の菩提寺として創建された。円城寺氏は日胤の名跡を継いだ千葉一族であると言われるが、どの様な関係であったかは定かではない。一方、城主とされる六崎氏は常胤の嫡男胤正のその更に六男、六崎六郎左衛門尉胤朝より始まるとされる。時崎城の西に妙見神社があり、神社由緒によると胤朝がたんたん山(大崎台の一部)に六崎城(詳細不明)を築城した際に造ったと言われる。六崎氏が戦国やその後の世をどう生きたかは不明である。
2017年05月06日 茉莉右衛門尉
城城
この辺りはほとんど住宅地になっています。
近くに六崎という地名の地区があります。
2013年05月01日 5150下総守たかし@船橋
城城
城山の所有者が土地を売却し、2011年頃に主郭部分の発掘が非公開で行われた。
今後の予定は決まってないが以前はあった城址碑も撤去されており、近い将来に宅地造成などで破壊される可能性が高い。保存の活路はないものか。