臼井城(うすいじょう)
臼井城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 千葉県佐倉市臼井字城ノ内619-1他
旧国名
- 下総国
分類・構造
- 連郭式平山城
天守構造
- -
築城主
- 臼井常康?
築城年
- 12世紀中期?
主な改修者
- -
主な城主
- 臼井氏、原氏、酒井氏
廃城年
- 慶長9年(1604)
遺構
- 曲輪、石垣、土塁、横堀(空堀)、土橋
指定文化財
- 市史跡(臼井城跡)
再建造物
- 石碑
周辺の城
-
謙信一夜城(千葉県佐倉市)[1.3km]
師戸城(千葉県印西市)[1.6km]
佐倉城(千葉県佐倉市)[3.7km]
古屋城(千葉県四街道市)[5.4km]
米本城(千葉県八千代市)[5.9km]
松虫城(千葉県印西市)[6.2km]
城城(千葉県佐倉市)[6.7km]
本佐倉城(千葉県印旛郡)[7.4km]
小野田城(千葉県船橋市)[9.9km]
金堀城(千葉県船橋市)[10.0km]
臼井城の解説文
[引用元:Wikipedia「臼井城」の項目]臼井城(うすいじょう)は、現在の千葉県佐倉市臼井田付近にあった日本の城。
永久2年(1114年)、平常兼の子の常康が臼井に居を築き臼井六郎を称したと伝えられるが、その居館がこの臼井城であったかどうかは定かではなく、臼井氏の中興の祖といわれる臼井興胤の代(14世紀中頃)に城としての基礎が置かれたといわれている。
【歴史・沿革】
享徳の乱の折、文明10年(1478年)12月10日の境根原合戦で千葉自胤に敗北した千葉孝胤は、臼井教胤の養子となっていた一族の臼井持胤の守る臼井城に籠城した。7ヶ月に及ぶ籠城戦の末、文明11年(1479年)7月15日に包囲を緩めた様子を見た城方が打って出て、激戦となり、そして落城したと伝えられる(鎌倉大草紙)。その時太田道灌の甥の太田資忠らが討ち死にし、現在も臼井城の土塁の上に太田資忠の墓が残されている。
その後、足利政氏の次男足利義明が小弓城を征圧し小弓公方を自称した際には、臼井城主の臼井景胤は小弓公方側に立ち、千葉孝胤の嫡男勝胤とは立場を異にした。だが天文7年(1538年)10月第一次国府台合戦で足利義明が討ち死にした後は千葉氏の影響下に復した。
永禄4年(1561年)臼井久胤の時、上杉謙信の小田原攻めに呼応した里見勢の上総大多喜城主正木信茂に攻められ臼井城は落城し、久胤は結城城の結城晴朝を頼って脱出、臼井氏は滅亡した。なお一説によれば、その時城は後見していた久胤の母方の祖父に当たるとされる原胤貞に乗っ取られた状態で、まだ10代だった久胤は軟禁状態にあったともされ、正木信茂の攻撃による混乱を好機ととらえ、原胤貞の娘とされる母とともに城を脱出し結城氏に臣従したとも言われており、結局、臼井城は原氏の手中に収まったとのことである。
永禄9年(1566年)には、上杉謙信と里見義弘に攻められ原胤貞らが臼井城に立て籠り、3月20日には落城寸前となったものの、原胤貞より指揮を受け継いだ軍師・白井浄三の知謀とその指示に基づいた北条氏側の松田康郷らの戦ばたらきにより謙信を大敗させている。
天正2年(1574年)に原胤栄(胤貞の子)は里見勢に生実城を追われたため、その後原氏が臼井城を本拠とする。
戦国時代末期には原氏が城主であったが、天正18年(1590年)の小田原征伐で徳川氏に敗れ、酒井家次が3万石で入封する。文禄2年(1593年)に城内より出火し灰燼に帰し、その後酒井家次は慶長9年(1604年)12月、上野国高崎藩に加増移封、臼井藩は廃藩となり臼井城は廃城となった。
室町時代後期以降の戦乱の時代において、後期千葉氏の拠る本佐倉城と比べて歴史的により重要な役割を果たしたが、戦乱の時代が終わり、土井利勝により慶長15年(1610年)に佐倉城が完成するに至ってその役目を終えた。
~年表~
・12世紀中頃、臼井常康が築いたと伝わるが定かではない。...[続きを見る]
臼井城の口コミ情報
2020年10月06日 橘出羽守太郎政貴
臼井城
謙信が攻めあぐねた訳が城跡に立つと実感できます。
2020年05月24日 幡随院中務少輔短兵衛
臼井城
駐車場までの道、ホントに狭くて車はすれ違えません。
駐車場から本丸側は通行禁止でした。
2019年04月29日 相模守愛洲久忠
臼井城
1郭東側に二段になっている腰曲輪です。枯れ草の下が粘土質の土壌でつるつる滑りました。
2017年05月28日 討幕の志士尾張守⚡️晋作
臼井城
文明10年(1478)の境根原合戦(千葉県柏市)で敗れた千葉孝胤・臼井俊胤らが籠城。
追撃してきた太田道灌・千葉自胤らが翌年攻略するが、同時に太田資忠が戦死。(写真①)のち、千葉孝胤が城を奪還。
永禄4年(1561)、正木信茂(里見義堯家臣)が攻略。後見人の原胤貞による傀儡状態を嫌う臼井久胤は、落城時に脱出して結城晴朝を頼る。翌年、原胤貞が城を奪還。
永禄9年(1566)、謙信一夜城に布陣した上杉輝虎の幕下に、結城晴朝・臼井久胤・酒井胤治・里見義堯らが参陣。
迎え撃つ千葉胤富・原胤貞・松田康郷(北条氏康の援軍)らは籠城。
「鑁阿寺文書」に「臼井之地実城堀一重ニ致之」とあるように、上杉・里見連合軍が堀を挟んで本丸に迫る。(写真②〜④)
しかし、胤貞の軍配師で多部田城主の白井胤治(白井入道浄三)が占術による采配を見せる一方、「赤鬼」と怖れられる松田の奮戦などで押し返す。
甚大な被害を被る中、足利義昭から和睦及び上洛要請の書が届いたことで、輝虎は撤兵を決意。臼井久胤は城主に復帰できず。
白井胤治→多部田城の口コミを参照。
2017年05月23日 源筑後守@ポンコ2㉕〜
臼井城
千葉・原氏の籠る臼井城は、上杉謙信・里見義堯連合軍の攻城戦で連合軍を退けたことが上杉謙信の関東での威信失墜につながったというのに惹かれ登城しました。
京成本線臼井駅北口を出て北西にあがり、一つ目の信号を右折、T字路に出るまで道なりに進みます。
T字路を左折し、そのまま道なりに進むと、民家前に「臼井城入口」を示す案内があり、その案内に沿って進むと駐車場や南口に、徒歩20分ちょっとでした。車だと入口がわかりにくいかもしれません。
登城は5月下旬でしたが気温30℃ほどと水分補給は必須だと思います。
城址は公園になっておりスーツ革靴でも歩きやすいですが、空堀に下りたり土塁を登るには不向きでした。
本丸は断崖上にあり、二ノ丸に続く土橋は両側に高い土塁と空堀を擁し、防御力の高さがうかがえます。
本丸・二ノ丸ともに台地上にあるため、当時は印旛沼含め周囲がよく見渡せ、連合軍の動きが手に取るようにわかったのではと思います。
私のような体力がない者でも気軽に行け、中世城郭を感じられるいい城址でした。
2016年01月17日 藤井伊賀守
臼井城
ゴミが散乱してますが、三の丸の深い空堀がみごと。主郭虎口の土橋、空堀、土塁も、見応えあります。
外郭部にも、遺構があるようです。
2015年05月03日 STRADA
臼井城
道は狭いですが、駐車場も有ります!
2012年05月13日 ビバちゃん
臼井城
臼井城址公園に車で行くのに道がわかりづらいので気をつけて下さい。
公園は良く整備されていてピクニック気分で印旛沼を眺めたり、遺構を観察したりと本格的に城址を感じたい人には物足りないかも知れませんが、まったりするにはオススメです (^-^)/