臼井城(うすいじょう)

臼井城の基本情報

通称・別名

所在地

千葉県佐倉市臼井字城ノ内619-1他

旧国名

下総国

分類・構造

連郭式平山城

天守構造

築城主

臼井常康?

築城年

12世紀中期?

主な改修者

主な城主

臼井氏、原氏、酒井氏

廃城年

慶長9年(1604)

遺構

曲輪、石垣、土塁、横堀(空堀)、土橋

指定文化財

市史跡(臼井城跡)

再建造物

石碑

周辺の城

謙信一夜城(千葉県佐倉市)[1.3km]
師戸城(千葉県印西市)[1.6km]
佐倉城(千葉県佐倉市)[3.7km]
古屋城(千葉県四街道市)[5.4km]
米本城(千葉県八千代市)[5.9km]
松虫城(千葉県印西市)[6.2km]
城城(千葉県佐倉市)[6.7km]
本佐倉城(千葉県印旛郡)[7.4km]
小野田城(千葉県船橋市)[9.9km]
金堀城(千葉県船橋市)[10.0km]

臼井城の解説文



臼井城(うすいじょう)は、現在の千葉県佐倉市臼井田付近にあった日本の城。佐倉市指定史跡[1]

概要 

永久2年(1114年)、平常兼の子の常康が臼井に居を築き臼井六郎を称したと伝えられるが、その居館がこの臼井城であったかどうかは定かではない。臼井氏の中興の祖といわれる臼井興胤(14世紀中頃)が本領である臼井に復帰し、臼井城を居城としたというが、これについても出典が1715年成立の『総葉概録』であるため、史実として見ることに慎重な見解もある。確実な史料に現れるのは15世紀後半である。

城は、下総台地の北西端にあたる臼井台地を占めており、印旛沼に注ぐ手繰川・鹿島川に挟まれている。

歴史・沿革 

享徳の乱の折、文明10年(1478年)12月10日の境根原合戦で千葉自胤に敗北した千葉孝胤は、臼井教胤の養子となっていた一族の臼井持胤[2]の守る臼井城に籠城した。7ヶ月に及ぶ籠城戦の末、文明11年(1479年)7月15日に包囲を緩めた様子を見た城方が打って出て、激戦となり、そして落城したと伝えられる(鎌倉大草紙)。その時太田道灌の甥の太田資忠らが討ち死にし、現在も臼井城の土塁の上に太田資忠の墓が残されている。

その後、足利政氏の次男足利義明が小弓城を征圧し小弓公方を自称した際には、臼井城主の臼井景胤は小弓公方側に立ち、千葉孝胤の嫡男勝胤とは立場を異にした。だが天文7年(1538年)10月第一次国府台合戦で足利義明が討ち死にした後は千葉氏の影響下に復した[3]

永禄4年(1561年)臼井久胤の時、上杉謙信の小田原攻めに呼応した里見勢の上総大多喜城主正木信茂[4][5]に攻められ臼井城は落城し、久胤は結城城の結城晴朝を頼って脱出、臼井氏は滅亡した。なお一説によれば、その時城は後見していた久胤の母方の祖父に当たるとされる原胤貞に乗っ取られた状態で、まだ10代だった久胤は軟禁状態にあったともされ、正木信茂の攻撃による混乱を好機ととらえ、原胤貞の娘とされる母とともに城を脱出し結城氏に臣従したとも言われており、結局、臼井城は原氏の手中に収まったとのことである。

永禄9年(1566年)には、上杉謙信と里見義弘に攻められ原胤貞らが臼井城に立て籠り[6]、3月20日には落城寸前となったものの[7]、原胤貞より指揮を受け継いだ軍師・白井浄三の知謀とその指示に基づいた北条氏側の松田康郷らの戦ばたらきにより謙信を大敗させている(詳細は「臼井城の戦い」参照)。

天正2年(1574年)に原胤栄(胤貞の子)は里見勢に生実城を追われたため、その後原氏が臼井城を本拠とする。

戦国時代末期には原氏が城主であったが、天正18年(1590年)の小田原征伐で徳川氏に敗れ、酒井家次が3万石で入封する(臼井藩)。文禄2年(1593年)に城内より出火し灰燼に帰し、その後酒井家次は慶長9年(1604年)12月、上野国高崎藩に加増移封、臼井藩は廃藩となり、臼井城も廃城となった。

室町時代後期以降の戦乱の時代において、後期千葉氏の拠る本佐倉城と比べて歴史的により重要な役割を果たしたが、戦乱の時代が終わり、土井利勝により慶長15年(1610年)に佐倉城が完成するに至ってその役目を終えた。

現在は臼井城址公園として整備されている[8]

年表

  • 12世紀中頃、臼井常康が築いたと伝わるが定かではない。
  • 14世紀中頃、本格的城郭として整備される。
  • 1479年(文明11年)、太田道灌の率いる上杉方に攻められ、七ヶ月に及ぶ篭城の後落城。
  • 1557年(弘治3年)、臼井久胤の後見として原胤貞が入り、原氏の支配下となる(1551年(天文19年12月(旧暦))とする説もある)。
  • 1561年(永禄9年)、上杉謙信に呼応した里見側の正木信茂に攻められ落城。
  • 1564年(永禄7年)、原胤貞が奪還。
  • 1566年(永禄9年)、臼井城の戦いで上杉・里見勢に攻められるが、これを退ける。
  • 1574年(天正2年)、生実城が里見氏の手に落ちたため、原氏の本拠となる。
  • 1590年(天正18年)、小田原征伐により原氏が滅び、豊臣側に接収され、後に酒井家次が封じられた。
  • 1604年(慶長9年)、酒井家次の高崎移封に伴い廃城となった。
  • 1994年(平成6年)2月16日、城跡が佐倉市指定文化財(史跡)となる。

参考文献 

  • 【書籍】「戦国時代末期の城郭からみた権力構造 ―下総・原氏を中心として―」

ゆかりの人物 

  • 臼井荘一 - 元総理府総務長官
  • 臼井日出男 - 元法務大臣、防衛庁長官
  • 臼井興胤 - コメダ社長、元セガ社長

臼井城の口コミ情報

2025年11月17日 ラッセル安房守【】栗太郎
臼井妙見社(星神社)[臼井城  寺社・史跡]

臼井城築城の時に域内の鬼門の地に創設された社のひとつ。千葉一族の守護神であり、北斗七星を神格化した妙見は鎮護国家、除災寿福の菩薩として尊崇したといわれるが、定かではない。

2025年11月17日 ラッセル安房守【】栗太郎
臼井城

京成臼井駅からバスがあったけど時間があわず、歩いていきました。国道296号に出るまでは歩道がありましたが、国道に出ると歩道はなくトラックなどが多く通り危険でした😰

臼井城は城址公園として整備されていて、駐車場もありました。
城郭の位置からは印旛沼が一望できました。

臼井城は、2度の大きな合戦の舞台となった城です。一度目は、古河公方足利氏と関東管領上杉氏の対立により千葉氏一族が分裂し、足利方の千葉孝胤が臼井城にこもり、上杉方に攻められた文明11年(1479)の合戦、二度目の合戦は、北条氏と対立していた上杉謙信と里見義弘が原氏を攻めた永禄9年(1566)に起こったものです。

慶長9年(1604)に酒井氏の転封後廃城となりました。

2025年10月27日 播磨守原チャのこうちゃん
臼井城



🚗で登城💨駐車場有ります😲🚻も有ります😲

2025年08月21日 マグロ常陸介祐平
宿内砦[臼井城  周辺城郭]



臼井城から南に約500m、臼井城の五砦のひとつです。五砦の中で唯一原形を保っていますが、「臼井郷図」や「利根川図志」などの古地図にはこの砦のみ記録されていないようです。

砦は、宿内公園として整備されています。主郭の周りには腰郭が付き、南側一段下の2郭側には土塁や虎口が見られます。主郭と接する2郭の北側には薄い窪みがありますが、堀の痕跡のようです。砦の広さは東西約160m、南北110mで、土塁の規模や腰郭の配置から、16世紀後半の形態と考えられているようです。謙信の臼井城攻め後に築かれたものでしょうか。

砦の西側の登城口を下ったところに、道誉上人の墓があります。道誉上人は、生実城主原胤清の招きで大蔵寺(千葉市)の開山となり、後に芝増上寺の貫主となった人で、元亀元年(1570年)にすぐ隣の長源寺(当時は大巌寺)の開山となっています。この頃に、砦は築かれたのでしょうか。

2025年08月20日 マグロ常陸介祐平
稲荷台砦[臼井城  周辺城郭]



臼井城の五砦のひとつで、宿内砦から南に約200m、同一の台地上に築かれた砦です。稲荷台公園付近が砦跡のようですが、造成により遺構は残っていません。

昭和49年の発掘調査では、東・南の縁辺部に沿って土塁と外側を巡る上幅5~8mの薬研堀や腰郭が検出され、陶器片や板碑片が出土したそうです。規模は70m四方で、堀幅や腰郭から16世紀のものと推測されており、臼井城の支城であるとすれば、大手の東側と南側を守る機能が考えられるようです。

駅近くの住宅地で、立地や台地上であること以外、お城を感じるのは困難な感じです。

2025年08月19日 マグロ常陸介祐平
臼井城



現在の地に臼井城が築かれたのが、明確にはわかっていないようですが、平安時代後期には千葉氏初代常兼の子の常康が臼井の地を得て、臼井氏は始まります。

歴史のあるお城で、エピソードも豊富です。鎌倉時代末期には、一族の志津氏に臼井城を奪われますが、中興とされる興胤が足利尊氏の力で臼井城を回復します。戦国時代に入ると享徳の乱では、千葉家当主(僭称)の千葉孝胤が臼井城に籠るも落城、その後は、臼井氏が城主を維持するも、久胤の後見として入った原氏の支配に。永禄4年には、里見氏の家臣正木時茂に攻められ落城し、永禄7年には奪還。永禄9年になると上杉謙信の大軍に攻められるも、守りきっています。小田城の役後は、酒井家次が3万7千石で入城し臼井藩を立藩するも、慶長9年に高崎に5万石で移封となり廃城となっています。なお、原氏に臼井城を奪われた久胤は、正木氏に攻められた際に臼井を脱出し、結城晴朝の元に逃れ、下館城主水谷正村の客分になったようです。

お城は、臼井城址公園として整備されています。お城の駐車場は南側にありますが、掘底を利用したもので、主郭と2郭を繋ぐ土橋の脇となります。主郭は土塁が囲みしっかりとした虎口が見られます。主郭と2郭は湾曲した広くて深い堀切で区切られており、2郭には改変かもしれませんが土塁は見られず、西側は薮になって見ずらいですが、大規模な空堀が囲みます。14年間も幕藩時代の城郭だった割には、戦国時代の雰囲気を感じるお城です。

お城の北側に建つ圓應寺は、臼井氏中興の祖とされる臼井興胤の創建で、興胤の墓や興胤を助け出した忠臣岩戸胤安の墓があります。また、2郭の西側には臼井城の攻め方として討死した太田道灌の弟太田図書(資忠)の墓があります。

2025年08月18日 マグロ常陸介祐平
洲崎砦[臼井城  周辺城郭]



臼井城から北に約500m、臼井城の五砦のひとつです。別名を家子部屋城と呼ばれています。印旛沼を見渡せる台地上に築かれており、対岸の師戸城は1km程の距離です。古地図から砦の規模は東西約150m、南北約100mと推定され、四方に土塁、北側を除く三方に空堀が巡り、西側には折れがあったようです。砦の役割として臼井城の北側の守りや、印旛沼船戸の渡しの監視、師戸城との連絡などの役割を担っていたと考えられているようです。

砦は、畑や住宅となりほとんど残っていません。住宅の北側に土塁が残るようですが、私有地の為、見ることはできません。お宅の入口が虎口風に見えますが(写真2枚目)、気のせいだと思います。砦の南側にある八幡台1号公園には、この地を知行した旗本の川口宗重の墓や稲荷神社が見られます。

2025年08月18日 マグロ常陸介祐平
仲台砦[臼井城  周辺城郭]



臼井城から北西に約600m、臼井城の五砦のひとつです。砦跡は台地が削られて住宅地となり、完全に消滅しています。

砦は舌状台地の先端に位置し、東西100m、南北150m程の規模と推定され、北・西側に土塁と腰郭、南側に土塁と空堀に虎口があったようです。また、北端には古墳があり、櫓台として使用された可能性があるようです。

砦の東側に隣接する八幡社は、暦応元年(1338年)に臼井氏の中興の祖である臼井興胤が足利尊氏に随い筑前多々良浜で戦った際に、宇佐八幡に祈願し菊池武敏を破ったことにより勧請されたと伝わります。江戸時代になるとこの地の地頭、川口氏(500石)の信奉を受けています(写真1~3枚目)。

2025年08月17日 マグロ常陸介祐平
田久里砦[臼井城  周辺城郭]



砦跡に設置された設置板によると、臼井城の五砦のひとつで、永久2年(1114年)に千葉氏の一族臼井六郎常康が、市川道の押さえとして築城したと伝えられるとしています。設置板の横には、この砦の守護神であった妙見社及び摂社の稲荷社と清瀧権現が遷座されています。

砦は、臼井城から南に500m程の台地上に位置しています。長谷津児童公園が該当地ですが、ピークからは一段低い場所にあります。市街地化が進み、縄張りなど想像もできない状態ですが、東西70m、南北110mで、北・東・南の三方を土塁が巡り、西側縁辺には腰郭があり、虎口は東側にあったようです。

全国文化財総覧の各種文化財情報によると、時代区分は中世から近世となっており、近世とあるのが、江戸時代も住宅として使用されていたということなのかは分かりませんが、妙見社が祀られていたということは、元々居館的なものだったようにも想像できます。

2025年07月20日 相模左衛門佐太郎
臼井城



本丸から印旛沼(かつての香取の海)を一望できます。

2025年01月26日 tower428美濃守
臼井城



臼井城へ向かう道を通り過ぎて太田道灌の弟の太田図書のお墓を先に見学しました。臼井城の空堀がすごくて写真では伝えきれないので、ぜひ訪れてみてください。近くに円応寺があり、城嶺夕照として臼井八景の1つとなっています。

2025年01月08日 マグロ常陸介祐平
飯重城[臼井城  周辺城郭]



佐倉城から南西に約2km、吉見城から北に300m、独立した台地に飯重城(いいじゅうじょう)は位置します。来歴等不明のお城です。主郭に隣接する大宮神社は、主祭神の天鈿女命(アメノウズメ)の他、合祀された祭神に千葉氏の一族の曾我五郎(曽我兄弟の弟のほう)が祀られていますが、お城とは関係なさそうです。

消防団脇の大宮神社参道を登り、細い尾根の切り通し状の通路をぬけると大宮神社があります。切り通し右側の土手はそのまま鳥居前まで続いており、土塁に見えなくもありません(写真4枚目)。神社の場所は、郭のようにも思えますが、各お城のサイトでは郭としていません。

神社の南側が城域で、激薮となっていますが、突入してみました。すぐにかなり低めの土盛りがあり(写真6枚目)、その先にはやや高さのある虎口が開口する土塁があります。郭内は薮が酷いため、比較的歩きやすそうな西側の土塁上(写真2枚目)を進みました。土塁の外側は帯郭が見られ、土塁の先はやや広く盛り上がったところで折れ(写真3枚目)、南側の虎口(写真1,7枚目)となります。虎口の南側は、平坦ではないように思える郭が見られます。さらに一段下にも郭があるようですが、薮に心が折れてしまい進んでいません。

トゲのある少々痛い植物があるので、行かれる方は手袋があった方がいいかもしれません。

2025年01月07日 マグロ常陸介祐平
小竹城[臼井城  周辺城郭]



小竹城は、千葉氏の一族の小竹五郎高胤により明徳年間(1390年頃)に築城されたとされているようですが、遺構の構造からは16世紀初頭のものと考えられているようです。お城の入口には、明治26年に子孫の高橋弥右衛門により建立された「千葉六家之正跡 小竹五郎之墓」と刻まれお墓がありますが、丸に隅立て四つ目結の家紋や高橋の苗字からは、千葉氏の系統という感じがしません。原氏の家臣に小西(大網白里)の高橋氏がありますが、こちらの一族でしょうか。

お城は単郭の居館で、土塁は高さがあり、虎口は一文字土塁で、二重のような構造です(写真1,7枚目)。虎口の左側は民家と隣接しているため進みませんでしたが、右側の空堀(写真2,3,4枚目)を進むと、遺構か後世のものか判断がつかない切り通し(写真5枚目)に突き当たります。

郭内は民家となっており立ち入れませんが、遺構の状態は良好なお城でした。

2024年12月27日 里のシロクマ右馬頭
臼井城



9/15 訪城 今回はリア攻めの為2度目の訪城です。
時代小説「最低の軍師」内容は、城主、原 胤貞が北条からの援軍、松田孫太郎そして軍師、白井浄三が城兵2.250に対して、上杉軍15.000 浄三は、奇策を次々に画策し、上杉勢を撃退する。この本を読んで再度訪城。私の好きな土の城です。駐車場は本郭とニ郭の間に5ー6台駐車可能です。駐車場までの道は、道幅も狭くわかりづらい。本郭とニ郭を結ぶ土橋と土塁を経て、本郭へ。本郭の北側には段差のある郭がある。本郭とニ郭、ニ郭と三郭を分ける大きな堀が土の城としての見所だが、薮状態。三の郭には、太田道灌の弟太田図書の墓がありお参りをして終了。

2024年09月10日 あんどー大宰大弐
洲崎砦[臼井城  周辺城郭]



私有地のため先に進めませんでしたが、おそらく畑の向こうが位置的に。裏側は断崖のような山の急斜面になっています。この裏側が昔沼であったのであれば、守りやすい場所だったのではないでしょうか。

2024年09月10日 あんどー大宰大弐
臼井台稲荷社[臼井城  寺社・史跡]



堀の中に鎮座しているような神社です。脇に大きなカヤの御神木が祀られています。

2024年09月10日 あんどー大宰大弐
仲台砦[臼井城  周辺城郭]



おそらく3枚目の山頂あたりではないかと。臼井氏由来の神社の裏山かな

2024年09月10日 あんどー大宰大弐
宿内公園駐車場[臼井城  駐車場]



駐車場はこの先にあります。5台のスペースあります。

2024年09月09日 あんどー大宰大弐
宿内砦[臼井城  周辺城郭]



現在は宿内公園となっています。駐車場ありますが、少し分かりづらく「宿内公園」表記の碑の先にあります。三方を崖のような形になっている山城です。主郭に通じる虎口や土塁がしっかり残されています。駐車場からすぐの登城口のほかに、墓地の先にある登城口、裏側の民家の先からの登城口3箇所ありました。

2024年04月02日 ハニワ太政大臣
臼井城



公園としてきれいに整備されています。空堀などしっかりとした遺構がみられます。

2024年01月13日 千葉相模守早雲
飯重城[臼井城  周辺城郭]



周辺城郭として登録が無かったので、登録しました。

城郭の歴史は残っていないようだが、佐倉市の「臼井屋敷遺跡・吉見城跡」の発掘調査報告に飯重城が周辺城郭の一つとして記載されており、臼井城の支城の一つだと思われます。

大宮神社のすぐ南側に郭があり、土塁や虎口が残っているが、藪が酷くて足を踏み入れられず、藪越しに覗くのみでした。
虎口らしきものは見えるものの、明確に認定することは難しい。藪が除かれたらリベンジしたいと思います。

1.大宮神社への参道。城郭の様な雰囲気。
2.大宮神社前の広場。この南側に郭がある。

2023年09月28日 武蔵守のむげん
臼井城



城跡南側に5.6台の駐車場あり。近くの謙信一夜城とセットで回りました。謙信が攻略に手を焼くほどの城ということでどんなものかと思いましたが、縄張規模はそれほど大きくはなく、城の防御力ではなく、いかに軍師の白井浄三ね采配が優れていたのかが分かります。空堀などはもう少し整備が進むと見学しやすいかと思います。

2023年09月12日 あんどー大宰大弐
臼井城



現存の遺構はそれほど大きくなく、上杉謙信の猛攻をはねのけた感がよくわかりません笑
ただ、当時はすぐ脇が印旛沼の山城で守りやすかったのかもしれません
平安時代からのお城ということで、かなりの歴史です

2023年08月25日 ᴿᴱᴰ副将軍
小竹城[臼井城  周辺城郭]



土塁と空堀が巡る現役の単郭城郭🏯

オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎

明徳年間(1390年~1394年)に小竹高胤により築かれたと云われます。
小竹高胤は臼井氏の一族であり、臼井城の外郭を形成する仲台砦を任されていたとの記録が残ります。

見所
臼井城から南西へ約1kmにある比高15mの台地上に築かれています。
単郭の居館跡の縄張りであり、周囲を高さ3mほどの土塁と空堀が巡ります。
南東に虎口が開口していますが、その先は民家となっており立入禁止となっています。
ある意味現役の城郭であり、虎口周辺の土塁と空堀のみ見学可能です。

2023年07月22日 千葉相模守早雲
臼井城



上杉謙信に攻められたものの、城主原胤貞は臼井城に立て籠り、軍師・白井浄三の戦略により退けたと伝わっています。

三の丸は市街地化していますが、本丸、二の丸、腰曲輪が残り、虎口、土塁、土橋、空堀跡を見ることは出来ます。本丸・二の丸間の空堀は大きく最大の見どころだと思います。

規模は大きくはありませんが、本丸からは印旛沼が見渡せます。上杉謙信を如何にして退けたのか妄想に耽りつつ、眺望をお楽しみください😊

1.本丸虎口。この先は土橋がかかる。
2.本丸土塁。一際高い場所があり、櫓台だったと思われる。
3.本丸北側の虎口下ると腰曲輪へと繋がる。
4.二段ある腰曲輪の一つ。
5.土橋。今は舗装されている。
6.本丸・二の丸間の空堀。本丸を取り巻く様に湾曲している。
7.二の丸の縁には一部土塁が残る。
8.二の丸。今は公園広場。

2023年04月27日 八咫烏紀伊守鉄龍
臼井城



中々土塁が大きいのだ!冬に行かないと、草が凄い。

2023年03月20日 マタローちゃん右衛門督
臼井城



狭い道から城の西側に回り込んで少し登ると、数台分の駐車場あり。城内は結構な広さで、空堀と土橋で郭が仕切られている。上杉謙信を撃退した城としてみると、感慨深いものがある。

2022年08月17日 白隠相模守慧鶴
臼井城

入り口は確かにわかりにくい。左折後20M先右折と書いてあるが5M位先を右折する感じ。遺構らしきものはあまり感じられずだだっ広い公園のよう。けどここで謙信の攻撃を凌いだのかと歴史のロマンは感じる。

2022年06月19日 トミ右京大夫
臼井城



駐車場はあれど車幅せまいし入口わかりにくいので注意。自販機水道ないので水分、食事持参を。

2022年06月03日 ᴿᴱᴰ副将軍
臼井城



幾度と激戦があった要衝🏯臼井城の戦いでは上杉謙信が大敗を喫しました。

オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎

築城年代は不詳。桓武平氏千葉氏の一族である臼井氏の居城。千葉常兼の三男である千葉常康が当地を治めて臼井氏を名乗ったことが始まりと伝わります。1479年、関東管領上杉氏と古河公方との争いの享徳の乱においては、古河公方側の千葉孝胤は一族の守る臼井城へ籠城。太田道灌の弟、太田資忠と千葉自胤によって攻められ7ヶ月に及ぶ激しい籠城戦の末に落城しました。

1561年には、上杉謙信の小田原攻めに呼応した里見義尭の家臣正木時茂によって攻められ落城。その後は千葉氏一族の原氏が臼井城を居城とします。1566年には再度、上杉謙信と里見義弘に攻められ原胤貞は籠城。臼井城の戦いが勃発。落城寸前となりますが、軍師の白井浄三の知謀と、赤鬼と称される北条軍の松田康郷により上杉軍は撤退となりました。1590年の小田原征伐で北条氏が敗れると酒井家次が入封。1604年に臼井藩は上野国高崎藩に移封されて廃藩となり、臼井城も廃城となりました。

見所
主郭と西側の二郭が臼井城址公園として整備されて残っています。主郭と二郭を隔てる空堀は、幅が20m程度の長大な空堀で土橋が架かります。主郭北側には枡形虎口が開口しています。

ちなみに29代当主の臼井興胤氏はコメダ珈琲社長です✨

2022年05月07日 大納言Z甲斐守369
大手口跡[臼井城  寺社・史跡]



写真の馬頭観世音のあるところに、大手口があったといわれていて、この坂を登り、真っ直ぐ北上すると、臼井城三の丸跡にたどり着きます。ちなみに、この坂道は「ハマトクノ坂」と呼ばれているが、由来は不明。

2022年05月07日 大納言Z甲斐守369
田久里砦[臼井城  周辺城郭]



臼井城周辺城砦群の一つ 現在は、長谷津児童公園の一角に記念碑と祠が立っている程度である。永久2年(1114)、臼井六郎常康が築城したと伝えられている。

2022年05月07日 大納言Z甲斐守369
雷電の碑[臼井城  碑・説明板]



妙覚寺の前に、大相撲史上最強の力士ともいわれている雷電為右衛門の碑が立っている。手形と等身大の肖像が残っていて、佐久間象山筆による「天下第一流雷電之碑」が刻まれている。この場所は記念碑であり、東へ行ったところに墓地がある。雷電は信州出身で、この臼井の甘酒茶屋の看板娘、おはんを見初めて妻にして、引退後はこの臼井で暮らしていたといわれています。

2022年05月07日 大納言Z甲斐守369
仲台砦[臼井城  周辺城郭]



臼井城周辺城砦群の一つ 臼井城の北西を守る支城だったといわれている。臼井八幡社のある場所に砦があったといわれている。

2022年05月07日 大納言Z甲斐守369
臼井台稲荷社[臼井城  寺社・史跡]



創建年代は不明。城郭跡といわれている八幡台1号公園の西側の空堀のような低いところに立地している。

2022年05月07日 大納言Z甲斐守369
洲崎砦[臼井城  周辺城郭]



臼井城周辺城砦群の一つ 臼井城の北の防衛支城。跡地は、一面畑となっていて、遺構が確認できない。また、少し南下した八幡台1号公園が本丸ともいわれているが、不明である。ただし、この公園の西側に空堀のような低いところがあり、そこには臼井台稲荷社があります。

2022年05月07日 大納言Z甲斐守369
稲荷台砦[臼井城  周辺城郭]



臼井城周辺城砦群の一つ。周辺は宅地化されており、遺構がわかりにくくなっている。公園が名残を残しているので撮影したが、ここは本丸ではないようだ。ここは、北側にある臼井田宿内砦の出城だとも考えられている。

2021年09月26日 国府左京大夫城介
宿内砦[臼井城  周辺城郭]



臼井城の守る砦群の一つ

【歴史】
築城者、築城年代は共に不明。
臼井城は太田道灌や上杉謙信といった歴戦の将に攻められるなど、下総の重要拠点だった。その臼井城を守るために5つの支城群(宿内砦・稲荷台砦・洲崎砦・仲台砦・手久里砦)が築かれた。永禄年間に城主が臼井氏から原氏に代わっており、支城群は臼井氏か原氏のどちらかが築城したものと思われる。

【遺構】
臼井城から南東500mにある比高20mほどの舌状台地に築かれており、現在は宿内公園(たんぽぽの丘)となっている。他の支城群はほぼ遺構が消滅しているが、この宿内砦は遺構の保存状態がよく虎口、土塁、空堀が残っています。主郭部分を中心に段曲輪が配置されており、特に南側の台地接続部からの侵攻を防ぐかのように、かなり大きな空堀が掘られている。

【感想】
臼井城の周囲を守る支城の中で、唯一遺構がほぼ完全な状態で残っており、公園として整備されていることもあり、遺構もかなり見やすくなっています。
主郭の南側の空堀はかなり広く幅が10m近くあり、現在はかなり浅くなっていますが、往時はもっと深かったと思慮されます。更に、土塁も主郭の南側にしかありません。これは三方が崖になっており、唯一の南側のみが台地との接続部になっていることから、南側からの侵攻を想定しるからだと思います。また、この空堀は、支城としてはかなり幅が広く、それだけ臼井城が重要な拠点であったことを証明しているように思えます。

さて、話とは変わりますが、「おかえりモネ」の主題歌を歌っているBUMP OF CHICKENというバンドを御存じでしょうか。彼らの出身はこの臼井城周辺らしく、「続・くだらない唄」という曲に出てくるタンポポの丘は、この宿内砦のことを指しています。

【アクセス】
京成臼井駅から徒歩10分。
登城口は3箇所あり、北側の臼井郵便局前、西側の長源寺墓地脇、南側の公園駐車場があります。

【写真】
1:南側登城口
2:主郭
3:虎口
4:空堀
5:土塁
6:主郭東側の段曲輪

2021年03月21日 戸沢夜叉九郎正樹
臼井城



2度目の登城です。沼側からは堅固な縄張りですが、逆側は比較的なだらかで、とても謙信軍を跳ね返した城には見えないです。

2020年10月06日 橘出羽守太郎政貴
臼井城

謙信が攻めあぐねた訳が城跡に立つと実感できます。

2020年05月24日 幡随院武蔵守短兵衛
臼井城

駐車場までの道、ホントに狭くて車はすれ違えません。
駐車場から本丸側は通行禁止でした。

2019年04月29日 相模守愛洲久忠
臼井城



1郭東側に二段になっている腰曲輪です。枯れ草の下が粘土質の土壌でつるつる滑りました。

2017年05月28日 蓬左の武将尾張守⚡️晋作
臼井城

文明10年(1478)の境根原合戦(千葉県柏市)で敗れた千葉孝胤・臼井俊胤らが籠城。
追撃してきた太田道灌・千葉自胤らが翌年攻略するが、同時に太田資忠が戦死。(写真①)のち、千葉孝胤が城を奪還。

永禄4年(1561)、正木信茂(里見義堯家臣)が攻略。後見人の原胤貞による傀儡状態を嫌う臼井久胤は、落城時に脱出して結城晴朝を頼る。翌年、原胤貞が城を奪還。

永禄9年(1566)、謙信一夜城に布陣した上杉輝虎の幕下に、結城晴朝・臼井久胤・酒井胤治・里見義堯らが参陣。
迎え撃つ千葉胤富・原胤貞・松田康郷(北条氏康の援軍)らは籠城。
「鑁阿寺文書」に「臼井之地実城堀一重ニ致之」とあるように、上杉・里見連合軍が堀を挟んで本丸に迫る。(写真②〜④)
しかし、胤貞の軍配師で多部田城主の白井胤治(白井入道浄三)が占術による采配を見せる一方、「赤鬼」と怖れられる松田の奮戦などで押し返す。
甚大な被害を被る中、足利義昭から和睦及び上洛要請の書が届いたことで、輝虎は撤兵を決意。臼井久胤は城主に復帰できず。

白井胤治→多部田城の口コミを参照。

2017年05月23日 源山城守ポンコ2…
臼井城

千葉・原氏の籠る臼井城は、上杉謙信・里見義堯連合軍の攻城戦で連合軍を退けたことが上杉謙信の関東での威信失墜につながったというのに惹かれ登城しました。

京成本線臼井駅北口を出て北西にあがり、一つ目の信号を右折、T字路に出るまで道なりに進みます。

T字路を左折し、そのまま道なりに進むと、民家前に「臼井城入口」を示す案内があり、その案内に沿って進むと駐車場や南口に、徒歩20分ちょっとでした。車だと入口がわかりにくいかもしれません。

登城は5月下旬でしたが気温30℃ほどと水分補給は必須だと思います。

城址は公園になっておりスーツ革靴でも歩きやすいですが、空堀に下りたり土塁を登るには不向きでした。

本丸は断崖上にあり、二ノ丸に続く土橋は両側に高い土塁と空堀を擁し、防御力の高さがうかがえます。

本丸・二ノ丸ともに台地上にあるため、当時は印旛沼含め周囲がよく見渡せ、連合軍の動きが手に取るようにわかったのではと思います。

私のような体力がない者でも気軽に行け、中世城郭を感じられるいい城址でした。

2016年01月17日 藤井伊賀守
臼井城

ゴミが散乱してますが、三の丸の深い空堀がみごと。主郭虎口の土橋、空堀、土塁も、見応えあります。

外郭部にも、遺構があるようです。

2015年05月03日 STRADA
臼井城

道は狭いですが、駐車場も有ります!

2012年05月13日 ビバちゃん
臼井城

臼井城址公園に車で行くのに道がわかりづらいので気をつけて下さい。

公園は良く整備されていてピクニック気分で印旛沼を眺めたり、遺構を観察したりと本格的に城址を感じたい人には物足りないかも知れませんが、まったりするにはオススメです (^-^)/

臼井城の周辺スポット情報

 太田図書の墓(遺構・復元物)

 土橋(遺構・復元物)

 城址石柱(碑・説明板)

 雷電の碑(碑・説明板)

 小竹城(周辺城郭)

 宿内砦(周辺城郭)

 稲荷台砦(周辺城郭)

 洲崎砦(周辺城郭)

 仲台砦(周辺城郭)

 田久里砦(周辺城郭)

 飯重城(周辺城郭)

 臼井台稲荷社(寺社・史跡)

 大手口跡(寺社・史跡)

 川口宗重の墓(寺社・史跡)

 圓應寺(寺社・史跡)

 臼井妙見社(星神社)(寺社・史跡)

 LIBRO(レイクピア ウスイ内)(御城印)

 京成佐倉駅前観光案内所(御城印)

 トイレ(トイレ)

 駐車場(駐車場)

 宿内公園駐車場(駐車場)

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