結城城(ゆうきじょう)

結城城の基本情報

通称・別名

臥牛城

所在地

茨城県結城市結城

旧国名

下総国

分類・構造

平山城

天守構造

築城主

結城朝光

築城年

寿永2年(1183)

主な改修者

水野勝長

主な城主

結城氏、水野氏

廃城年

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)

指定文化財

県史跡(結城御朱印堀)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

中久喜城(栃木県小山市)[4.2km]
小山城(栃木県小山市)[7.8km]
塚田城(栃木県小山市)[8.1km]
下館城(茨城県筑西市)[8.3km]
伊佐城(茨城県筑西市)[8.6km]
鷲城(栃木県小山市)[9.0km]
薬師寺城(栃木県下野市)[10.2km]
駒城(茨城県下妻市)[10.3km]
久下田城(茨城県筑西市)[10.8km]
関城(茨城県筑西市)[11.6km]

結城城の解説文



結城城(ゆうきじょう)は、茨城県結城市結城にあった日本の城。室町時代には結城合戦の舞台となった事で知られる。江戸時代には結城藩の藩庁が置かれた。結城市指定史跡[1]

概要 

小山下野大掾政光の四男朝光が、志田義広の乱制圧の功により結城郡の地頭職に補任され、当地に城を築いたのが結城城の始まりである。

その後、室町時代まで結城氏が引き続き拠ったが、永享12年(1440年)、永享の乱で敗死した鎌倉公方足利持氏の遺児春王・安王兄弟を擁立し、室町幕府に反旗を翻した。結城氏朝・持朝他反幕府方は結城城に篭城し、一年近く多勢の幕府方に抗したが、嘉吉元年(1441年)、氏朝・持朝は討ち死にし、結城城も落城、結城氏は一時没落することとなった

文安4年(1447年)、足利成氏が鎌倉公方再興を許されると、佐竹氏の庇護を受けていた氏朝の四男成朝が旧領に封じられ、結城城に入った。その後、江戸時代初頭まで結城氏の居城として用いられた。

小田原征伐後、結城家は徳川家康の次男秀康を養子として迎え、関ヶ原の戦いの後秀康が越前に移封となると、結城の地は一時天領となり、結城城も廃城となった。

廃城に際して、家康の命により結城城の御殿、隅櫓、御台所、太鼓櫓、築地三筋塀、下馬札を埼玉県鴻巣市の勝願寺へ移築され結城御殿と呼ばれた。移築された御殿は百十四畳敷きの大方丈「金の間」、九十六畳敷きの小方丈「銀の間」に分けられ。大方丈は将軍来訪の際に使用されたことから「御成の間」とも呼ばれた。また、「金の間」には家康の像が、「銀の間」には黒本尊と呼ばれる秀康の念持仏が置かれていた。さらに結城城下の華厳寺にあった鐘も移築された。

元禄13年(1700年)、水野家宗家筋の水野勝長が能登より1万8,000石で封じられ、以後明治維新まで水野氏10代がこの地を治めた。元禄16年(1703年)には結城城の再興が許され、築城が開始された。

戊辰戦争の際には佐幕派が城を占拠したため、新政府軍の攻撃を受け、城の建物は多くが焼失した。

歴史・沿革 

  • 養和元年(1181年)、志田義広の乱制圧の功により、結城朝光が結城郡地頭職に補任された。
  • 寿永2年(1183年)、朝光により結城城が築城される。
  • 永享12年(1440年)、結城氏朝が、敗死した足利持氏の遺児春王および安王を戴き、室町幕府に反旗を翻した。(結城合戦)
  • 嘉吉元年(1441年)、結城氏方が拠った結城城が落城し、氏朝・持朝父子は討ち死にした。
  • 文安4年(1447年)、佐竹氏の庇護を受けていた氏朝の四男成朝が成氏に取り立てられ、旧地に復した。
  • 天正18年(1590年)、小田原征伐において晴朝は豊臣氏方に付き、所領を安堵された。同戦役後、晴朝は秀吉の養子となっていた家康の長男秀康を養嫡子として迎えた。
  • 慶長6年(1601年)、秀康が越前に移封され、結城城は破却され、一時廃城となった。
  • 元禄13年(1700年)、水野勝長が当地に移封された。
  • 元禄16年(1703年)、水野氏が結城城の再興を幕府に願い出、結城城が再築城された。
  • 慶応4年(1868年)、佐幕派が結城城を占拠し、このため新政府軍に攻められ落城し廃城となった。
  • 昭和39年(1964年)、9月1日付で市指定文化財(史跡)に指定。

構造 

北に田川が流れ、東に深田が入り込む、台地北東端に占地する。西および南には田川の旧河道等を利用した堀が設けられ、台地との間を遮断している。

城域内部は、北東端の実城、実城西側の西舘、実城の南の中城、中館の更に南の東館、の大きく四つの郭に区分され、それぞれの郭間に深い堀が設けられている。堀の作りは全体的に直線的で単調であるが、中城の周りの空堀には折れが見られる。

考古資料 

遺構

現在城域は公園および宅地として開発されており、遺構の保存状態は必ずしも良くない。各郭間に設けられた堀も多くが失われたが、実城西から南および中城南西部に空堀が残る。また、中城の東から西館の西、および、東館の南から東に掛けて、それぞれ水堀の跡が残る。

結城城の口コミ情報

2024年08月12日 ぶらなおき
結城城



結城紬の大きな看板が目印になります。その奥に公園がありますが、城の面影はあまりなく、静かな広場になってます。

2024年05月12日 子路
玉日姫の墓[結城城  寺社・史跡]

参道は10m近く、石碑も5m近い、巨大なもので、浄土真宗への信仰の深さが、伺われます。

2024年02月03日 武蔵守のむげん
結城城



車は城趾のある北側に30台ほどの無料駐車場があります。目の前から幅の広い堀とそこそこの高さの土塁がお出迎え。城跡の中心部は公園となっておりました。少し南に行くと曲輪を仕切っていた堀跡が確認できました。後は各々の想像力を働かせてで思いを馳せてみましょう。

2023年09月03日 つか征夷大将軍
結城家御廟[結城城  寺社・史跡]



かつてこの地は、乗国寺末の福山慈眼院という曹洞宗寺院の境内で、結城氏歴代の御廟としてふさわしいものでした。 戦国時代の結城家十六代政勝は、鎌倉時代からの名門結城家の将来を託した嫡子明朝に先立たれ、世の無常を感じてか、出家し、自ら大雲藤長と名乗り僧となり、一五五三年慈眼院を創建しました。 御廟は、周囲に堀を構え、塚状に土を盛り、土塁を廻らし、床面には大谷石を敷き詰め、さらに塚全体に玉石を並べるなど、排水に細心の注意が施されています。その中に前壇を設け、初代・朝光から十六代・政勝に加えて明朝、さらに、 妙仙ほか無銘の二基を含めて、二十基の花崗岩製の五輪塔が並んでいます。
廃寺になってしまっているので、廟所と八尺堂がある程度です。

2023年09月03日 つか征夷大将軍
乗国寺[結城城  寺社・史跡]



結城家の十二代結城持朝、十四代結城氏広、十六代結城政勝の菩提寺です。ここには当主のお墓は無く、乗国寺結城家墓所として、御婦人方のお墓があります。

2023年09月02日 つか征夷大将軍
弘経寺[結城城  寺社・史跡]



寿亀山弘経寺は、浄土宗の名刹で桃山時代の文禄四年結城家十八代の城主結城秀康(徳川家康の子)が、その息女松姫追善供養のため、飯沼の弘経寺の住職檀誉上人を招いて建立したと伝えられているそうです。松姫のお墓があります。

2023年09月01日 つか征夷大将軍
伝・結城城大手門の移築門[結城城  遺構・復元物]



結城城の大手門を移築したものだと伝えられているそうです。しかし天保に大風で大破したと書いてあり、現在の門が修繕したものか新たに建てられたのかは不明です。

2023年09月01日 つか征夷大将軍
称名寺[結城城  寺社・史跡]



結城家初代結城朝光が仏門に入り持仏堂を造った後、親鸞の高弟真仏を開基として朝光の菩提寺となったそうです。説明板には朝光から4代のお墓があるみたいですが、朝光のお墓しかわかりませんでした。
山門の二条門は京都の二条家から譲り受けたそうです。他にも室町時代の門もあったり立派なお寺です。

2023年08月31日 つか征夷大将軍
結城蔵美館[結城城  御城印]



米倉を改築した建物で1階は貸ホールみたくなってますが、奥と二階はミニ資料館になっています。ここには天下三名槍の1つで結城晴朝愛用の槍である御手杵のレプリカもあります。

2023年08月31日 つか征夷大将軍
中世武家屋敷跡[結城城  周辺城郭]



現在は三蔵神社になっている所が中世武家屋敷跡だったと考えられているそうです。構造的には城の内遺跡や山川氏居館みたいに土塁と堀に囲まれただけの構造だった思われます。場所的にも結城氏系の物だと思われます。現地には特に案内板等は無かったです。遺構は北部に土塁があります。

2023年08月30日 つか征夷大将軍
城の内遺跡[結城城  周辺城郭]



堀と土塁によって長方形に区画された、中世の武家屋敷跡です。この屋敷跡は、鎌倉時代の初めに、結城氏初代の結城朝光によって作られて、室町時代に新たに結城城が築かれるまで、結城氏の館として維持されていたと考えられているそうです。近くにある結城四天王の1人である山川氏の館跡に似ている感じですね。土塁は北西部分は消滅してますが、それ以外はぐるっと囲んでます。空堀は浅いのが少しある程度です。

2023年08月03日 衛英下総守
結城城



朝一番で行ったこともあって、静かな感じの公園だった。

2023年04月23日 あきくん
結城城



駐車場から見える丘部分に小さな城跡公園がありますが、近くの小学校の塀の方がお城っぽいです。

2023年03月22日 ☆魅環右衛門督
結城城



公園です。藩主等の説明板は、有りましたが、城郭の説明等は有りませんでした。

2022年07月25日 おかっぴき
結城城

小高い丘の上に結城城があります。公園として使われており遺構は少ない。

2021年05月05日 織田上総介晃司
結城城

公園そばに数台停めれる駐車場があります。

遺構はほとんど残ってません。かろうじてこれが横矢かな〜と思う土塁と公園の前にある曲輪と内堀くらい。

2021年03月21日 武蔵守与作兵衛
結城城



遺構は少ないのですが、舘と西館を区切る内堀が往時を偲ばせ印象的でした。

2021年01月09日 篠沼大膳大夫義久
結城城



藤原秀郷流の武蔵太田氏から出でた小山政光。その3人の息子たちの三番目から始まる結城氏の結城城。結城合戦などを経つつ、結城秀康を養子に迎えて福井松平へ、か。故に常陸からは随分福井藩に流れたんですね。江戸氏や小田氏、太田資武や梶原政景…

2020年09月21日 kazuyou大蔵大輔
結城城



本丸一帯が城址公園となっていますが、土塁は見当たりません❗️公園を少し出たところに、内堀が残っています☝️これは幅が20メートルくらいあり、深さも6メートル程あります。その他の遺構は、住宅地の中に、虎口の跡や、堀跡が良く見ると残っています。トイレ🚻駐車場🅿️は完備されています。結城駅からだと、かなり歩きます。

2018年05月01日 だび
結城城

無料駐車場と24時間使用可能のトイレあり


2016年08月11日 土塁ルイ
結城城

何度か訪れ、城址公園内にある神社に由来を全く気にせずお参りしていましたが、この「結城聰敏(そうびん)神社」は、めぐラーにはお馴染みの水野勝成公(結城藩水野家初代)を祀った神社です。

水野勝成公を「聡明・俊敏」と称えて命名、福山市の聰敏神社より分霊されました。

結城城の周辺スポット情報

 内堀(遺構・復元物)

 空堀(遺構・復元物)

 伝・結城城大手門の移築門(遺構・復元物)

 堀跡(遺構・復元物)

 土塁外郭(遺構・復元物)

 曲輪と内堀(碑・説明板)

 城の内遺跡(周辺城郭)

 中世武家屋敷跡(周辺城郭)

 結城家御廟(寺社・史跡)

 聰敏神社(寺社・史跡)

 称名寺(寺社・史跡)

 弘経寺(寺社・史跡)

 乗国寺(寺社・史跡)

 玉日姫の墓(寺社・史跡)

 結城蔵美館(御城印)

 結城市観光物産センター(御城印)

 駐車場(駐車場)

 駐車場(駐車場)

「ニッポン城めぐり」を始めるには?

「ニッポン城めぐり」は、iPhone・androidの両アプリに対応。
利用料金は無料、アプリ内の課金も一切ナシ!いますぐ城めぐりを始めてみよう!

スマートフォンからのアクセス方法

app store app store  ■iPhone
 AppStore で「ニッポン城めぐり」を検索。

google play ■Android
 Google play で「ニッポン城めぐり」を検索。

スマホを持って城をめぐろう!スマホでお城スタンプラリーゲーム「ニッポン城めぐり」 ニッポン城めぐりとは? GooglePlay Appstore