結城城(ゆうきじょう)
結城城の基本情報
通称・別名
- 臥牛城
所在地
- 茨城県結城市結城
旧国名
- 下総国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 結城朝光
築城年
- 寿永2年(1183)
主な改修者
- 水野勝長
主な城主
- 結城氏、水野氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- 県史跡(結城御朱印堀)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
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結城城の解説文
[引用元:Wikipedia「結城城」の項目]結城城(ゆうきじょう)は茨城県結城市結城にあった日本の城。室町時代には結城合戦の舞台となった事で知られる。江戸時代には結城藩の藩庁が置かれた。
【概要】
小山下野大掾政光の四男朝光が、志田義広の乱制圧の功により結城郡の地頭職に補任され、当地に城を築いたのが結城城の始まりである。
その後、室町時代まで結城氏が引き続き拠ったが、永享12年(1440年)、永享の乱で敗死した鎌倉公方足利持氏の遺児春王・安王兄弟を擁立し、鎌倉幕府に反旗を翻した。結城氏朝・持朝他反幕府方は結城城に篭城し、一年近く多勢の幕府方に抗したが、嘉吉元年(1441年)、氏朝・持朝は討ち死にし、結城城も落城、結城氏は一時没落することとなった
文安4年(1447年)、足利成氏が鎌倉公方再興を許されると、佐竹氏の庇護を受けていた氏朝の四男成朝が旧領に封じられ、結城城に入った。その後、江戸時代初頭まで結城氏の居城として用いられた。
小田原征伐後、結城家は徳川家康の次男秀康を養子として迎え、関ヶ原の戦いの後秀康が越前に移封となると、結城の地は一時天領となり、結城城も廃城となった。
廃城に際して、家康の命により結城城の御殿、隅櫓、御台所、太鼓櫓、築地三筋塀、下馬札を埼玉県鴻巣市の勝願寺へ移築され結城御殿と呼ばれた。移築された御殿は百十四畳敷きの大方丈「金の間」、九十六畳敷きの小方丈「銀の間」に分けられ。大方丈は将軍来訪の際に使用されたことから「御成の間」とも呼ばれた。また、「金の間」には家康の像が、「銀の間」には黒本尊と呼ばれる秀康の念持仏が置かれていた。さらに結城城下の華厳寺にあった鐘も移築された。
元禄13年(1700年)、水野家宗家筋の水野勝長が能登より1万8,000石で封じられ、以後明治維新まで水野氏10代がこの地を治めた。元禄16年(1703年)には結城城の再興が許され、築城が開始された。
戊辰戦争の際には佐幕派が城を占拠したため、新政府軍の攻撃を受け、城の建物は多くが焼失した。
【歴史・沿革】
・養和元年(1181年)、志田義広の乱制圧の功により、結城朝光が結城郡地頭職に補任された。
・寿永2年(1183年)、朝光により結城城が築城される。
・永享12年(1440年)、結城氏朝が、敗死した足利持氏の遺児春王および安王を戴き、室町幕府に反旗を翻した。(結城合戦)...[続きを見る]
結城城の口コミ情報
2021年03月21日 与作兵衛
結城城
遺構は少ないのですが、舘と西館を区切る内堀が往時を偲ばせ印象的でした。
2021年01月09日 篠沼兵部大輔義久
結城城
藤原秀郷流の武蔵太田氏から出でた小山政光。その3人の息子たちの三番目から始まる結城氏の結城城。結城合戦などを経つつ、結城秀康を養子に迎えて福井松平へ、か。故に常陸からは随分福井藩に流れたんですね。江戸氏や小田氏、太田資武や梶原政景…
2020年09月21日 kazuyou宮内大輔
結城城
本丸一帯が城址公園となっていますが、土塁は見当たりません❗️公園を少し出たところに、内堀が残っています☝️これは幅が20メートルくらいあり、深さも6メートル程あります。その他の遺構は、住宅地の中に、虎口の跡や、堀跡が良く見ると残っています。トイレ🚻駐車場🅿️は完備されています。結城駅からだと、かなり歩きます。
2018年05月01日 だび
結城城
無料駐車場と24時間使用可能のトイレあり
2016年08月11日 土塁ルイ
結城城
何度か訪れ、城址公園内にある神社に由来を全く気にせずお参りしていましたが、この「結城聰敏(そうびん)神社」は、めぐラーにはお馴染みの水野勝成公(結城藩水野家初代)を祀った神社です。
水野勝成公を「聡明・俊敏」と称えて命名、福山市の聰敏神社より分霊されました。