関城(せきじょう)

関城の基本情報

通称・別名

所在地

茨城県筑西市関舘

旧国名

常陸国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

関(結城)朝泰

築城年

建久3年(1192)

主な改修者

主な城主

関氏

廃城年

遺構

曲輪、横堀(空堀)、土塁、坑道跡

指定文化財

国史跡(関城跡)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

大宝城(茨城県下妻市)[2.4km]
駒城(茨城県下妻市)[3.9km]
多賀谷城(茨城県下妻市)[4.6km]
海老ヶ島城(茨城県筑西市)[7.0km]
下館城(茨城県筑西市)[10.1km]

関城の解説文

筑西市の南端にあり、東・南・西の三方が大宝沼に囲まれ、北部は台地続きで数重の土塁と東から西側の大宝沼に通じる堀割をめぐらせ、天然の要害地とした城郭。

延元元年(1336)後醍醐天皇が神器を奉じて吉野に入ってから朝廷は二つに分かれ相争うこととなり、吉野朝を南朝、京都朝を北朝として南北朝時代の動乱が幕開けした。

延元3年(1338)南朝方は奥羽地方の兵力を結集して再興を計ろうと、義良(よしなが)親王を奉じ、その補佐役の北畠親房らとともに伊勢を出航したが、途中暴風に遭い四散し、親王の船は伊勢に吹き戻され、親房の船は常陸東条浦に漂着した。

いくつかの城を経て小田城に入った親房のもとに、関宗祐父子も馳せて北朝軍と戦った。この時、後醍醐天皇の崩御と義良親王の即位を知り、親房はここで神皇正統記などを執筆した。

その後、小田城は高師冬軍に攻められ城主小田治久が北朝軍に降ったために、親房は関城に入り、関宗祐父子は大宝城主下妻政泰とともに北朝軍と戦った。

関城を巡る攻防戦の中で親房は神皇正統記を完成させたが、四方に敵を受けた関宗祐は、ここで親房を重囲の中から吉野に脱出させた。

興国4年(1343)11月11日、関城は大宝城とともについに落城し、宗祐父子も城と運命を共にしたと伝えられる。

関城跡には、関宗祐父子の墓と伝えられる宝篋印塔(ほうきょういんとう)があり、墓の南側には「関城之碑」(明治3年建立)もある。小山弘の文になるこの碑は、宗祐と親房の偉業を讃えている。

また、この墓前域においては、地域の人たちによって落城の日を命日として墓前祭が行われている。ほかに坑道跡や土塁、堀も残され往時を偲ぶことができる。

情報提供:筑西市教育委員会文化課

関城の口コミ情報

まー蔵人頭様[2016年01月01日]
城址石碑から歩いて200m手前にだだっ広い駐車場があります。路駐はせずここに停めで下さい。簡易トイレ設置有り。駐車場から城跡に向かうと坑道跡の矢印板が左手を指しています。そこから150mほど行くと現在は立入禁止で中を覗く程度です。城跡に進んでいくと個人宅に土塁と堀跡があります。最近伐採・除草したせいかよくわかります。『忠誠』と書かれた忠魂碑が右手にあり更に進むと左手に城址石碑並びに設置板有り。関宗佑のお墓も有ります。

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