関城(せきじょう)
関城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 茨城県筑西市関舘
旧国名
- 常陸国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 関(結城)朝泰
築城年
- 建久3年(1192)
主な改修者
- -
主な城主
- 関氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)、坑道跡
指定文化財
- 国史跡(関城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
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関城の解説文
関城の口コミ情報
2024年02月08日 RED副将軍
関城
関東六城のひとつに数えられる南朝方の拠点🏯
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
1192年に関朝泰により築城。
関氏は、承久の乱で活躍し検非違使となった有力鎌倉御家人である結城朝広の四男の結城朝泰が常陸国真壁郡関荘を領して関氏を称したのが始まりとされ、関城を築いて居城としました。
南北朝時代の城主は関宗祐で、北畠親房に呼応して南朝方として挙兵。関城は真壁城や大宝城とともに関東六城のひとつとして南朝方の重要拠点として機能しました。
1341年に北畠親房は開城間近の小田城から関城へ移ったことにより、1343年に北朝方の足利尊氏の家臣である高師冬が攻め寄せ関城と大宝城は同日に落城したとされます。
見所
かつては大宝沼に突き出た半年状の台地上に築かれていたとされ、天然の要害を利用し、さらに幾重の土塁と空堀が巡らせていた様です。
現在は宅地や耕作地となり大半が消失していますが土塁と堀跡が集落内に点在しています。
また、関城の攻防で城外から掘られた坑道といわれる横穴も残ります。
国史跡に指定されており専用駐車場も完備しています。
2023年04月24日 あきくん
関城
関城通り沿いにあります。デイリーヤマザキ関舘関城店を目印に行くとわかりやすいです。
2021年06月06日 puru下総守堀戸道光暇有
関城
関宗祐の墓標の隣に、敵方の結城直朝の墓標もあり。大宝城とは南北朝時代に南朝方として最後をむかえる。関氏も結城氏も同族なのに。
2021年04月27日 嘘つき宰相アベ
関城
かっての関城町(昭和31年)の町名のもとになった南朝方の城跡(現在筑西市)。駐車場に関城跡散策マップあり。
2020年09月13日 kazuyou大蔵大輔
関城
関城跡見学用の駐車場🅿️あり☝️パンフレットもあります☝️ほとんどが民家の敷地に土塁、空堀等があるので、声をかけてから見学すると良いでしょう😃民家の敷地に大土塁が残っています☝️
2019年05月29日 感謝修理大夫はる ◢͟│⁴⁶
関城
高台が関城跡。大宝城跡の杭が打ってありますが、その田んぼ一帯は昔、大宝沼だったらしく、大宝城の史跡となっているとの事です。
2019年05月29日 感謝修理大夫はる ◢͟│⁴⁶
坑道跡[関城 その他]
南北朝時代、北朝の高師冬が関城の物見櫓を攻め落とす為に地下道を掘った跡
2016年01月01日 まー刑部卿
関城
城址石碑から歩いて200m手前にだだっ広い駐車場があります。路駐はせずここに停めで下さい。簡易トイレ設置有り。駐車場から城跡に向かうと坑道跡の矢印板が左手を指しています。そこから150mほど行くと現在は立入禁止で中を覗く程度です。城跡に進んでいくと個人宅に土塁と堀跡があります。最近伐採・除草したせいかよくわかります。『忠誠』と書かれた忠魂碑が右手にあり更に進むと左手に城址石碑並びに設置板有り。関宗佑のお墓も有ります。
延元元年(1336)後醍醐天皇が神器を奉じて吉野に入ってから朝廷は二つに分かれ相争うこととなり、吉野朝を南朝、京都朝を北朝として南北朝時代の動乱が幕開けした。
延元3年(1338)南朝方は奥羽地方の兵力を結集して再興を計ろうと、義良(よしなが)親王を奉じ、その補佐役の北畠親房らとともに伊勢を出航したが、途中暴風に遭い四散し、親王の船は伊勢に吹き戻され、親房の船は常陸東条浦に漂着した。
いくつかの城を経て小田城に入った親房のもとに、関宗祐父子も馳せて北朝軍と戦った。この時、後醍醐天皇の崩御と義良親王の即位を知り、親房はここで神皇正統記などを執筆した。
その後、小田城は高師冬軍に攻められ城主小田治久が北朝軍に降ったために、親房は関城に入り、関宗祐父子は大宝城主下妻政泰とともに北朝軍と戦った。
関城を巡る攻防戦の中で親房は神皇正統記を完成させたが、四方に敵を受けた関宗祐は、ここで親房を重囲の中から吉野に脱出させた。
興国4年(1343)11月11日、関城は大宝城とともについに落城し、宗祐父子も城と運命を共にしたと伝えられる。
関城跡には、関宗祐父子の墓と伝えられる宝篋印塔(ほうきょういんとう)があり、墓の南側には「関城之碑」(明治3年建立)もある。小山弘の文になるこの碑は、宗祐と親房の偉業を讃えている。
また、この墓前域においては、地域の人たちによって落城の日を命日として墓前祭が行われている。ほかに坑道跡や土塁、堀も残され往時を偲ぶことができる。