多気城(たきじょう)

多気城の基本情報

通称・別名

多気山城、城山城

所在地

茨城県つくば市北条

旧国名

常陸国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

平維幹?

築城年

平安時代中期

主な改修者

主な城主

多気氏

廃城年

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)

指定文化財

再建造物

周辺の城

小田城(茨城県つくば市)[4.2km]
海老ヶ島城(茨城県筑西市)[9.5km]
真壁城(茨城県桜川市)[10.4km]
大宝城(茨城県下妻市)[10.7km]
多賀谷城(茨城県下妻市)[11.1km]
柿岡城(茨城県石岡市)[11.2km]
豊田城(茨城県常総市)[11.8km]
関城(茨城県筑西市)[12.2km]
志筑城(茨城県かすみがうら市)[13.0km]
土浦城(茨城県土浦市)[14.7km]

多気城の解説文



多気城(たきじょう[1]・たけじょう[2])は、茨城県つくば市北条小字多気(常陸国筑波郡多気)にあった日本の城。多気山城(たきさんじょう)・城山城(じょうやまじょう)とも称する[3]。現存する史料や遺物が少なく、謎の城とされてきた。

概要 

城山(じょうやま)と通称される多気山(たけやま[4]、標高約129.4m)に築かれた山城の跡で、4つの曲輪があり、それらを堀や土塁が囲んでいる[5]。その外側には大きな堀の跡があり、南には土橋の跡も見つかっている[6]。4つの曲輪のうちI〜III曲輪は連なりあって多気山の山頂から中腹にかけて広がり、IV曲輪は少し離れて多気山と西隣の道場山との間にある。『筑波町史(上巻)』では「保存状態が比較的良好であり、当地方の戦国史解明の重要な手掛り」と記載している。

歴史 

平安時代中期に常陸平氏の宗家である大掾氏の平維幹が常陸国筑波郡水守から多気の地に移り築いた城とする説があり、『吾妻鏡』に登場する「多気の山城」とは維幹が築いた多気城とされる[7]。しかしながら、現存する大規模な城郭遺構は戦国時代、特に永禄から慶長にかけてのものと考えられており[8]、茨城城郭研究会は、平安時代の城跡に大改修を施したものであろう、としている。維幹の子孫は代々多気氏を名乗ってこの地で勢力を持っていたが、1193年(建久4年)、6代の多気義幹の時、八田知家らの策略にはまり没落した(建久の変)。義幹は今も北条地区の住民から「たきたろさま」と呼ばれ、親しまれる。発掘調査では、室町時代頃のものと思われる土師質土器が見つかっているが[9]、多気義幹の死からこの時代までの多気城の様子は不明である。

現時点では戦国時代に純軍事目的で築城されたことが推察され、文献史料でも1559年(永禄2年)に結城氏が小田氏側の北条を攻め、1572年(元亀3年)に北条付近で造作が行われていること、1579年(天正7年)に「嶽山再興」の記録がある程度である。これまでに出されてきた築城の理由には、以下のような説がある。 1.北条五郎顕家の館とされる小泉館の詰めの城だった 2.上杉謙信または佐竹義重が小田城を攻めるために築いた 3.佐竹義宣が関ヶ原の戦いの前後の緊迫した状況で築いた

戦国時代以降の出土遺物はわずかで[10]、同時代の陶磁器は発掘されていない[11]。このことや、火災の痕跡・鉄砲玉などの戦闘形跡も見られないことから、最終期にはあまり使用されなかったと推測されている。

現況

現地は山林になっている。多気山では採石が行われていたため、城郭の南西部の地形は往時に比べ大きく変形している。

周辺地域の環境 

つくば市北条や平沢周辺には筑波郡衙跡とされる平沢官衙遺跡を始め、古墳時代から古代にかけての遺跡が集中している[12]。北条には多気太郎(多気義幹)の墓とされる五輪塔や多気氏が整備した裏堀が残されている。また京都府宇治市の平等院に似た構造を持つ日向廃寺という寺院跡の遺跡もある[13]。こうしたことから北条・平沢は古代から中世初期に地域の中心的位置を占め、中世期も小田に次ぐ地位にあったと考えられる。

参考文献 

  • 石橋充・関口友紀『つくば市内重要遺跡 ―平成13年度試掘・確認調査報告―』つくば市教育委員会、平成14年3月22日、22pp.(図版6pp.)
  • 石橋充・広瀬季一郎『つくば市内重要遺跡 ―平成14年度試掘・確認調査報告―』つくば市教育委員会、平成15年3月28日、20pp.(図版4pp.)
  • 城城郭研究会『図説 茨城の城郭』国書刊行会、平成18年10月20日、291pp. ISBN 4-336-04771-5

多気城の口コミ情報

2025年08月13日 マグロ常陸介祐平
平沢官衙[多気城  寺社・史跡]



平沢官衙遺跡は、奈良時代から平安時代の筑波郡の郡衙で、郡庁や税を保管するための正倉などが建っていました。貴重な遺跡ということで、国史跡に指定されています。

遺跡は、歴史ひろばとして整備されており、校倉2棟と土壁双倉の3棟が復元されています。周囲には堀(写真2,4枚目)がありますが、防衛面ではあまり機能しているとは思えない浅く広いものです。案内所には、僅かですが出土品も展示されています。訪問当日は子供が工作をしていました。

周辺には池もあり、景色の良い場所です。

2025年08月13日 マグロ常陸介祐平
北条城[多気城  周辺城郭]



小田氏の一族、北条氏の居城と伝わります。北条氏は八田知家の七男の高野伊賀守時家の孫の北条伊賀守知員を初代とし、戦国期の治高まで続いたとされています。東国闘戦見聞私記によると、元亀3年(1572年)小田氏から離反した北条治高は、佐竹氏の家臣となった太田資正らと小田城を攻めとったとしています。その後治高は小田氏の偏諱を捨て氏高と改名しますが、天正2年に小田氏の家臣菅谷政貞に敗れ討死したとされています。高野山清浄心院常陸供養帳に、天正12年に北条筑前守の息女の戒名が見られ、大子町の愛宕神社の天正13年の棟札に佐竹義宣と共に寄進者のひとりとして北条伊賀守の名が見られるとの事なので、別系統の北条氏かもしれませんが、北条氏はその後も存続し佐竹氏に従っていた可能性もあるようです。また、北条城は真壁氏の傘下となった際に、真壁氏の陣代として大沢氏が城主になったとする説もあるようです。多気城の麓に建つ宝安寺(写真8枚目)は、真壁にある伝正寺の僧が開山、大沢安房守重房が開基と伝わります。

お城は、平成30年に廃校となった北条小学校付近とされています。はっきりとした遺構は見られませんが、独立した台地にあり、南側には稲荷神社のある腰郭状の削平地となっており、城郭的な雰囲気は感じられます。昭和に行われた発掘調査では、堀が確認されていますが、城館に関するものかは不明のようです。

2025年08月12日 マグロ常陸介祐平
北条陣屋[多気城  周辺城郭]



常陸北条藩の陣屋となります。織田氏家臣の佐久間盛次の4男佐久間勝之は、初め叔父の柴田勝家の養子となり、後に佐々成政の娘を娶り成政の養子になりますが、成政が秀吉に敗れると妻を離縁して小田原北条氏の家臣となり、北条氏滅亡後は潜伏期間を経て秀吉に召し出され、蒲生氏郷の寄騎となり、佐久間に姓を戻します。氏郷が亡くなると秀吉の元に戻ります。関ヶ原では東軍につき、慶長12年に北条に3000石を加増されて1万石となり北条藩を立藩、北条の地に陣屋を置いたとされています。江戸定府の為、藩主が常駐することは無かったようです。元和元年(1615年)、大坂の陣の戦功により8000石を加増され、秀吉からもらうはずだった信濃長沼に移封し、一旦陣屋は廃されます。佐久間勝之は知名度は低いですが、なかなかの経歴です。

その後、北条の地は堀田正盛の知行地となり、正盛が将軍家光に殉死すると4男正英が北条の地を分知されて5000石の旗本となります。この時点で、陣屋が築かれたかは不明ですが、その後加増を重ね、若年寄に任じられた翌年の天和2年(1682年)に1万3000石となり北条藩を立藩しています。貞享5年(1688年)に正英が亡くなると遺領は3人の子に分知され大名の地位を失い、相続のトラブル?により長男正親分8000石は公収されるも、北条の地は3男正章に引き継がれ、陣屋も何らかの形で残ったとされるようです。

陣屋は、多気城のすぐ下、つくば市指定史跡の日向廃寺跡付近とされるようですが、遺構は見当たりません。現地に設置された説明板は廃寺のもので、京都の宇治平等院鳳凰堂に似た、左右に回廊をもつ阿弥陀堂建築が建っていたようです。その他、出土した瓦や廃寺を創建したと推測される多気氏に関する記述はありますが、陣屋にはふれていません。発掘調査では、陣屋としての遺構や遺物は検出されなかったのでしょうか。遺跡名としては「北条御陣屋遺跡」とされ、範囲は廃寺を指す「北条日向遺跡」と重なっていますが、大名陣屋で何も検出されないのは、なんとも不思議です。

陣屋跡の東側には、つくば市指定工芸品の毘沙門天種子板碑が見られます。

2025年08月11日 マグロ常陸介祐平
多気城



関東七名城のひとつとされるお城です。こちらのサイトでは、8つのお城が「関東七名城」とされていますが、そもそもわかりづらい括りですね。関東七名城の出典は、上杉家に仕え、後に永井氏に仕えた夏目軍八定房が作者の「管窺武鑑」とされていますが、小田原の役の際の岩槻城攻めにおいて、「此城は、関東七箇の名城の内なり。佐野の唐沢山・新田の金山・佐竹の太田山、其は山城なり。武州の忍・下野の宇津宮武州の河越・上州の厩橋、之は平城なり。七箇の名城といふ事は、終に攻落されずといひ伝ふる。尤も地に依り、縄帳に依つて、名城にて落ち難しと雖も、武道の吟味は、堅固の城なりとも、守る人の一致せずば、守り難し。」としており、多気城の名は見当たりません。どのような経緯で多気城は「関東七名城」入りを果たしたのでしょうか。

多気城は、平安時代中期に大掾(平)維幹が水守城から移ったとの伝承があり、吾妻鏡に登場する「多気の山城」はこのお城を指すとされています。維幹の子孫多気氏は鎌倉時代初期には没落したようで、戦国期の遺構が残るとされる多気城との繋がりは、よくわかっていないようです。茨城県の中世城館の参考文献では、真壁道無書状を載せますが、年代不明で、昨年秋に陣を田之木山を移したときのもの1通のみで、田之木山が多気城を本当に指しているのかも推定のようです。また、後世のものと思われますが「明光院記」という書物には、「天正7年7月24日ヨリ北条嶽山再興」の一文があり、佐竹氏による多気城改修を指していると考えられているようです。発掘調査によると、16世紀後半の遺物や建築物の跡などは検出されていないとのことで、改修後にほとんど使用されなかった可能性があるようです。個人的な想像ですが、小田氏の一族の北条氏の城とされる北条城が南東の山麓にあり、北条城の詰城(今残る遺構は佐竹氏の改修かもしれない)と考えるのが自然ではないかと思います。

お城は広大で、遺構がよく残るようですが、立ち入り禁止となっており、見ることはできません(写真5,6枚目は遠景)。お城に近い位置に建つ熊野神社(写真1枚目)の背後左側に竪堀状の窪み(写真2枚目)が見られますが、気のせいだと思われます。

お城の麓に建つ無量院(写真3枚目)は建久元年(1190年)に多気太郎義幹の創建とされ、200m程南には、伝多気太郎義幹墓(写真7,8枚目)が建っています。また、無量院の本堂裏には、移動されたもののようですが小田氏の支流中久木氏の多層塔(写真4枚目)が見られます。

2025年08月11日 マグロ常陸介祐平
水守城[多気城  周辺城郭]



将門記に登場する水守営所とされ、平国香の子の良正がこの地に館を構え、後に貞盛の弟の繁盛の子の常陸大掾維幹が居館したとされます。維幹は、多気城を築いて移っています(平安時代中期)。部分的な発掘調査では、14~15世紀のかわらけが出土しており、維幹の時代のものは出ていないようです。

小田家風記には、水守城主水守民部一万二千石、廻座衆水守小源治三百石とあり、東国闘戦見聞私記には、元亀元年(1570年)結城氏との戦いにおいて小田方として大曽根の砦に籠った武士に水守六郎の名が見られることから、戦国期には、水守氏が城主だったのかもしれません。

お城は、舌状台地の縁に位置しており、単郭のようですが南北・東西約300mと広いお城のようです。お城の西側半分は、廃校になった小学校で、立ち入り禁止となっています。北側には道路から少し入ったところに城址碑が立ち、背後には土塁ではなく塚があります(写真1~3枚目)。お城の中央を貫く道路の南側には橋があります。橋は元々土橋があった場所で、橋の左右は、藪で見づらいですが規模のある空堀となっており、東の堀には突き出した櫓台と思われる土山が確認できます(写真4,5枚目)。

2025年08月10日 マグロ常陸介祐平
佐城[多気城  周辺城郭]



城主や来歴など不明のお城です。永禄12年(1569年)の佐竹氏による小田城攻めの際に、「歴代古案」に「佐村へ移陣」、「上杉文書」に「号三村(佐村)地ニ被御陣取」とあり、佐城が上杉方の陣として利用された可能性があるようです。

お城は、県道沿いの舌状台地の先端に位置しています。お城の南西側に城域への入り口があり(写真1枚目)、行き止まりまで行くと、薮に突き当たります。薮の先には、土が露出した土塁が見えますが(写真2,3枚目,写真ではなにもわからない)、余程の猛者出ない限り侵入できる感じではなく、断念しました。

ネット上でも、写真は少なく(無いわけではありません)、難攻不落のお城と思われます。

2025年08月10日 マグロ常陸介祐平
若森城[多気城  周辺城郭]



中世から近代まで使用されたお城です。築城時期等は不明ですが、後世の軍記物の東国闘戦見聞私記に、元亀元年(1570年)結城氏との戦いにおいて小田方として大曽根の砦に籠った武士に玉取の佐藤氏と共に、若森の佐藤弥左衛門とあることから、佐藤氏が初期の城主かもしれません(多賀谷氏の家臣、白井氏が城主の説もあるようです)。永禄12年(1569年)の小田城をめぐる攻防戦で、佐竹義重が若森に陣を敷いており、若森城が使用された可能性があるようです。

江戸時代になると、堀田正信の弟で、近くの北条藩主となっていた正英の次男正矩が3000石を分知され、若森城の二郭に陣屋を構えています。

文久3年(1863年)に陣屋は撤去され、空き家になっていましたが、明治2年に常陸・下総国内の天領と旗本領を管轄とする若森県の県庁が設置されています。明治4年に県の統廃合により新治県に統合されると、役目を終えています。

お城は、舌状台地の先端に位置し、3つの郭で構成され、遺構もよく残っているようですが、私有地の為、立ち入り禁止となっています。

2021年02月12日 お太閤
若森城[多気城  周辺城郭]

若森県庁の説明板があります。
堀と土塁が残る。

2021年02月12日 お太閤
北条陣屋[多気城  周辺城郭]



日向廃寺跡は、江戸時代初期にあった北条藩の陣屋跡。
説明板には日向廃寺のみ記載されている。

2015年09月16日 武蔵守道灌?!
多気城

常陸多気城!!…下野の多気山城をリア攻めした後で、隣国常陸に似たような名前の多気城というのがあるのに気づき、気になっていました♪(^^)

しかし残念ながら…私有地で立ち入り出来ないので、麓を少し歩いて見ましたが、それらしき遺構は…やはり中に入らないと無さそうでした!?(^^;

2014年06月13日 野舘宮内少輔サラマンダー
多気城

本日、筑波温泉ホテルという所で温泉に入りに来たので、攻略を押したら新しい城になった事が分かり、行ってみようと思ったのですが、データが乏しかったので、市に連絡してみました〜

聞いてみた所、城跡の土塁等はあるが、私有地の為入山不可、石碑等も無く、麓の神社等もその時代のものでは無いらしいです…

パンフレット等も作る予定は無いそうです

とても残念です…

多気城の周辺スポット情報

 多気太郎墓(碑・説明板)

 北条陣屋(周辺城郭)

 若森城(周辺城郭)

 水守城(周辺城郭)

 佐城(周辺城郭)

 北条城(周辺城郭)

 小泉館(周辺城郭)

 無量院(寺社・史跡)

 平沢官衙(寺社・史跡)

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