柿岡城(かきおかじょう)
柿岡城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 茨城県石岡市柿岡(柿岡小学校)
旧国名
- 常陸国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 柿岡時家
築城年
- 建久3年(1192)
主な改修者
- -
主な城主
- 柿岡氏、梶原氏、真壁氏、長倉氏、国分氏、立花氏、稲葉氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- 市史跡(柿岡城址)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
志筑城(茨城県かすみがうら市)[6.5km]
難台山城(茨城県笠間市)[7.7km]
真壁城(茨城県桜川市)[8.5km]
府中城(茨城県石岡市)[8.7km]
石岡城(茨城県石岡市)[10.1km]
多気城(茨城県つくば市)[11.2km]
小田城(茨城県つくば市)[12.3km]
湯崎住吉城(茨城県笠間市)[13.9km]
宍戸城(茨城県笠間市)[14.4km]
海老ヶ島城(茨城県筑西市)[14.4km]
柿岡城の口コミ情報
2024年11月08日 下総守風林火山
柿岡城
細い道を入って小学校の近くにありました。
2024年11月01日 マグロ常陸介祐平
柿岡城
舌状台地の先端に築かれたお城で、現在は小学校や子育て支援センター、保育園などの公共施設となっています。小学校と支援センターの間の道を進むと、部分的ですが高さのある土塁が見られます。その先には空堀も残っているようですが、よく分かりませんでした(写真1~7枚目)。
お城は、八田知家の子の時家が建久3年(1192年)に築いたとされ、子孫が柿岡氏を名乗り約300年間、この地を治めたようです。柿岡氏は、関東幕注文にも記載され、家紋は小田氏と同じ洲浜を用いており、一門で重臣だったことがわかります。その後、この地域は佐竹氏の支配下となり、柿岡氏も従いますが衰退し、城主は太田資正の子の梶原政景、真壁房幹、長倉義興(今も残る善慶寺は長倉氏の菩提寺,写真8枚目)、国分盛重と目まぐるしく代わります。
慶長7年(1602年)に佐竹氏が秋田に移ると間をあけて、慶長19年(1614年)立花宗茂の弟の直次が5000石で柿岡城に入り、寛永元年(1624年)になると春日局の子の稲葉正勝が5000石を加増され柿岡藩を立藩しますが、父正成の死去により真岡藩を継ぐと柿岡城は廃城となったようです。
2024年10月31日 マグロ常陸介祐平
諏訪山砦[柿岡城 周辺城郭]
小幡堀ノ内館から北西に1.8kmにある支城の一つで、吉生砦からは西に800mと近い距離に位置します。
主郭(曲輪1)は南北約40m、東西約80m程の広さで、南側から西側にかけて土塁が残り、南側に虎口、西側には広めの空堀、東側にはかなり薄めの空堀が見られます。主郭の東西に曲輪2と曲輪3の削平地がありますが、不明瞭な感じです。砦の南側は谷になっており、要害の地という感じを受けます。
小田氏略系譜という書物に、「小幡城、茨城郡小幡字諏訪山にあり」とあり、茨城郡の小幡城にいた小幡隼人正光重の七代の孫重高が、大掾詮幹の三男義幹に攻められ、新治郡の小幡城(小幡堀ノ内館?)に退いたと書かれているようですが、この砦の住所は「吉生字諏訪山」なので、ひょっとすると冒頭の茨城郡小幡字諏訪山は、退去後に居住した新治郡の誤記でこの砦を指しているのではないかと勘ぐってしまいます。
この砦は単純な縄張りですが、居館のようにも感じられます。
訪れたのが休日の為、近くにある吉生砦に入れなかったのが残念でした(学校の裏側で許可が必要のようです)。
2024年10月30日 マグロ常陸介祐平
小幡堀ノ内館[柿岡城 周辺城郭]
Googleマップでは、諏訪山館跡となっており、西に800mほど離れた薬王院(写真8枚目)が堀ノ内館跡となっているためややこしい感じです。小幡の交差点にあるセイコーマート八郷小幡店の裏側に切岸らしきが見られ、その西側にはやや高さのある土塁の残欠が確認出来ます(写真1~7枚目)。茨城県の中世城館では、小字名「堀ノ内」の集落一帯が館跡と考えられ、東西500mの壮大な規模と考えられるとしています。周辺にある吉生砦、諏訪山砦、須釜館、数俵城は、この館の支城とされています。
城主は、小田氏二代目知重の三男光重がこの地に居住して小幡を名乗り、後に茨城町の小幡城(このサイトの登録城で遺構の状況はきわめて良好なオススメのお城です)に移ったとする説、光重の子の光義が茨城町の小幡城から移って来た説、茨城町の小幡城の城主小幡重高が大掾詮幹の三男義幹に攻められこの館に退き、義幹が茨城町の小幡城の城主となり小幡を名乗ったとする説などがあるようで(いずれも系図が根拠のようです)、全て茨城町の小幡城と関連しているのが不思議な感じです。いずれにしてもお城から1.8kmほど西にあったとされる十三塚は、この地の領主小幡道三が小田氏治と太田資正が戦った際の死者を葬った所とされていることから、小幡を名乗るものが城主だったと思われます。
2024年03月31日 RED副将軍
吉生砦[柿岡城 周辺城郭]
大規模な箱堀が巡る砦跡
オススメ度 ★★★★⭐︎
吉生砦(よしうとりで)と読みます。
築城年代は不詳。永禄年間(1558年〜1570年)に小幡入道道三により築かれた城砦のひとつと云われます。
小幡氏の居館である堀ノ内館から北東に約800mに位置し、小幡氏の北方防備のために築かれた拠点と考えられています。
小幡氏は小田氏の重臣であり、城持武将12人のうちのひとりに数えられました。
見所
川又川と小倉川に挟まれた台地先端に築かれており、主郭の西側一段下に二郭を備えたシンプルな縄張りの砦です。
しかし砦とはいえ周囲を最大で深さ約5m、幅約10mの大規模な箱堀が巡るのが特徴です。
非常に残存度が高く、整備もされているオススメ城です。
行き方は、吉生小学校のグラウンド奥が城域です。
但し、小学校敷地内ですのでお断りを入れる必要があります。
2023年07月09日 マグロ常陸介祐平
片野城[柿岡城 周辺城郭]
嫡子である太田氏資に岩槻城を追放された太田資正が佐竹義重を頼り築城したお城です。資正の子の資武が結城秀康のもとに去り、佐竹一族の石塚氏が城主となり、江戸時代に入っては元織田信雄の家老滝川雄利が2万石で入っています。
主郭の入口には土塁と案内板があり、畑を進むと土橋があります。土橋の左手は民家ですが、右手は深い空堀が確認できます。土橋の先に主郭があるようですが、雑草が腰の高さまで育っており断念しました。
案内板の向かいには、城の守護神として佐竹郷から勧請された七代天神社、少し下った所には郭内に建立された太田資正の墓がある浄瑠璃光寺、さらに下った所には、滝川氏の墓(山県大弐の墓のとなり)がある大寧寺があります。
2022年07月25日 maki156
柿岡城
小学校があり歴史に携わる事ができる。こんなものかなと思うが行ってみる価値あり。
2022年02月11日 昌幸近江守晩秋リア旅
二条山館[柿岡城 周辺城郭]
石岡市宇治会(うじえ)にある二条山館(にじょうやまだて)別名:宇治会館。
城主は小田氏被官の路川氏だったが佐竹氏に追い出され、同氏の地域支配のために改修の後、現在の姿になったと言われます。
比高30mの丘陵という築城に適さない地形に三重堀、いや三段堀(高低差あり)を配した技巧的な城です。残念ながらかなりの薮なので「これが1つめ、これが2つめ…」と確認しながらの見学になりますが(笑)
主郭は北側に前述の三重堀、東西は深い横堀があり、南側はニ郭と土橋で繋がっています。
二郭は東西南三方に竪堀を配してます。
車は近くの源照寺に停めました。そこから10分以内で城郭に着きます。
【写真の説明】
①三重堀1条目。しっかり残ってます。当時はもっと深かっただろうなあ。
②三重堀2条目。微妙…
③三重堀3条目。凹みが分かる。
④主郭西側の横堀。
⑤主郭南東側、堀の折れ。
⑥主郭-ニ郭間の土橋。
⑦ニ郭横堀。左の虎口へと誘う。
⑧ニ郭南側の竪堀。
2021年05月17日 つか征夷大将軍ぽ
柿岡城の碑[柿岡城 碑・説明板]
高台になっている学校内にあります。平日など学校ある日は気を付けましょう。
2021年05月17日 つか征夷大将軍ぽ
土塁[柿岡城 遺構・復元物]
土塁の一部が残ってます。南側には堀跡があります。
2021年05月11日 つか征夷大将軍ぽ
片野城 堀切[柿岡城 遺構・復元物]
深く広いですが整備されてないので降りるのは難しい
2021年05月11日 つか征夷大将軍ぽ
片野城 堀切[柿岡城 遺構・復元物]
丁度太田資正のお墓の裏ぐらいにあり道路からはっきり見えますが不法投棄のゴミが多くあり残念です
2021年05月11日 つか征夷大将軍ぽ
七代天神社[柿岡城 寺社・史跡]
片野城の曲輪の1つです。
参道は南側になりますが北側も通路があります。
2021年05月11日 つか征夷大将軍ぽ
浄瑠璃光寺[柿岡城 寺社・史跡]
太田資正のお墓があるお寺です。
地図に名前が出て来なかったりします。
車を停めるスペースはあります。
2021年01月24日 国府左京大夫城介
片野城[柿岡城 周辺城郭]
片野城へのアクセス方法
石岡駅から柿岡車庫行きで、根小屋入口で下車し、徒歩20分程となります。
登城口は、七代天神社を目安にしてください。車はその付近に路上駐車するしかないかと思われます。
なお、Google map上の片野城跡は、もろに民家なのでそこから登城できません。
2021年01月24日 国府左京大夫城介
片野城[柿岡城 周辺城郭]
太田資正が築城し、その終焉の地となった城
【歴史】
文永年間(1264~1274)に八田将監が築城したと伝わる。
永禄9年(1566)頃に、佐竹義重からこの地を預けれた太田資正が現在の片野城を築城。
佐竹氏が秋田に転封された後、滝川雄利が2万石で片野藩を立藩するが、寛永2年(1625)に滝川正利が幕府に領地を返上したため、片野藩は廃藩となり、片野城も廃城となった。
【遺構】
根小屋地区にある比高20mほどの台地上全てが片野城の城域となります。東西700m、南北200mにもなる大城郭です。
郭は全部で9つあるようですが、集落自体がお城であるため、当然入れない場所も多々あります。
しかし、当時の遺構を残した状態であるため、道の脇に堀切を確認することができます。また、この辺りではあまり見かけない角馬出も備えています。北側には、水堀も現存しています。
Ⅲ郭は七代天神社に、Ⅴ郭は浄瑠璃光寺(太田資正公の墓所)になっている。
【感想】
集落全体が城であるため、個人宅の敷地が遺構になっているところもあり、全ての郭を確認することはできませんでした。Ⅰ郭からⅤ郭は普通に入ることができます。ただし、Ⅳ郭である角馬出は、藪で覆われており、中に入る気が薄れるレベルです。外側からなんとか角馬出であることを確認することができます。写真だと何が何だか分からない状態になっていますが…
一番の見所は、Ⅰ郭北側にある堀切は、かなり幅広な上、藪に覆われていないので、かなり見やすいです。ただし、堀の西側には個人宅の倉庫が塞いでおり、個人の敷地の可能性もあるので、降りることはできませんでした。
城内の藪を刈るなど、整備を進めると、かなり見応えのあるお城になる気がしますが、中々難しそうですね。また、残念なことに堀切にゴミを不法投棄する不届きな輩もいるようです。
【写真】
1:登城口付近(左側がⅡ郭、右側がⅢ郭で、道が往時の堀切)
2:Ⅰ郭南側の土塁
3:Ⅰ郭北側の堀切
4:Ⅲ郭(七代天神社)
5:Ⅳ郭の土塁
6:Ⅲ郭から見たⅣ郭(肉眼だと、角馬出であるのが分かるんだけど…)
7:Ⅷ郭
8:Ⅵ郭の北側にある水堀
2020年06月15日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
高友古塁[柿岡城 周辺城郭]
茨城県の石岡市にある高友古塁☆
丸山古墳が目印です☆歴史が不明の為誰がいつ何の為に造ったのか分かっていません☆
古墳なのか☆城なのか☆案内にも丸山古墳としか記載なし☆城跡として認定されてません♪でもでも行ってみて直ぐに城跡だ☆って思いました☆※個人的な見解です☆少し歪な形をした方形型の単郭の周りにはグルリと囲む堀☆単郭の外側には藪化しているモノノ同じく削平された広大な土地☆更にはココより別の場所には無数の郭☆小高い台地上を取り囲む様に3つの川の合流点がココを守ります☆
更にここを取り囲む様に佐竹氏の砦が築かれてます☆佐竹氏は良く古墳を取り込んだ城郭を築いてます☆結構特徴的です♪極め付けに土木量☆あっw佐竹氏の城だ☆って思った高友古塁でありました☆
2016年06月10日 まー刑部卿
柿岡城
柿岡城趾の石碑は小学校門の内側に入らないと正面から撮影出来ません。保育園前にある残存土塁ありますが案内図による堀跡は土塁に上がらないとわかりません。駐車場はありませんが通行車両が少ないため路駐可。
2015年12月06日 カーネル
柿岡城
真壁城から東へ向かいます
東には筑波山と加波山の稜線がありますが、その一番低いところを超える県道7号があります
この車道には歩道がありませんが、交通量が少ないのが救いです。車道は直登だけど傾斜はそれほどでもないです
とはいえ、疲労が蓄積し下りは惰性であるく。道が平らになるとぼちぼち家が出始めて、振り返ると加波山も小さくなり、遠くまで歩いたなぁと実感できます
石岡市に入り、城の遺構を求めて柿岡小学校の回りをウロウロしてから、最寄の関鉄グリーンバスの[新宿]バス停へ
ここから土浦行きと石岡行きバスが出てました
バス停に着くまで、岩瀬駅をでて真壁城を経由して6時間歩きっぱなしでした
歩き計画されている方の時間目安になれば幸いです
柿岡城の周辺スポット情報
片野城 土橋(遺構・復元物)
片野城 堀切(遺構・復元物)
片野城 堀切(遺構・復元物)
片野城 竪堀(遺構・復元物)
片野城 堀切(遺構・復元物)
片野城 堀切(遺構・復元物)
片野城 水堀跡(遺構・復元物)
土塁(遺構・復元物)
空堀(遺構・復元物)
土塁(遺構・復元物)
片野城石碑・説明板(碑・説明板)
柿岡城 説明板(碑・説明板)
柿岡城の碑(碑・説明板)
高友古塁(周辺城郭)
片野城(周辺城郭)
二条山館(周辺城郭)
吉生砦(周辺城郭)
小幡堀ノ内館(周辺城郭)
諏訪山砦(周辺城郭)
太田資正公之墓所(寺社・史跡)
浄瑠璃光寺(寺社・史跡)
七代天神社(寺社・史跡)