志筑城(しづくじょう)
志筑城の基本情報
通称・別名
- (志筑陣屋)
所在地
- 茨城県かすみがうら市中志筑1037
旧国名
- 常陸国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 下河辺政義
築城年
- 鎌倉時代前期
主な改修者
- -
主な城主
- 下河辺氏、益戸氏、本堂氏(陣屋)
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- 県史跡(志筑城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
府中城(茨城県石岡市)[2.9km]
石岡城(茨城県石岡市)[4.2km]
柿岡城(茨城県石岡市)[6.5km]
木田余城(茨城県土浦市)[11.3km]
小田城(茨城県つくば市)[12.0km]
宍倉城(茨城県かすみがうら市)[12.2km]
土浦城(茨城県土浦市)[12.4km]
難台山城(茨城県笠間市)[12.5km]
多気城(茨城県つくば市)[13.0km]
真壁城(茨城県桜川市)[14.6km]
志筑城の口コミ情報
2024年12月12日 マグロ常陸介祐平
半田館[志筑城 周辺城郭]
権現山城から、北西に約1kmの台地の縁に位置しています。
志筑城の益戸氏の一族、益戸与右衛門の築城とされ、半田館の益戸氏は後に半田氏を名乗っています。城域に建つ香取神社は、正治2年(1200年)に半田氏により創建されたと伝わるようですので、早くに別れた一族のようです。神社は、興国2年(1341年)に大掾高幹が志筑城を攻めた際に社殿が焼失したようですので、お城も落城したのかもしれません。茨城県の中世城館では、戦国期まで使用されたのではないかとしています。
神社の背後には、竪堀か堀切のようにも感じられる切通しがあり、境内には薄めの堀状の窪みがあり、東側の台地の縁には空堀と一部土塁が見られます。茨城県の中世城館には、主郭は五角形を呈しとありますが、西側は果樹畑と薮になっており、実感出来ませんでした。
2024年12月11日 マグロ常陸介祐平
権現山城[志筑城 周辺城郭]
志筑城から西に約1.5kmに位置しており、志筑城の詰城とも本来の志筑城ともいわれているようです。戦国期は志筑氏が城主とも伝わるようですが、志筑氏も益戸氏一族のようですので、ほぼイコールと考えてよろしいのではないかと思います。
お城の東側は、昭和天皇が陸軍特別大演習の際に統監した、霞ヶ浦が見渡せる物見台のような高台があり、その先にはインパクトのある二重の土塁が主郭を守ります。郭は北東部を除き広めの空堀が見られます。郭は広さを感じますが、削平が甘く日常的に居住するような感じではないように思えました。
お城の麓には、イノシシ駆除の為、猟銃を持った猟師さんがいましたので、目立つ色の服装が望ましいと思われます。
2024年12月10日 マグロ常陸介祐平
志筑城
小山氏の一族で下河辺行平の弟の政義が鎌倉幕府の御家人として、源頼朝の叔父志田義広の乱鎮圧の功績により志筑郷の地頭となり、築城したとされています。その後、益戸氏と姓を変え、6代目国行は南北朝争乱で小田氏の旗下で南朝方につき、北朝方の府中城の大掾氏と戦っています。興国2年(1341年)になると高師冬の謀略により小田治久が降伏した為、益戸氏も軍門に下り志筑城は廃城となったとされています。南朝方のお城ということで昭和10年に茨城県の史跡に指定されています。
和歌山藩士となった岡見氏の文書に、岡見治広と同時代に雫城主益戸駿河守が見られ、江戸時代の軍記物の永慶軍記には、永禄12年(1569年)に真壁氏による小田城攻撃の際に小田方として益戸駿河広義が討死したとあり、戦国期まで益戸氏が志筑城に在城した可能性があるような感じがします。その後、益戸氏は、敵方の真壁氏に従い柿岡城に移り、佐竹氏の秋田移封に伴い、秋田に移ったようです。また、鬼平で知られる幕臣で今川旧臣の長谷川氏も益戸氏の流れとする系図も存在するようです。
江戸時代に入ると慶長3年(1603年)に佐竹氏の秋田移封により本堂氏が大身の旗本としてこの地の領主となり、正保2年(1645年)に笠松から志筑に陣屋を移しています。本堂氏は交代寄合として居館し、幕末の慶応4年に晴れて1万石の大名となっています。
お城は高台にあり、小学校(廃校)が丸々入る広さで、北側と西側に薄い土塁が見られます。東側には一段下に腰郭状のスペースが見られますが、南北朝時代の郭か陣屋のものか、わかりません。また、郭の中には本堂家家臣だった御陵衛士の伊東甲子太郎の顕彰碑が建っています。
本堂氏の菩提寺は、南に約300m程に建つ長興寺で、歴代の墓があります。現代のものではありますが、五百羅漢もユーモラスなものが多く見応えがあります。
2024年12月06日 マグロ常陸介祐平
中根長者屋敷[志筑城 周辺城郭]
千代田石岡インターチェンジの近く、往西寺が城址となります。小田氏の家臣中根与右衛門が戦国期の城主とされています。天正2年、佐竹義宣が与右衛門に対して三千両の用立てを命じますが、拒絶した為、佐竹氏に滅ぼされたと伝わります。
中根氏は大変裕福だったようで、中根長者財産目録によると、百姓道具150人分、馬20匹、牛3匹、千石酒屋?1軒、板蔵3つに土蔵8つに金蔵1つで有り金数しれず、銭蔵1つ、鑓20筋、刀30腰と、かなりの財産を持っていたようです。
台地の先端に位置しており、お寺の背後には二重の土塁が見られます。お寺の西側には空堀があり、墓地部分の折れた所から先は消滅しています。また、お寺の入口、階段の右側には竪堀も見られます。お寺は江戸時代後期の天保2年の創建のようですので、遺構は寺院としてのものではなく、純粋に館の遺構と思われます。館はかすみがうら市の文化財に指定されています。
2024年12月05日 マグロ常陸介祐平
笠松城[志筑城 周辺城郭]
大掾(馬場)資幹の孫の佐谷実幹が正元元年(1259年)に佐谷郷の地頭となり、その頃に築城されたものと考えられているようです。14世紀になると小田氏に侵食され、勢力が減衰したとされています。江戸時代の書物ですが、小田家風記に天文年間の家臣として佐谷氏が見られ、大掾氏の家臣と思われる佐谷氏が天正年間の高野山清浄心院供養帳に記載され、佐竹氏に慶長年間に真壁において仕官した佐谷貞幹が見られることから、一族は多様な道を歩んだようです。
慶長7年になると出羽国の国人本堂氏が関ヶ原の功績で佐竹氏と入れ替わりで志筑8500石を賜り、笠松城を陣屋としています。本堂氏が正保2年に志筑陣屋に移ると廃城になったようです。
どこまで原形を残しているのかわかりませんが、江戸時代に使用されたこともあり、曲輪は直線状で、近世城郭の雰囲気があります。西側には横矢の構造が見られますが、土塁は一部を残すのみです。
800m程南西の県道から少し入った所に、佐谷氏初代実幹の供養塔があります。
2024年10月13日 篠沼大膳大夫義久
志筑城
広大な本丸は綺麗に草刈りいただいでした。城跡碑と、当地の本堂家中出身だった伊東甲子太郎の顕彰碑もあります。城下には小身ながら本堂家中の苗字そのままの家が複数ありました。
2024年01月21日 武蔵守のむげん
志筑城
暫く前まで学校があったといわれる広い曲輪跡まで車で乗り入れ可能。遺構は城址碑と、周囲の僅かに盛り上がった土塁らしきものが確認出来る程度。それよりも新選組の伊東甲子太郎の顕彰碑の存在が大きい。新選組に興味のある方は、近くの芹沢城と併せて訪れてみると良いかも。
2023年03月26日 APH.I
志筑城
昔父の小学校だった旧志筑小学校。今は校舎はなく整備されていますが、昔のポストと大木があり、ジブリの世界の中に入ったような感じがしました。校門から入ると右手側に志筑城址の石碑と伊東甲子太郎についての看板もありました。
2021年04月16日 ファン掃部助トム治郎
志筑城
旧志築小の敷地が整備されており城跡となっています。校門からはいり右奥に看板あり。このちを出身とした旧新撰組隊士についての説明書きもあります。高台から望む恋瀬川と田畑風景が西にのぞまれ、東に筑波山。散歩すると落ち着きます。
2020年09月23日 kazuyou大蔵大輔
志筑城
旧志筑小学校の跡地一帯が城跡です☝️ここは平坦地で、陣屋があったところです。周りを歩くと藪の中に土塁や空堀が残っています☝️県指定の史跡です。車は、充分駐車できます。
2016年06月10日 まー刑部卿
志筑城
小学校跡地に石碑はあるが中に入ることが出来る。説明板は門柱の脇にあり石碑はクスノキの大木脇にある。ここに来るのに案内表示がされているため迷わなかったが道路幅は狭い。
2015年06月07日 武蔵守道灌?!
志筑城
数年前まで志筑小学校でしたが、移転したようです。石碑と案内板が有ります♪(°▽°)