木田余城(きだまりじょう)
木田余城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 茨城県土浦市木田余
旧国名
- 常陸国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 不明
築城年
- 不明
主な改修者
- 信太範宗
主な城主
- 信太氏、菅谷氏、小田氏治
廃城年
- 天正6年(1578)
遺構
- 消滅
指定文化財
- 市史跡(木田余城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
土浦城(茨城県土浦市)[1.6km]
塙城(茨城県稲敷郡)[10.3km]
木原城(茨城県稲敷郡)[10.5km]
宍倉城(茨城県かすみがうら市)[10.8km]
小田城(茨城県つくば市)[11.3km]
志筑城(茨城県かすみがうら市)[11.3km]
石岡城(茨城県石岡市)[11.5km]
府中城(茨城県石岡市)[11.8km]
小坂城(茨城県牛久市)[14.0km]
谷田部城(茨城県つくば市)[14.1km]
木田余城の口コミ情報
2023年07月23日 マグロ常陸介祐平
戸崎城[木田余城 周辺城郭]
案内板のある本丸は、曲輪を感じますが畑となっています。少し離れた松学寺の墓地の裏には土塁と堀が見られます。
2023年07月23日 マグロ常陸介祐平
木田余城
城跡は、常磐線の基地となり跡形もない状態です。石碑がトンネルの先に建っているようですが、立ち入り禁止となっていて見ることが出来ません。線路の反対側には、謀反の疑いで小田氏治に謀殺されたとされる信太範宗の供養塔があります。
城との関係はわかりませんが、近くの踏切そばには、古い五輪塔の破片が積まれています。
周囲は蓮根畑が広がっていて、今の時期は蓮の花が満開です。
2023年01月24日 ビン太
木田余城
現地は看板などしかなく遺構らしきものはありませんでした。看板には当時から現在に至るまでの流れが記載されており周辺にはレンコン?畑が見えます。この畑も歴史の流れの証人として見たら遺構と呼べるかも知れませんね。
2022年05月04日 ぷっぷ
木田余城
水の張った蓮の畑が綺麗です。線路の反対側は静かな佇まいの住宅地で、往時の名残を残しているようです。
2022年01月14日 大膳大夫しろし
木田余城
線路🛤の直ぐ脇で遺構は、ほとんど無し。市の史跡ってどういう基準できめてんのかなぁー。
2021年09月22日 さすらいライダー
木田余城
線路を挟んで徒歩のみの地下道でつながっていました。手前?側は線路脇の畑の中に、祠と案内板、線路を潜るかなり長い徒歩のみトンネルを抜け反対側には案内板が一枚、周りはレンコン畑が広がっていました。
2020年11月18日 kazuyou大蔵大輔
戸崎城[木田余城 周辺城郭]
霞ヶ浦大橋方面から来ると、字名館下の住宅地の間を左折すると本丸へ直ぐ行けます。坂を上ると、左手に本丸の高台。空堀があり、軽車両なら駐車できます。ここに説明板があり、城の範囲はかなり広大なのがわかります。本丸、二の丸などは、畑になっていますが、歩くと空堀が残っています。
2017年02月23日 蓬左の武将尾張守⚡️晋作
木田余城
土浦城の口コミにもあるように、信太氏の滅亡により土浦城の属城となった木田余城は、一時期、小田城を逐われた小田氏治が入城したこともある。
天正6年、佐竹義重により落城の上、廃城となる。
江戸時代の土浦城主朽木氏は木田余城址の遺構を残すべく本丸跡に宝積寺を移築するが、明治36年、汽車の飛び火で焼失したため、移転してしまう。
湿地帯を利用した水城だったというだけあって、現在周囲にはレンコン畑が多いが、本丸を分断するJR常磐線の線路沿いに案内板・地下道の行き止まりに城址碑(写真①)・宝積寺跡地と思われる墓地には遺構と考えられる堀や土塁らしき遺構が認められる。(写真②・③・④)
また、線路の反対側の住宅地には信太範宗・正室・嫡男紀八の墓(市指定史跡 写真⑤)があるが、この周辺も投稿写真の通り、高低差が感じられる。(写真⑥)
2015年09月17日 武蔵守道灌?!
木田余城
案内看板の所の線路下アンダーをくぐれば、石碑が有ります。
業者用の通用口らしいので、邪魔にならないよう注意すれば見学出来そうです。
ただ、遺構は残っていないようです!?(^^;