小田城(おだじょう)

小田城の基本情報

通称・別名

所在地

茨城県つくば市小田

旧国名

常陸国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

八田知家

築城年

建久3年(1192)

主な改修者

主な城主

小田氏

廃城年

永禄12年(1569)

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)、移築門(龍勝寺)

指定文化財

国史跡(小田城跡)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

多気城(茨城県つくば市)[4.2km]
土浦城(茨城県土浦市)[10.7km]
豊田城(茨城県常総市)[11.2km]
木田余城(茨城県土浦市)[11.3km]
志筑城(茨城県かすみがうら市)[12.0km]
柿岡城(茨城県石岡市)[12.3km]
谷田部城(茨城県つくば市)[13.3km]
多賀谷城(茨城県下妻市)[13.6km]
海老ヶ島城(茨城県筑西市)[13.7km]
大宝城(茨城県下妻市)[13.8km]

小田城の解説文



小田城(おだじょう)は、茨城県つくば市にあった日本の城。国の史跡に指定されている。

概要 

鎌倉期から戦国期まで小田氏の居城であり、その始まりは小田氏の祖・八田知家が文治元年(1185年)に常陸国守護に任命されて当地に移って居館を構えたことによると言われる。

その後、南北朝期には、当主・小田治久が南朝方に属し、小田城は常陸南部における南朝方の拠点となり、北畠親房や春日顕国なども入城している。

下って戦国時代の弘治・永禄年間、当主小田氏治は佐竹氏・多賀谷氏・真壁氏や越後の上杉謙信、小田原の後北条氏らと抗争を繰り返した。後北条氏と結んだ小田氏治は、永禄7年(1564年)に山王堂の戦いで上杉謙信に敗れるなど苦戦を強いられ、激しい小田城争奪戦が繰り広げられる[1]。何度も落城と奪還を繰り返したが、天正元年(1573年)の手這坂の戦いに敗れて小田城は佐竹氏のものとなり、以降小田氏の手には戻らなかった。

手這坂の戦いには永禄12年(1569年)説も有り[2]、翌元亀元年(1570年)に太田資正が城主になり、同3年(1572年)に資正の子の梶原政景が城主になったという。

のち、佐竹氏の一族・小場義宗が城主になったが、慶長7年(1602年)に佐竹氏の秋田移封に伴って廃城になった。

小田城の遺構 

小田城は、小田山の麓の交通と水利に恵まれた場所にある。築城当初は、本丸跡を中心に、四方に濠と土塁を廻らした単郭式の館であったといわれる。その後、戦国期になると城域を拡張して約40haになる平城が築かれた。当時、小田城の近くまで霞ケ浦の低湿地が広がっていたとされ、湿地や桜川を通じた水運で藤沢城土浦城と連絡が取れていたとも考えられている。

何度も落城と奪還を繰り返していることから、防御に難のある城と言われているが、発掘調査の結果では水堀は底が障子掘となっており、本丸の三方の虎口には馬出が設けられるなど、相応に防御に気を配っていることが窺える。北虎口の馬出は、火災の後に構築されたことが判明しており、落城後に防御強化のために設けられたと考えられている。これらの改修が小田氏時代のものなのか、佐竹氏時代のものかは判然としない。

本丸からは二つの池を含む庭園の遺構が確認されており、小田家の格式の高さを示すものと認識されている。

本丸北側は市街地化が激しいが、水田となっている本丸南側は曲輪の遺構がかなり良好に検出されており、馬出などが復元されている。

かつては、筑波鉄道の線路が本丸の南東部から北西隅にかけて斜めに横切っていたが、筑波鉄道廃線後に路線の跡地がつくばりんりんロードとして整備される際、小田城本丸を横断する部分は、本丸土塁外側の南から西を周って迂回するコースに変更された。土塁北西隅部の線路跡は切通しとして残され、小田城歴史ひろば案内所から本丸を見学する際の誘導路および土塁の断面の展示として利用されている(トイレも設置されている)。

小田城廓見取図

一の濠と二の濠の間には、小田家一門の屋敷があり、三の濠と四の濠の間には旗本屋敷や米蔵、武器庫などがあった。城の北側に大手門があり、西には旗本屋敷や竜勝寺、長久寺等がある。

小田城平面図

小田城は、宝篋山の南西の尾根のふもとに造られている東西約1km、南北約700mの平山城である。戦国時代は湿地帯であったので、城附近の堀のほとんどが水堀であったと思われるが、現在は多く水田になっている。城の中心部に東西120m、南北140mの方形の主郭があり、土塁と濠に囲まれている。土塁の西・東・南の隅には櫓台が認められる。主郭周辺の郭には、馬出しや帯曲輪跡がある。濠や土塁には、随所に折りや喰違いがあり、虎口には馬出しの他に枡形も多く見られる。

歴史 

鎌倉時代

源頼朝が平氏を滅亡させて鎌倉幕府を作った時に頼朝とともに戦った八田知家は、有力御家人の一人として常陸国の守護職を得て小田城を築き、小田氏の祖となった。それまでの常陸国南部は、平将門を亡ぼした常陸平氏が支配していたが、小田氏はやがて常陸平氏を従えて常南地方で最大の大名になった。しかしやがて鎌倉幕府の政権が北条氏に移り、常南地方の小田領も北条氏に多くを奪われるとともに守護職も失った。

南北朝時代

後醍醐天皇が中心となって鎌倉幕府が倒されたが、元弘の乱で小田氏は幕府軍に従っており、幕府滅亡後その罪を問われることを恐れて、幕命で常陸国に流罪とされていた万里小路藤房を助けて上洛し新田義貞に味方し赦免を得ることができた。続いて足利尊氏の北朝と後醍醐天皇の南朝に分かれて激しい戦いが続いた南北朝時代になり、小田城は常南地方の南朝の中心になった。南朝勢力の参謀役であった北畠親房は、皇室領の荘園で小田氏の支配下にあった信太荘に海路上陸し、やがて小田城に在城して東国の勢力挽回を図った。北畠親房の著した『神皇正統記』が小田城で執筆されたことは名高い。

室町時代

旧領の回復を願って小田氏は南朝に味方して戦ったが、期待した恩賞が得られず、北朝の足利尊氏勢から小田城が攻撃されることになり、やがて小田氏は足利尊氏に従うことになった。室町幕府は、東国経営を目的に鎌倉府を設置して鎌倉公方(足利氏)を置き、鎌倉府の下に東国武士を支配する関東管領(上杉氏)を置いた。常陸国の守護職には、当初から北朝側にあった佐竹氏が任命された。

やがて鎌倉公方は、室町幕府からの独立経営を望み幕府に従わなくなってきたことから、幕府は関東管領に指示して鎌倉公方との戦いが始まった(後に鎌倉公方は鎌倉から古河に逃れ、古河公方と呼ばれるようになった)。

県南地方は、古河公方側と関東管領側に分れて、激しい戦いを繰り広げた。また、上杉氏も同族争いがあり、山内上杉氏と扇谷上杉氏との戦いがあり、県南地方は長期の戦いが続き、小田氏は存続のための厳しい選択をせまられた。

戦国時代

室町幕府の勢力が弱まり、古河公方は小田原の後北条氏の傀儡になり、上杉氏は関東管領職を長尾景虎(上杉謙信)に譲り渡すことになった。上杉謙信が小田原攻撃を行って、帰路に鎌倉で関東管領職の就任式を行った時、小田氏は上杉勢に加わっていた。

やがて、後北条氏が勢力を拡大して下総国を統合し、常陸国へ進出した頃、小田氏は後北条氏と同盟した。これに怒った上杉謙信は、小田城攻撃を行い、小田氏は敗走することになった。上杉謙信が帰った後、小田氏は小田城を奪還したが、上杉勢の佐竹氏や多賀谷氏に攻められ、手這坂の戦を最後に小田氏は小田城を失うことになった。

保存整備事業 

1935年(昭和10年)6月7日、城跡周辺約21.5haが国の史跡に指定された。

その後、つくば市による保存・整備事業が1983年(昭和59年)の「保存管理計画」を皮切りに始まり、1997年(平成9年)から発掘調査が実施されるようになった。これにより、三重の堀や大小の曲輪が東西500m、南北600mに渡って巡らされていたことが判明した。また2004年(平成16年)から本格的な長期間調査を開始、2014年(平成26年)には発掘調査結果を発表[3]。2016年(平成28年)4月29日、一旦の発掘調査と整備を終えて中世の小田城の姿を復元した「小田城跡歴史ひろば」として公開される[4]

参考資料 

  • 筑波町史
  • 桜村史
  • 『国指定史跡 小田城跡』(つくば市教育委員会生涯学習課文化財係、平成16年7月)

小田城の口コミ情報

2024年09月15日 マグロ常陸介祐平
下坂田屋敷内城[小田城  周辺城郭]



藤沢城から南東に約2km、台地の先端に位置するお城です。来歴等は不明ですが、小田氏の支城でしょうか。

下坂田農村集落センターの東側のポストから、深い切り通し(堀切?)を登ると坂の途中右側に虎口のような入り口(実際は空堀)があります。すぐに右手に虎口が現れ、その先が主郭となります。土塁上には比較的新しい祠が祀られています。先端部には物見台のような土盛りも見られます。郭内にはトラックの残骸があり、昭和の頃には住宅があったようです。虎口に戻ると右側には、土塁がみられ、単郭ではない事がわかります。全体的に薮となっており、その先には進みませんでした。

近くには、県の文化財に指定されている永仁6年の「下坂田の板碑」があるようですが、現在閉鎖されており、見ることは出来ません。周辺は古墳の多い場所で、出土品が国の重要文化財に指定されている武者塚古墳の石室は、車で1~2分程の距離です。

2024年09月14日 マグロ常陸介祐平
岡の宮館[小田城  周辺城郭]



「新治ふるさとの森」という鹿島神社が鎮座する独立した台地が城址となります。藤沢城とは池を挟んだ西側に位置し、東には小田氏と関連の深い法雲寺があります。鹿島神社は法雲寺の開山で小田氏の猶子の復庵和尚が勧請しています。位置からして藤沢城の出城でしょうか。

200m程の細長い台地で、両側には帯曲輪があり、鹿島神社の西側はやや広く腰曲輪状になっています。南側のトイレ付近には、堀切の痕跡とも思える竪堀状の溝も見られますが、お城としては単純な縄張りです。

何度も戦いの舞台となった藤沢城の隣にあって文献には表れていないようですので、藤沢城の一部と考えてもいいのかもしれません。

2024年09月13日 マグロ常陸介祐平
藤沢城[小田城  周辺城郭]



小田城から南東に約5km、小田城と並ぶ小田氏にとっては重要なお城です。

山王堂の戦い(永禄7年)で上杉氏に敗れ、佐竹氏らに小田城を落とされると氏治は藤沢城に逃げ込んでいます。その後、小田城を奪回するも手這坂の戦い(元亀4年)に敗れ土浦城を経て再び藤沢城に避難しています。その後元亀4年の砦台の戦い、田土部川の戦いでは藤沢城の防衛に成功し、天正元年の二度目の攻城戦で藤沢城を失陥し、天正13年に藤沢城を奪還と佐竹氏との攻防では戦いの中心でした。

そんな藤沢城ですので、南北700m、東西800mと城域は広大ですが、遺構はあまり残っておりません。神宮寺の背後に土塁(写真8枚目)、その南側の主郭に横矢掛かりのみられる切岸やそれらしい地形(写真2,3,7枚目)、北側の精泉寺(写真1,6枚目,境内には夥しい五輪塔群)と遍照寺(写真4枚目)の背後に土塁と空堀、今回確認していない南側中央部の極楽寺跡付近に遺構が見られる程度のようです。

主郭の西側には、藤原藤房髪塔塚がありますが(写真5枚目)、後醍醐天皇の側近の藤原(万里小路)藤房が鎌倉幕府打倒の計画がバレ、小田治久に預けられ(配流)藤原城に籠居(その後は京に戻る)、死後に治久の子の孝朝により剃髪時の毛髪を埋め築いた塚です。

2024年09月12日 マグロ常陸介祐平
法雲寺城[小田城  周辺城郭]



法雲寺は、足利尊氏が正慶元年(1335年)に常陸守護の小田氏7代治久に命じて後光厳天皇の勅願寺として建立された古刹です。開山は治久の猶子の復庵宗己(名目上の開山は復庵の師匠で中国の名僧の中峰明本)で、小田氏とは関わりの深い寺院です。文化財も多く、小田氏14代政治と15代氏治の肖像画・小田氏11~14代の宝篋印塔(写真7枚目)・幕末に子孫が建てた氏治の宝篋印塔(写真6枚目)・開山の中峰和尚と復庵和尚の無縫塔(写真8枚目,本堂裏の土塁上)などがあります。

お寺は台地の縁辺部に建てられ、正面の石段の他に坂虎口状の入り口(写真5枚目)、山門左側には巨大な土塁状の構造(写真1,3枚目)、本堂裏には二重の土塁(写真2枚目)が見られ、防衛を意識した作りとなっています。茨城県の中世城館では、上杉・佐竹勢による小田城落城時の兵火により焼亡した後に、近くにある藤沢城付近の防衛施設として造営された可能性が想定されるが、寺院の境界としての意図も否定できないとしています。

寺院としても見応えがあるお寺ですので、寺院好きな方は小田城とセットで廻られるのもよろしいのではないでしょうか。

2024年09月12日 マグロ常陸介祐平
日輪寺館[小田城  周辺城郭]



摩尼山勝智院日輪寺というお寺が城址となります。旧桜村の説明板によると、元々小田に創建された日輪寺を小田城の出城としてこの地に移転したとあります。小田氏の祈願寺となっていたとのことですので、館というよりは、城郭寺院という位置づけでしょうか。

堀が二重になっていたと伝わっているようですが、現況は南、東、北の三方を四国札所の小さなお堂が並ぶ土塁が囲み、西側には土塁の残欠、北側と南側の一部に空堀の遺構は確認出来ますが、その外周に堀は見られません。気になる点は、北隣のお宅の道路沿いのコンクリートの内側に土塁状の土盛りが見られることです。また、茨城県の中世城館の縄張り図では、日輪寺の向かい側にある安養寺にも土塁の残欠があるようになっており(未確認)複数の曲輪で構成されていた可能性もあるのかも知れません。

付近には、半径1km以内に金田城、花室城、上ノ室城などがあり、お城の密集している地域です。

2024年09月08日 治部卿丸に澤瀉
小田城



当時の勢力図からすると厳しい位置にあった小田城。縄張はかなり広範囲のようですが、現在復元されている部分の土塁はいい感じですね。でも他に比べるとコレで守り抜くのは難しそう。自転車道とか近くにあるので登城には注意が必要

2024年08月13日 nonki
小田城



土浦駅からバスで40分位小田で下車。バス停から徒歩10分程度で着きます。

土塁や堀、曲輪が復元され雰囲気が掴めます。近くに資料館があり無料で見ることができます。

小田家の歴史が良くわかります。こちらで御城印も購入可。

そこまで広いわけではないので、城跡と資料館合わせて、さっと見るだけなら1時間程度で可能かと思います。

2024年08月08日 ミハマク治部大輔
小田城



手入れが行き届いており資料館も見応えがありました。

2023年12月31日 中田武蔵守宏行
小田城



筑波山神社からケーブルカー、ロープウェイで巡る日帰り家族旅行の帰り道に行きました。駐車場から狭い路地を歩いて7分ほどかかるので、自分一人だけで行きました!

2023年10月22日 藤井刑部大輔晧玄
小田城



土塁や堀が美しく整備されている。小田氏についてここまで詳しい資料館も貴重かと。

2023年10月09日 RED副将軍
小田城



幾度と落城し、その都度奪還したとされる小田氏の居城🏯

オススメ度 ★★★★★

歴史は古く、1192年に八田知家により築かれたと云われます。鎌倉殿の13人でも有名になった有力御家人です。
八田氏は有力豪族である宇都宮氏の庶流であり、宇都宮宗綱の四男である宇都宮知家が常陸国久慈郡八田を与えられ八田氏を称したのが始まりとされます。
1185年に常陸国守護に任命された八田知家は当地に移って構えた居館が小田城とされます。八田知家は小田氏の祖となり、小田城は小田氏代々の居城となりました。
その後、南北朝時代には城主の小田治久は南朝方に属し小田城は南朝方の拠点となりました。1338年には佐竹氏に追われた北畠親房を小田城で匿っています。
1341年、足利尊氏が派遣した高師冬は小田城を攻め寄せるも耐え凌ぎます。しかし、小田治久は和平交渉に応じて開城し降伏。小田氏は北朝方に従属し、北畠親房は関城へ落ち延びたとされます。
戦国時代になると城主の小田氏治は、北条氏、上杉氏、佐竹氏、多賀谷氏、結城氏、真壁氏などの周辺勢力と抗争を繰り返します。幾度も小田城は落城し、土浦城へ退いて軍勢を立て直すと小田城を奪い返し、しかしまた奪われることを繰り返しました。30年以上にもおよぶ小田城争奪戦は45戦18勝21敗6分とも云われ、9回も落城し幾度も小田城を取り返しています。まさにフェニックスです。
しかし、1569年の手這坂の戦いで大敗。撤退するも真壁氏に小田城へ先回りされ奪われ、小田氏治は土浦城へ撤退。以後は佐竹氏の支配となり、配下の太田資正が入城。1572年には太田資正の子の梶原政景が城主となりました。
その後、佐竹氏一族の小場義宗が入城しましたが、1602年に佐竹氏が秋田に移封になると廃城となりました。

見所
現在は、小田城跡歴史ひろばとして公園整備されており国史跡に指定されています。
かつては筑波鉄道により分断されていましたが大半が復元されています。
本丸は方形で北、東、南西部に虎口が開口。南西部の虎口は木橋が架かり角馬出しに連結しています。
復元工事によりキレイ過ぎるかもしれませんがビギナーから気軽に楽しむことができます。

2023年06月29日 千葉相模守早雲【権六】
小田城



鎌倉御家人の八田知家の後裔に当たる小田氏の居城です。15代氏治は北関東に進出した北条氏に対して佐竹・上杉氏を後ろ盾として対抗するも北条氏に味方した結城氏によって落城。土浦城へ敗走しますが、その後奪回します。その後は北条氏と結び、佐竹・上杉氏と争うも再び落城。土浦城へ逃れた後、再び奪回します。

城を奪われては奪い返すというしぶとさをみせますが、手這坂の戦いで、佐竹・真壁氏に敗れた後は奪還は果たせませんでした。豊臣秀吉により北条氏が敗れると氏治も所領を没収されます。その後、代わりに入った佐竹氏の秋田移封と共に廃城となります。

方形の本丸を幾つもの曲輪と三重の堀が取り囲む構造だったようですが、幾度も争奪を繰り返したことからも分かる通り、平城なので攻め易かっただろうなぁと感じました。

1.本丸北面の土塁と堀跡。奥に見えるのは北虎口に掛かる土橋跡。
2.本丸北東部の櫓台。
3.東池・建物跡
4.南西馬出跡に掛かる木橋を鉄橋で復元。
5.南西馬出跡。周囲の土塁が残る。
6.本丸西面の堀跡。

2023年06月18日 国府左京大夫城介
宝篋山城[小田城  周辺城郭]



南北朝時代に高師冬が小田城を攻める際に陣取った城

【歴史】
暦応4年(1341)に、高師冬や別府幸実(熊谷市にある別府城主)ら北朝方が、南朝に属していた小田城の小田治久を攻めるために陣取った。

【遺構】
小田城の北東にある宝篋山(標高461m/比高440m、別名:小田山)の山頂付近に築かれた山城です。宝篋印塔がある山頂が主郭で、その北側と南側にかなり広い削平地(曲輪)がある。北曲輪から繋がる北東尾根に堀切が、主郭から南曲輪へ降りる途中には竪堀が、南曲輪の下には長さ100m、幅20mの大堀切が残る。

【感想】
小田城の背後に聳え立つ宝篋山に登る必要があり、久しぶりに一時間以上かけて登る必要があるお城でした。宝篋山自体はトレッキングコースとして整備されているため、歩きやすく分岐点にも案内板があるので迷う心配はありません。登山客もかなり多く、山頂付近にはバイオトイレがあり、ルートによっては所々休憩ポイントがあります。

さて、この城の見所はなんといっても、南曲輪下にある大堀切の一言につきます。南北朝時代に築かれたため、折れといった技巧的なものはありませんが、素晴らしい土木量の堀切で、正に常陸のお城だなと実感することができます。小田城側から登ってくれば、ここを最初に目にするため、これを見たら下山してもいいくらいです(笑) 登山道を整備した際に土塁が壊されてしまったのが唯一残念な点です。

この宝篋山は、水が豊富なのか登山道も所々でぬかるんでおり、山の西側中腹には「宝篋の水」と呼ばれる清水があるなど、水には困りません。また、頂上から小田城は勿論、霞ケ浦、筑波山、常陸南部、下総方面を見渡すことができる好立地です。

【アクセス】
宝篋山への登山コースは複数あり、どのコースも登山時間は90分から120分位が目安となっている。小田城と共に攻めるのであれば、小田城コース(約120分)または極楽寺コース(約105分)となる。車であれば、表筑波スカイラインから行けるようだが、ゲートがあるので実際に行けるかは未確認。

【写真】
①小田城から宝篋山城を望む(右側のアンテナがある場所)
②北東尾根の堀切
③北曲輪
④主郭にある宝篋印塔
⑤藪でわかりずらい竪堀
⑥南曲輪
⑦大堀切

2023年03月25日 APH.I
小田城



芝生が植えられ綺麗に整備されていていました。御城印は3種類、販売している案内所は奥の方は展示スペースになっており、小田城についての展示がされていました。

2023年01月30日 ruiw0302
小田城

場所は分かりやすく駐車場にも苦労することはなく、とても恵まれた環境だった。資料館も充実していて興味深かった。遺構そのものもきちんと整備されていて見応え充分、説明板もほどよく配置されていた。「戦国最弱の大名」と称された小田氏治公を堪能することができた。

2023年01月03日 気分爽快豊後守
小田城



方形の馬出が綺麗に復元されています。公園化された平城なので、山城のような藪はなく、非常に見やすい城です。

2023年01月03日 大納言Z周防守369
小田城跡歴史ひろば案内所[小田城  関連施設]

年末年始は駐車場はあいていましたが、閉館しているのでトイレ等利用できなくなるので注意

2022年10月17日 crea参議
小田城



筑波山のふもと、綺麗に整備され縄張りが見事でした。

2022年08月27日 修薩摩守
小田城



小田城vs筑波鉄道
小田城を分断するように鉄道が敷設され、鉄道が廃線になると、再び城跡公園として、鉄道跡が削られました。

2022年08月07日 マグロ常陸介祐平
片岡上館[小田城  周辺城郭]



桜歴史民俗資料館に発掘調査の展示がありましたが、現地は私有地で外側から塚が見える程度でした。

2022年08月07日 マグロ常陸介祐平
上ノ室城[小田城  周辺城郭]



城址は資材置き場と私有地のようで立ち入れませんでした。近くの一乗院には城主の吉原越前守利則の供養塔と無縁塔に大量の五輪塔があります。桜歴史民俗資料館の方の説明では有名な高僧の忍性が石工集団を連れてきたことにより筑波地区には五輪塔が多いとのことでした。

2022年08月07日 マグロ常陸介祐平
花室城[小田城  周辺城郭]



八坂神社の裏側に土塁と空堀が残っています。県道土浦学園線を隔てたところに主郭とⅡ郭がある様ですが畑となっており立ち入れませんでした。

2022年08月07日 マグロ常陸介祐平
金田城[小田城  周辺城郭]



筑波市歴史民俗資料館で周囲に金田城、花室城、上ノ室城、片岡上館があることを聞き行ってみました。館山城という料亭の先の民家の脇から入城しました。主郭を囲む深い空堀と土塁が確認できます。主郭は入るルートがわからず入れませんでした。貝塚なのか大量の貝が散乱する場所がありました。

2022年06月24日 nirl雅楽允
方穂故城[小田城  周辺城郭]

花畑城とも。残念ながら、城跡である旨の説明版などは見当たらず。

2022年05月13日 理系大学允
つくばりんりんロード[小田城  その他]



ナショナルサイクルルート指定のつくばりんりんロードです。小田城攻略の際は自転車で来てみませんか?土浦やつくば、岩瀬など色々なところで借りられ返せます。つくばりんりんロードは旧筑波鉄道なので初心者にもピッタリな自転車道です。

2022年05月03日 猿井大蔵卿太志
小田城



サイクリングコースを走行中、綺麗な公園に遭遇。堀や、建物跡を楽しむことができます。一見の価値はあると思います。

2022年03月27日 戸沢夜叉九郎正樹
小田城



土浦駅から筑波山口行きのバスに乗り約30分で到着します。城跡は最近整備されたようで、とても見学しやすくなっております。近くにある資料館も城と小田氏の展示物が豊富です。時間があるなら、もう少し足を伸ばすと、近くに真壁城もあるので、セットでの城攻めをお薦めします。

2022年01月07日 大膳大夫しろし
小田城



城跡あるある。今回は、城の中を線路が突っ切っている。小机城は、今でも電車が走っていますがこっちは、城が蘇り線路は、無くなりました。お城の勝利!

2021年10月03日 マグロ常陸介祐平
小田城



隣接する案内所で予習してまわりました。城跡は整備されており案内板も多くわかりやすいのですが、どれが遺構でどれが復元かわかりづらく感じます。近くの龍勝寺には8代当主の小田孝朝の墓があります。また、周辺には佐竹一門の大山氏、前川氏が土着したようで、墓地には扇に月の家紋が目立ちます。

2021年06月22日 たろ
小田城



サイクリングロード沿いにある綺麗に整備された平城で公園としても秀逸。本丸南側からの筑波山の眺望も素晴らしい。隣接する案内所ではつくば山麓の鎌倉時代からの歴史が学べ、出土品の展示も興味深い。

2021年05月05日 織田上総介晃司
小田城

小田城跡歴史ひろば案内所に駐車場があり停車。そこから徒歩で小田城に向かいます。

小田城跡公園の前に障がい者用の駐車場(2台駐車可)がありますが、道が狭いので軽四かコンパクトカーしか行けません。

2021年05月05日 海野中務大輔どらやき
小田城



常総平原北部に聳える筑波山と宝篋山。その麓にある小田城址はつくば市により整備事業が行われて、無料駐車場や史料館が整備されているほか、巨大な遺構も再現されています。源頼朝より一帯の守護に任命された八田知家が当地に移り住み居館を構えたとのことです。
一朝の際には背にした山に籠ったのかなと思いますが、中世にこの規模の平城を有したことに驚きました。
櫓はもとより石垣すら有りませんが、復元された曲輪や櫓台は一見の価値が有ると思いました。

2021年04月01日 昌幸近江守晩秋リア旅
金田城[小田城  周辺城郭]



小田城から桜川を挟み、南方4㌔に位置する金田(こんだ)城。
伝承では「小田四十八館」のひとつで、桜川の水運など流域の権益を守るための城とされ、沼尻氏が在城していた。

高さ30m弱の台地に作られた単郭の城だが、南・西・北側はとても大きな堀で囲まれていて、よくここまで掘ったものだと感心してしまう。
東側は腰郭があり井戸跡が残る。目の前は田んぼが広がり、当時は湿地帯で城にとりつく事が難しかったのではないか。

金田池遊園に4〜5台駐車可能。
釣りを楽しむ人も停めている。ガラガラではないので注意。
そこから5分で城跡に着く。

【写真の説明】
①南側の堀
②南西の櫓台下の堀
③西側の堀
④北側の堀
⑤対岸の土塁より見る北側の堀
⑥対岸より主郭を見る
⑦主郭
⑧主郭の土塁

2021年02月12日 お摂政
方穂故城[小田城  周辺城郭]



江戸時代には堀氏の玉取陣屋がここにあったらしい。
土塁っぽいものがある。

2021年01月30日 ファン掃部助トム治郎
小田城



今回、筑波山塊西側に座する海老ケ島城、多気城下の北条の町並、平沢宦衛遺跡とあわせて訪問。3年前に訪れたときよりも城跡は整備されていました。こののどかな田園地帯。中世にはどれくらいの人口があったのか。もしも自分が小田氏だったらどう民を守ろうか、どう生き延びようか考えていました。

2020年08月24日 さあさ上総介甲相駿三国同盟
小田城

遺構は東曲輪の一部と本丸、馬出のみですが、きちんと整備されており、見やすいです。

2020年07月13日 国府左京大夫城介
小田城

公共交通機関によるリア攻めについて

小田城をリア攻めするには、土浦駅若しくは下妻駅からバスを使うと便利です。
土浦駅からは、「筑波山口」または「下妻駅」行きに、下妻駅からは「土浦駅」行きに乗って、「小田」または「小田今宿」で下車し、10分程歩くと小田城に着きます。
バスは、概ね一時間に一本あります。関東鉄道バスや下妻市のHPに時刻表があるので、確認はしておいて下さい。

ちなみに自分は土浦駅を利用したので、料金は650円位です。なぜ、そんなアバウトというのか、行きと帰りの料金が違うという珍現象が発生したためです(^_^;)

2020年05月31日 みかも内匠助48世
小田城



私の車の古いカーナビを頼りに立ち寄ったらとんでもない狭い道に誘導されて苦労しました。遺構は見事に整備復元され、新たな整備も行われています。所々に説明書きもあって初心者の私にもとてもわかりやすかったです。周りの整備が終わったらまた訪問したいと思います。

2019年12月01日 恭任非参議侍従
小田城

鉄道の開業によって、城跡が破壊される例は甲府城、長岡城等、少なくはないが、ここは筑波鉄道の廃線によって、復活した稀有な城跡。現地に行くとよくわかるが、方形の城跡を対角線上に筑波鉄道が横切っており、まあよくも見事にぶっ壊した、と感心する次第。
築城者八田知家は、宇都宮朝綱の弟であり、鎌倉幕府の重鎮たる宇都宮支族の小田氏と、源氏でありながら、源頼朝に討伐された佐竹氏とは、その頃から相容れない、不倶戴天の敵であったと想像できる。

2019年08月25日 源山城守@ポンコ2…
小田城



駐車場がある「小田城跡歴史ひろば」(無料)へは城址を見る前でも後でも、見て損はないです。
城址を見た後に行きましたが、つくばや小田氏の歴史や小田城の三度の改築等の変遷、発掘や整備前後などが学べます。

ここから小田城址へは数分で行け、最初に西堀(空堀)と主郭の土塁が目に入ります。
土塁をくり貫いた通路にトイレは残念なとこですが、それ以外の空堀、土橋、主郭の虎口・土塁や建物や庭があった所を示す物など、中世の館形式がよくわかります。
(このくり貫きは筑波鉄道の線路跡にあたるそうです。)
以前某国営放送局の歴史ヒス●リアで優雅な小田城と表現してたのが理解できました。
小田家最後の当主氏治に焦点があたりがちですが、八田知家から始まる約400年の栄枯盛衰や幾度の攻城戦、北畠親房が「神皇正統記」を記したんやなど歴史の荒波をモロに受けてきたと思うと感慨深かったです。
また、東曲輪や南西馬出なども整備されてます。

主郭などそれほど広くないものの、かつては広範囲な城域の中心を知ることできました。


2018年12月23日 GAGA関白百万石
小田城

横浜の城EXPOには行かずに、八田知家から続く名門、小田氏の本拠である小田城跡に行って来ました。

小田城跡歴史ひろば案内所に駐車場があります。

小田城跡歴史ひろば案内所は無料で入館することが可能で、一部の展示は撮影することが出来ます。

小田城跡歴史ひろば案内所は、旧主郭北側の曲輪内にあります。
ここには1987年まで筑波鉄道の常陸小田駅がありました。
現在もホーム跡が残っています。

小田城跡はきれいに整備されており、簡単に見学することが出来ます。

主郭には八田知家お手植えの大ケヤキや土塁、空堀、馬出がきれいに残っています。

また、小田氏の館時代の池が小石で再現(枯山水ではありません)されています。

遺構がきれいに保存されており、歴史初心者の方もマニアの方も楽しめると思います。

つくばや土浦などへお越しの際は、ぜひ行ってみてください。

2017年08月20日 
小田城

アプリを始める前の、2011年9月に訪れたことがありました。
その時は、まだ復元整備が始まったばかりで、整備途中のところや、周辺も昔ながらの感じは残っていましたが、見学するのが、大変でした。
今回、約6年ぶりに訪れて、綺麗に整備されていてびっくりしました。
資料によると2009年から、7年かけて、発掘調査成果をもとに城跡中央の本丸跡と
その周辺を中世の小田城を体験できる、遺構復元広場と案内所からなる歴史ひろばとして復元整備したそうです。
お城跡も、時代と共に、整備されるところが増えましたね。
何年かたって訪れてみるのも、楽しいと思いました。

2017年07月25日 
小田城

工事が終わり、とても綺麗になりました。駐車場もあります。資料館もできました。

2016年12月08日 牢屋見廻り同心マダオ
小田城

平成28年度小田城発掘調査現地説明会に行ってまいりました。
平成28年度は曲輪Ⅴ(本丸西側)と田土部曲輪の間の堀跡の調査で、現状から幅約30mと推測。小田城の堀では最大級を誇る。本年度はこの堀跡に幅4mのトレンチを設け、調査を行ったところ東西・南北それぞれの方向に障壁を持つ障子堀が巡っていたことが明らかになりました。
今回見つかった障子堀は、東部(曲輪Ⅴ側・内側)、中央部・西部(田土部曲輪側・外側)でそれぞれ形態が異なります。堀東部の障壁は幅約30〜50cmと細く、見つかった箇所は十字に配置されています。また障壁の標高は低く、傾斜も急になっているほか、堀底は深かった状況が明らかになりました。堀中央部と西部の障壁は、幅約1.5m〜2mと太く、東部の障壁と比べ40cm〜90cm程の高低差があり傾斜も緩やかになっていました。また堀底は中央部で浅く、西部はやや深くなっています。こうした障子堀の差異は、それぞれ障子堀が造られた時期の違いや障子堀となる以前の土地利用に違いがあった可能性を反映していると考えられます。

詳しいことは小田城跡歴史広場案内所へ。


2016年06月10日 まー刑部卿
小田城

前回は工事中で中に入れなかったが今回旧ホーム上に小田城案内所が建っていた。開館時間に間に合わなかったが広い駐車場に駐車した。

2016年06月05日 鬼義重常陸介いわちん
小田城

綺麗に整備されてました。新しい小田城案内所が隣にできていて、資料などが無料で見学できてありがたいです。車でも、駐車場15台くらい止められます。確かに自転車道も脇にあるので、自転車でもありですね。案内所で情報、資料を得てから小田城跡に攻め込めばより楽しめると思います。建物は残っていませんが、馬出、土橋、堀、土塁などの跡が、よく見れると思います。綺麗なトイレもあり、子供連れでも大丈夫です。

2016年05月03日 蒲生兵部卿郷信
小田城

28年4月29日に小田城址歴史ひろばがオープンしています。新設された案内所では発掘調査時の出土品や小田城の歴史を観ることができました。駐車場も十数台あります。サイクリングロードに隣接しているので自転車での訪問もありかと。

2015年10月25日 Nabeppu左馬頭
小田城

前の方も記載されてますが、平成28年3月18日迄復元工事中です。現段階では、北虎口より本丸跡に入れますが、一部分立ち入り禁止の場所も有りますので注意。駐車スペースは身障者用が2台有りますが、一般用は現在ないです。ただ工事関係者用が有りますので許可を頂けば大丈夫かもしれません。とても整備され見学し易いよ。

2014年06月13日 野舘宮内少輔サラマンダー
小田城

本日、筑波温泉ホテルという所で温泉に入りに来たので、帰りに小田城に寄ろうと思ったのですが、確か工事中だったので、市に連絡してみました〜

そしたら、平成28年完成予定、らしいです…

工事するのって大変なんですねぇ

完成を待ちましょう

2013年11月14日 野舘宮内少輔サラマンダー
小田城

2013年11月13日15時(45分)

ここに来る道中、住宅があり道が狭いので御気を付けください
駐車場がありませんが、路肩に停められました
トイレは仮設がありますが、ずっと置かれているものかは不明…

本丸は只今工事中
中には入れませんが、外周の土塁や堀は見られますので、取り敢えず一周
と思ったのですが、半周しか出来なかったので戻りました…
本丸に掛かる木橋跡は立ち入り禁止でしたが、外郭の一本は渡れそうだったので、大回りをして住宅地の道を通って、やっと辿り着きました
南西馬出跡という所で、土塁と堀が綺麗に整備されていました〜
あとパンフレットがあるのですが、丁度無くなっていたので、思い切って電話した所、宝キョウ山休憩所にあるとの事でした
勿論ゲット
整備が終わる来年春以降に、また来たいなぁ〜と思いました

2013年11月14日 野舘宮内少輔サラマンダー
小田城

2013年12月7日、10時30分〜、13時30分〜の二回、現地説明会をやるようです
内容は二回とも同じ内容らしいので、どちらか来られる方はいらしてください、と市の方からありました
詳しくはHPをご覧になるか、直接御連絡くださいとの事です

2013年08月11日 戸次常陸介統虎
小田城

25年8月現在工事が中断されており、中に入ることができず、柵の外から伺うことしか出来ませんでした。

2011年01月03日 徳川内大臣源朝臣康武
小田城

平成23年正月現在、中心郭一帯の史跡復元整備進行中。南馬出など完成。説明板横のケースにパンフレットがあり、自由にもらえる(オールカラー観音開き8頁)。

小田城の周辺スポット情報

 南西馬出(遺構・復元物)

 土橋(遺構・復元物)

 東曲輪跡(遺構・復元物)

 東虎口跡(遺構・復元物)

 大溝・暗渠跡(遺構・復元物)

 東池跡(遺構・復元物)

 南西虎口跡(遺構・復元物)

 西池跡(遺構・復元物)

 小田城跡説明板(碑・説明板)

 小田城周辺景観(碑・説明板)

 旧小田城説明板(碑・説明板)

 本丸説明板(碑・説明板)

 金田城(周辺城郭)

 方穂故城(周辺城郭)

 花室城(周辺城郭)

 上ノ室城(周辺城郭)

 片岡上館(周辺城郭)

 宝篋山城(周辺城郭)

 下坂田屋敷内城(周辺城郭)

 日輪寺館(周辺城郭)

 法雲寺城(周辺城郭)

 藤沢城(周辺城郭)

 岡の宮館(周辺城郭)

 峯台城(周辺城郭)

 神宮寺(寺社・史跡)

 三村山極楽寺跡 五輪塔(寺社・史跡)

 平沢官衙遺跡(寺社・史跡)

 龍勝寺(寺社・史跡)

 稲荷神社(寺社・史跡)

 案内所トイレ(トイレ)

 土塁・堀跡トイレ(トイレ)

 トイレ(トイレ)

 案内所駐車場(駐車場)

 駐車場(駐車場)

 サイクルラック(駐車場)

 小田城跡歴史ひろば案内所(関連施設)

 休憩所(その他)

 つくばりんりんロード小田休憩所(その他)

 つくばりんりんロード(その他)

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