海老ヶ島城(えびがしまじょう)
海老ヶ島城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 茨城県筑西市松原字城ノ内
旧国名
- 常陸国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 結城成朝
築城年
- 寛正2年(1461)
主な改修者
- -
主な城主
- 海老原(結城)氏、海老ヶ島氏
廃城年
- 慶長7年(1602)
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
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再建造物
- -
周辺の城
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関城(茨城県筑西市)[7.0km]
真壁城(茨城県桜川市)[7.1km]
大宝城(茨城県下妻市)[7.7km]
下館城(茨城県筑西市)[8.3km]
多気城(茨城県つくば市)[9.5km]
多賀谷城(茨城県下妻市)[9.9km]
伊佐城(茨城県筑西市)[10.0km]
駒城(茨城県下妻市)[10.8km]
小田城(茨城県つくば市)[13.7km]
久下田城(茨城県筑西市)[14.1km]
海老ヶ島城の解説文
海老ヶ島城の口コミ情報
2024年10月28日 マグロ常陸介祐平
大島城[海老ヶ島城 周辺城郭]
茨城県の中世城館によると、現在見られる遺構は、真壁氏によって作られた可能性があり、慶長7年(1602年)に佐竹氏が秋田へ移封の際に廃城になったとされるようです。小田氏と佐竹氏が争奪戦を行った北西に3kmに位置する海老ヶ島城の攻略拠点もしくは海老ヶ島城と小田城を結ぶ中継点として早い時期に築かれた可能性を指摘しています。
お城は田園の中の微高地で、細い用水路に囲まれた大島の集落が城域となるようです。南北になった3つの曲輪で構成され、曲輪を区切る堀の痕跡の一部が残るようですが、わかりませんでした。写真の場所は、横矢掛かりの痕跡と思われます。
2024年10月27日 マグロ常陸介祐平
石田館(推定地)[海老ヶ島城 周辺城郭]
宇多天皇の勅命により平姓を賜り臣籍降下した桓武天皇の曾孫平高望の長男国香が、居住したと伝わる館の推定地です。現在は長光寺が建っており、説明板がありますが、遺構は見られません(写真1,2,3枚目)。
一族の抗争の中で、平将門に攻められ、国香はこの館で命を落とします。いわゆる承平・天慶の乱の発端となった事件です。
その後、嫡男の貞盛は藤原秀郷と共に将門を討ち、子孫は平清盛へと続きます。
近くには平国香の墓が2つあり、墓①は古墳の石室の部材を集めて立てたような感じで、民家の庭の奥にあります(写真4,5枚目)。墓②は小さな自然石のような感じで、畑の中にあります(写真6,7枚目)。前回訪問した際は、説明板のみの見学でしたが、今回はたまたま双方の土地の所有者がいらしたので、2件とも参拝することが出来ました。訪問難易度の高いお墓です。
2024年05月04日 マグロ常陸介祐平
海老ヶ島城
お城の歴史については、先人様が詳細に書き込まれています。
大規模な城郭でしたが、1615年の廃城令後に松原村の農民が移住して集落が形成されたことにより遺構はあまり残っていません。
Googleマップに位置登録されている稲荷神社が祀られている二郭土塁(写真1枚目)とその東側の墓地はかなり断片的に残る土塁が見られます。新善光寺(写真2,4枚目)の墓地脇には堀と土塁が見られ、門前の大川沿いもそれらしくは見えますが微妙な感じです。龍泉院(写真6枚目)の墓地裏にも堀と土塁(写真5枚目)が確認出来ました。(龍泉院の墓地には、このお寺の開基と思われる延元年(1356年)卒の家秀眞家城主?の紀伊守を初代とする古い宝篋印塔が三基並んでいますが、ネットでは出てきませんでした。)
2006年の「海老ケ島城跡」報告書はネットでも閲覧できますので、興味のある方はご覧下さい。
2023年09月06日 RED副将軍
海老ヶ島城
結城氏と小田氏が何度も奪い合った激戦の城跡⚔
オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎
1461年に結城成朝が築城開始。
1467年に完成し、子である海老原輝明が初代城主となりました。
1546年、宍戸道綱の侵攻により海老ヶ島城は落城。同族の小田氏の所領となり、 家臣で小田六騎の一人に数えられる平塚長信が 城将として入城しました。
1556年、北条氏の支援を受けた結城氏は海老ヶ島城を奪回するために山王堂に陣を置いて侵攻。第一次山王堂の戦い、または海老ヶ島の戦いと呼ばれる激戦の末に小田氏は撤退します。しかし、同年中に小田氏が復帰し再び平塚長信が城主になった様です。
1559年、17代当主に結城晴朝が就任すると、小田氏治は再度、結城氏に侵攻しますが、結城氏に援護した小山高朝、真壁氏幹により敗走。平塚長信は討死し、海老ヶ島城は結城氏の領有となります。
1560年、小田氏治は佐竹氏・宇都宮氏と連合し、再び結城氏を攻撃。最終的に和議となりましたが海老ヶ島城は小田氏の支配となり平塚大輔が城主になります。
上杉謙信が北条氏に与した小田氏治を第二次山王堂の戦いで破ると、1569年には北条氏の進出を防ぐために佐竹義重は、太田資正、梶尾政景、 真壁氏幹、多賀谷重径らと共に海老ヶ島城に攻め寄せ、平塚大輔は降伏。
その後、宍戸義長の時代に城下町が整備されます。
1600年の関ヶ原の戦いの後、佐竹氏が出羽秋田へ転封となると宍戸義長も従い海老ヶ島城は廃城となりました。
見所
往時は水が張られた島状の湿地帯に築かれた大規模な水城とも言える構えでした。
現在は宅地化や農地化によりほぼ消失するも、集落の至るところに空堀や土塁が点在しています。
新光善寺や龍泉院の周辺にはヤブ化するも空堀が残り、県道14号沿いには二郭の土塁の一部が残ります。
時間の関係上、集落の一部しか散策できませんでしたがまだまだ遺構はありそうでした。
2019年05月30日 感謝修理大夫はる ◢͟│⁴⁶
本丸跡[海老ヶ島城 遺構・復元物]
住職さん曰く、宍戸から来た宍戸氏(海老ヶ島氏)が住まわれてたとされる場所。現在はアパート。海老ヶ島一帯ではなく東松原、西松原一帯が海老ヶ島城だったようです。
2019年05月30日 感謝修理大夫はる ◢͟│⁴⁶
新善光寺[海老ヶ島城 寺社・史跡]
運が良ければ、住職さんにかなり濃厚なお話を聞けます!
2019年05月30日 感謝修理大夫はる ◢͟│⁴⁶
内堀跡[海老ヶ島城 遺構・復元物]
墓地を囲って本丸跡辺りまで伸びていました
2017年06月04日 左衛門佐平八郎
海老ヶ島城
案内板 石碑等は見当たりませんでした
新善光寺さんの駐車場に置かせていただきました
新善光寺と龍泉院を囲む範囲が城域だったようです
地元の方に尋ねましたが 子供の頃には堀があって遊び場だったと仰ってましたが 今はその名残りが垣間見える程度のようです
「大村郷土史」には、「海老ヶ島城は大字城之内にあり、東西三町、南北四町ばかり、免責は四万坪、今やおうむね民家たり、水田を繞らして、残濠の尚存するあり、南方に塚あり物見という。西に馬場跡があり、中世小田氏の臣、平塚山城守長信之れに居る」とある。
安永年間(1772~80)の海老ヶ島城絵図によると、現在、中城と呼ばれている畑地に、本丸、二の丸、三の丸が存在していた。なお二の丸の南側は平沼へと拡がり、三の丸の側には竜泉院、鈴光寺、大勝寺、成徳院などの四か寺があり、東方の新宿(現在の海老ヶ島)に面して大手門が見られ、その東方に蔵屋敷が配されていた。
また、「お蔵屋敷」と呼ばれる場所は三の丸の西北端にあって、本丸、二の丸、三の丸が、それぞれ堀で構成されていたように、「お蔵屋敷」も堀で囲まれていた跡が見える。この外に三の丸北方の外堀に接して、不動院、弁財天があり、弁財天池は現存している。
三の丸の西方には新善光寺があり、これより離れて宝善院があり、その西隣に「論所の林」があると絵図は描いている。
城絵図が示すように、城郭の周囲は水を湛えた湿地帯が広がり、攻め難い水城の構えを示している。城に出入するには船を利用することが多かったといわれている。とくに城郭の北東部にあたる蔵屋敷に近いところに船着場が設けられ、現在でもその跡が残されている。
城郭内には、寺院が多く建立されていた。現存する竜泉院は、宍戸城主宍戸家秀が西茨城郡泉村(現岩間町)に建立した寺院で、この地に移されたと伝えられる。
竜泉院に入る参道は、現在でもかつての遺構を残しており、鈴光寺西側のやや北寄りの道路に設けられている。その参道の東端に竜泉院の第一山門があった。この山門跡を村人たちは大門と呼んでいる。
海老ヶ島城跡実測図(昭和58年9月、明野町役場作成)によれば、二の丸に面した平沼を除いた外堀の延長は、2025メートルに及ぶ。土塁については消滅部分が多く総延長は不明である。
ともかく本丸及び二の丸を含めた城跡の周囲は、実測によると1995メートルで、中世における平城形式城郭としては規模が大きい、なお本丸の周囲にある堀跡は北側の外堀に続き、これが本丸の西部から平沼へと流れ込んでいる。その堀延長は971メートルで、海老ヶ島城は湿地の中に築かれた水城であった。
また、海老ヶ島城の西北方に、今館と呼ばれる地点があり、出城的遺構が見られる。しかも、その北東部に今館集落があり、古くから比較的大きな集落があったらしい。