大宝城(だいほうじょう)

大宝城の基本情報

通称・別名

所在地

茨城県下妻市大宝/筑西市関舘他(大宝八幡宮)

旧国名

常陸国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

下妻長政

築城年

貞永元年(1232)

主な改修者

主な城主

下妻氏

廃城年

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)

指定文化財

国史跡(大宝城跡)

再建造物

碑、説明板

周辺の城

関城(茨城県筑西市)[2.4km]
多賀谷城(茨城県下妻市)[2.4km]
駒城(茨城県下妻市)[5.0km]
海老ヶ島城(茨城県筑西市)[7.7km]
多気城(茨城県つくば市)[10.7km]
豊田城(茨城県常総市)[11.4km]
古間木城(茨城県常総市)[12.1km]
下館城(茨城県筑西市)[12.3km]
逆井城(茨城県坂東市)[12.8km]
小田城(茨城県つくば市)[13.8km]

大宝城の解説文

平安時代から南北朝時代にかけてあった城跡。西、北、および東方の一部を旧大宝沼に囲まれた台地の地形を利用して造築された城郭であり、東方も古い時代は沼か湿地であったと思われるから三方断崖に面した要害の地であった。

東西288m・南北576mで台地の北方を本丸、南方を大手、東を搦手とした。興国2・暦応4年(1341)11月、春日中将顕国が興良親王を奉じて小田城よりここに移ってから、東国における南朝方の拠点となった。その後、北朝方の猛攻をうけて苦戦を続け、食糧不足と城内不和のため、興国4・康永2年(1343)11月12日落城。城主下妻政泰は討死したといわれる。

城跡は大宝八幡宮の境内として今にその面影を留めている。八幡宮裏に昭和6年(1931)5月建立の『贈正四位下妻政泰忠死之地』の碑と、昭和18年(1943)11月の『下妻政泰公碑』が建っている。

情報提供:下妻市教育委員会生涯学習課


大宝城の口コミ情報

2025年10月15日 マグロ常陸介祐平
東叡山承和寺跡[大宝城  周辺城郭]



Googleマップでは「東叡山承和寺跡」と共に「赤浜・源護館」で位置登録されています。地元の伝承では、筑西市黒子にある「東叡山金剛壽寺千妙寺」の前身のお寺の跡とされてきたようですが、昭和62年の確認調査により、寺院跡ではなく鎌倉時代の居館であることが判明しています。館の主については特定出来ていないようです。

また、調査結果とは年代が異なりますが、ネット上では平国香に娘を嫁がせた、源護の館とするものも見られます。

館は約200m四方の規模があり、鎌倉時代の館としては大規模なものです。お城の区画は一部を除き畑となっていますが、周囲を囲む幅のある空堀が良く残っています。

館の東側に隣接する墓地には、戦国期の小田氏や多賀谷氏のこの地の周辺に見られる家臣と同名の稲葉氏の江戸時代初期からのお墓が見られますが、年代が合わないため、館との関わりは無さそうです。お墓近くに鎮座する赤浜神社は、承和寺の住職が延喜5年(905年)に近江から勧請したと伝わり、境内には詳細不明の五輪塔や江戸期の無縫塔が見られます。

2025年10月12日 マグロ常陸介祐平
大宝城



大宝城のある下妻は、平安時代末期から鎌倉時代初期まで、大掾氏一族野多気義幹や真壁長幹の兄弟である下妻広幹(弘幹)が治めていましたが、八田知家に討たれてしまい、頼朝から小山朝政に与えられます。朝政の孫の四郎長政が下妻を名乗り、長政の子が下妻政泰となります。

興国元年(1340年)、春日中将顕国が興良親王を奉じて小田城から移ると南朝方の東国の拠点となりますが、興国4年になると北の関城と共に高師冬らの攻撃により落城、下妻政泰は関城城主関宗祐共々討死しています。

南朝方のお城ということで、明治40年には下妻政泰に正四位下に贈位され(写真8枚目)、昭和9年には大宝城から関城を含む広い範囲が国の重要文化財に指定されています。

お城の南側、参道入口に土塁が残り、南西の隅は櫓台のようにやや高くなっており(写真2枚目)、そのすぐ北側には斜めに入る入城口(写真1枚目)、大宝駅からの入城口が見られます。また、北側のあじさい園の北側には、土塁や空堀が確認出来ます(写真4~7枚目)。

お城のある大宝神社は、大宝元年(701年)創建の古社で、本殿は天正5年(1577年)に多賀谷尊経により再建されたもので、国指定重要文化財となっています。神社としても見応えがあります。

2025年04月15日 巨福呂伊豆守充瑠
大宝城



現在は大宝八幡宮のすぐ横の保育園の奥に、曲輪らしき場所と周りが土塁に囲まれている場所が確認出来た。本丸(?)から虎口を出て、下に降りていける。濠、堀らしきものが見られます。城趾の案内板もあり。

2024年08月05日 三上蔵人頭
大宝城



大宝駅改札を出て2,3分歩くと左に大宝八幡宮の大鳥居が見えます。八幡宮のあたりが大宝城跡地らしく参道脇にはお城の案内板もあります。境内にて入る手前にゑびすやという茶屋?がありますが基本的にそこ以外に近くに飲食店はない模様です。厄除だんごが名物でこの時期は冷たい抹茶との抹茶セットが美味しいです。

2024年06月17日 守破離対馬守誠信
大宝城



常総鉄道下妻駅のレンタサイクル(実質無料。数に限りあり)を借りて、多賀谷城址から大宝城→関城を巡る。大宝城は大宝八幡宮前が南の本丸周辺で、周囲は池や堀に覆われていたらしい。八幡宮は古い神社で神社裏の紫陽花道が見頃だ。大宝城はあちこちに土塁と思しき緑が続き、遠くに見える筑波山や水田から城をめぐる雰囲気が伝わる。関城の坑道跡。南北朝まで遡る。

2023年06月25日 キャワ
大宝城



飛鳥時代に創建という歴史ある場所とは知りませんでした。

2023年04月24日 あきくん
大宝城



大宝八幡宮の参道の左脇に大宝城跡の説明板があります。

2022年08月07日 シゲコバ勘解由長官
大宝城



少し裏手に駐車場があります。お祭りの時はそちらが良いです。それ以外は、正面でもOK。

2022年06月06日 との武蔵守
大宝城

大宝八幡宮から下妻方面に行くところに土塁と堀があります

2021年06月27日 篠沼大膳大夫義久
大宝城



南北朝時代における常陸合戦での南朝拠点。北畠親房も拠りました。また平将門が新皇の御託宣を受けたと言われる大宝八幡宮があります。こちらは関東最古の八幡宮です。
神社の北、裏手のアジサイ園あたりには土塁切岸船着場など。また、神社南方数百メートルには高土塁や枡形っぽい遺構。
常陸の水城。

2021年06月27日 篠沼大膳大夫義久
大宝城



南北朝時代の幕開けあたりの常陸合戦における南朝方の城。北畠親房も拠りました。関東最古の八幡宮である大宝八幡が鎮座してます。平将門が新皇の御託宣を受けたのはこちらとも。
八幡宮裏手にあるアジサイ園あたりに土塁、切岸、船着場など遺構が見られます。また、八幡宮の南数百メートルあたりに高土塁や枡形っぽい遺構も。大手でしょう。このあたりは戦国時代あたりの改変かもしれません。

2021年04月27日 嘘つき宰相アベ
大宝城



大宝八幡宮に大宝城の遺構あり。かなり大きな城跡で、関城とともに南朝方の拠点。かってあった大宝沼が城の防御の要であろう。

2021年03月27日  あ
大宝城



大宝神社にあり、気持ちいい所でした🎵是非、御朱印帳持参で‼️


2020年09月13日 kazuyou大蔵大輔
大宝城



大手の大土塁は圧巻です。大宝八幡宮の敷地が城の中心部と思われますが、遺構は、搦手の土塁と空堀が確認できます☝️車で行く方は、大手の土塁と鳥居の先の空地に駐車して歩くのも良いでしょう😃八幡宮の駐車場🅿️もあります☝️

2016年01月01日 まー刑部卿
大宝城

城跡の標柱が関城から行くと畑の中にあり広大な城域と思われました。先人も書いていますが大宝八幡宮の石碑脇にも標柱と土塁跡が残っています。

2014年07月10日 征夷大将軍ヒトリモン
大宝城

大宝八幡宮のあじさい神苑に遺構がみられます。
駐車場は八幡宮東隣の保育園前に参拝者用がありました。

大宝城の周辺スポット情報

 曲輪(遺構・復元物)

 土塁(遺構・復元物)

 土塁(遺構・復元物)

 空堀(遺構・復元物)

 説明板(碑・説明板)

 説明板(碑・説明板)

 説明板(碑・説明板)

 説明板(碑・説明板)

 下妻政泰忠死之地石碑(碑・説明板)

 城址碑(碑・説明板)

 東叡山承和寺跡(周辺城郭)

 敵返不動尊、大宝十一面観世音(寺社・史跡)

 大宝八幡宮(寺社・史跡)

 参拝者用無料駐車場(駐車場)

 駐車場(駐車場)

 宝物殿(その他)

 重軽石(その他)

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