逆井城(さかさいじょう)

逆井城の基本情報

通称・別名

逆井古城、飯沼城

所在地

茨城県坂東市逆井1234

旧国名

下総国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

逆井常宗

築城年

享徳年間(1452〜1455)

主な改修者

主な城主

逆井氏、後北条氏

廃城年

天正18年(1590)

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀・水堀)

指定文化財

県史跡(逆井城跡)

再建造物

櫓、櫓門、土塀、主殿、木橋、石碑、説明板

周辺の城

関宿城(千葉県野田市)[8.4km]
古間木城(茨城県常総市)[9.6km]
駒城(茨城県下妻市)[10.5km]
多賀谷城(茨城県下妻市)[11.1km]
栗橋城(茨城県猿島郡)[11.8km]
大宝城(茨城県下妻市)[12.8km]
関城(茨城県筑西市)[13.5km]
豊田城(茨城県常総市)[13.8km]
塚田城(栃木県小山市)[14.3km]
古河公方館(茨城県古河市)[14.3km]

逆井城の解説文



逆井城(さかさいじょう)は、茨城県坂東市逆井(下総国猿島郡)にあった戦国時代の日本の城(平山城)。落城後、後北条氏によって大規模に築城しなおされたため、それ以前の遺構と後北条氏時代の遺構が重なっている。はじめの逆井氏の城を逆井古城、後北条時代の城を飯沼城ともいう。

概要 

北側に西仁連川用水を臨み、西に入江だった蓮沼が存在する台地の先端上に位置している。西仁連川は江戸時代の干拓の際に沼の西側外周部が掘削されたもので、干拓前は飯沼という南北30kmに広がる沼が城の北方に存在していた。この南北に細長い飯沼は逆井城の北で東西に蛇行しており、城はこの沼の歪曲部に位置し沼に囲まれた「後堅固の城」でもあった。

北崖を飯沼が洗い堅固なため、本丸が最北端に位置している。南側に曲輪が連なり、大軍も収容できるように大規模な構造となっている。

築城は享徳年間ごろといわれる。小山義政の五男・常宗がこの地を領して逆井氏を名乗り、この城を居城にしたという。しかし常宗の孫・常繁のときの天文5年(1536年)、古河公方方であった逆井氏は後北条氏と対立した。そのため後北条方の大道寺盛昌の攻撃を受け逆井古城は落城、逆井氏は滅亡したと伝わる。ただし落城年がこの地域への後北条氏の進出時期に合わないため落城時期には異論もある。

後北条氏の勢力下に入った逆井城は、天正5年(1577年)、玉縄城主北条氏繁によって藤沢から技術者が呼ばれ、新たに築城されることとなった。逆井の地は北条氏にとって下野・常陸方面への侵攻の最前線であったためである。後北条氏の最新の技術が投入された飯沼城には氏繁が入り、佐竹氏・多賀谷氏などと対峙した。天正6年(1578年)、氏繁は逆井城で没し、その後を子の氏舜・氏勝兄弟が継いだ。風魔小太郎の子・風魔孫右衛門など忍者集団300人が拠っていたともいう(『関八州古戦録』)。

天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐による後北条氏没落に伴い、廃城となった。

逆井城跡公園 

城址は公園化され、櫓・土塀・櫓門・木橋などが復元されているが、これらは発掘調査に基づいた時代考証を行い復元されたもので、中世城郭の姿をできるだけ忠実に再現している。また復元位置をずらして遺構の保存を行っている。西二ノ曲輪は逆井城以外からの移築建造物・復元建造物が存在する。関宿城の薬医門、復元された古河城書院礎石など。本丸殿社の位置には堀之内大台城の御殿が復元されている。

また「鐘掘り池」という池もある。池の名の由来は、逆井城落城時に城主逆井常繁の室(娘とも)の智姫が先祖伝来の鐘を被ってこの池に入水したと伝えられたため、この鐘を探すために後に何度も池が掘り返されたことにちなむ。

参考画像 

参考文献 

  • 【書籍】「下総国 逆井城址」

逆井城の口コミ情報

2025年02月21日 マグロ常陸介祐平
三浦氏陣屋[逆井城  周辺城郭]



寛永18年(1641年)、壬生藩の三浦安次の弟の共次が5000石を分知され旗本として独立、この地に陣屋を置いたとされています。宝暦元年(1752年)3代目梐次の代に旗本植村千吉(上総勝浦藩分家)が朝比奈義豊に殺害された事件で、偽証が発覚して改易となり、陣屋は廃されています。

旗本の江戸在住が定着した寛永期の陣屋としては、立派な土塁が囲んでおり、中世の館のような雰囲気があります。三浦氏の氏神を祀ったとされる陣屋稲荷付近のみ土塁が消滅していますが、稲荷の裏側部分の土塁は空堀を伴います。

Googleマップの表示は「土手中遺跡」となっているので、行かれる方はご注意ください。

2025年02月20日 マグロ常陸介祐平
諸川西門城[逆井城  周辺城郭]



天正年間に諸川の地を支配した古河公方足利氏の家臣、柑子(こうじ)信濃守の居城と伝わるようです。その後、柑子氏が信田庄佐倉村に移ると、家臣の中村豊後守が城に入り、古河公方足利氏に属したようです。中村氏は江戸時代になると諸川宿の本陣を務めています。

遺構としては、中村家の裏に土塁が一条残っており、畑を挟んだフェンス越しに見ることができます(写真1,2枚目)。

諸川宿は、日光東街道の宿場町で、年代を感じる醤油醸造元など古い町並を見ることができます。関ヶ原の戦い前の会津出兵では、諸川に山内一豊が宿陣し、この地で妻の千代からの密書を受け取っています。ひょっとしたら、このお城に在陣したかもしれません。また、街道沿いの向龍寺では、板碑群を見ることができます。

2024年12月01日 noble中納言弥勒菩薩
逆井城



逆井城です。

門や櫓、復元されているものもあり、一昔前は保存整備の教科書のように言われていたような記憶があります。

しかし、近隣の関宿城ともども如何せん立地、つまり公共交通の便が非常に悪く、車でないとまず行く気にはならない所。それ故、今は“お城”目的で訪れる人は極小です。

しかしこの日、城内に人がたくさんいました。全部で50人くらい?ニ曲輪、三曲輪でおじいちゃん、おばあちゃんがゲートボール…😅そう、ほぼ“ゲートボール場”です😖

一部崩されているところもあるものの、往時の遺構はかなり残っています。

主曲輪は広いがかなり凸凹。削平はあまりされていない。土塁高い。ニ曲輪、三曲輪は、ゲートボール場となっているが、まぁ形状は分かります。主曲輪南側の馬出は堀もパッキリしており、これは一見の価値あり。各曲輪間の堀は残存度は良いが、総じてかなり埋まって緩くなっている。

それほど城域広くはないが、やはり一度は訪れてみたいお城。鄙びていていい感じでした😄

2024年11月26日 くま
逆井城



堀に囲まれた遺構もしっかり残っていて素晴らしい。復元された二層櫓や御殿などは他からの移築や想像ですが…風情があります。

2024年07月02日 ファン掃部助トム治郎
逆井城



境町車庫のバス停から城趾経由し、石下駅まで20キロほど歩きました。当時この辺り湿地だったことがよくわかります。

2024年06月13日 マグロ常陸介祐平
和歌城[逆井城  周辺城郭]



和歌城は和歌氏が築いた館で、この地域が多賀谷氏の勢力下になると和歌十郎は小田原の後北条氏に通じ、多賀谷家植は赤松民部に十郎を討たせます。
その後、赤松氏が管理を任され、北条氏の侵攻を受けながらも城を整備します。太田城が出来るまでの短期間、多賀谷三経の居城となりますが、三経が太田城に移ると改めて赤松氏に授けられています。
太田城とは300メートル程の距離にあり、出城のような位置づけと思われます。

太田多賀谷氏が越前に移ると太田城とともに和歌城も廃城となり、赤松氏は帰農したようです。明治の当主は自由民権運動で活躍し、明治23年の第一回衆議院議員総選挙で当選しています。

城は、北側に船入場を設けた三つの曲輪で構成された小規模なもので、近年までそこそこ遺構が残っていたようですが、現在はあまりハッキリしない土塁が一条見られる程度です。

城域には観応の擾乱により下総に逃れた播磨赤松氏の一族の赤松祐弁の供養の為に、子孫が建立した五輪塔があります。

2024年06月12日 マグロ常陸介祐平
太田城[逆井城  周辺城郭]



多賀谷重経の実子三経の居城です。多賀谷重経は、結城氏と佐竹氏に両属することで20万石程度の勢力を保っていましたが、小田原征伐後に豊臣秀吉の命令で継養子の宣家(佐竹義重の子、後の出羽亀田藩主岩城宣隆)は佐竹氏に仕え、実子三経は結城氏に仕えることになります。これにれり多賀谷氏は二つの系統に分かれることになります。

主君の結城秀康の越前移封により、三経も越前柿原32,000石を与えられ、太田城は廃城になったようです。三経の諱は、烏帽子親である石田三成の偏諱を賜ったものです。

城の規模は、大きいものだったようですが、住宅地や畑となり縄張の全容は不明のようです。中城と呼ばれる区域は曲輪を囲む土塁がほぼ全周残り(写真4,5,6,7,8枚目)、曲輪の南側と竜昌院との境となる西側には空堀(写真2,3枚目)が見られます。また、竜昌院の西側と北側にも空堀、集落の中央の道路の南側にも土塁(写真1枚目)が見られます。さらに南には愛宕神社のある出丸、北には三経が以前居城した和歌城があります。

近所のご年配の方に尋ねたところ、以前は集落の所々に土塁や空堀が見られたが徐々に減ってきているとの事でした。中城の土塁に囲まれたお宅は、声をかけると曲輪内を見学させて頂けるとの事です。また、住宅裏の空堀(写真5枚目が入口)を進んでくる方がいますが、生活の場所なのでやめて欲しいとも仰っていたので、気をつけましょう。

2024年06月12日 マグロ常陸介祐平
太田城出丸[逆井城  遺構・復元物]



太田城の南側、山川沼排水路に面した微高地に愛宕神社が鎮座しており、太田城の出丸とされています。

愛宕神社由緒沿革には、応永年間(1394~1427)の創建で、天正年間(1573~1592)に多賀谷三経がこの地に城を築き城中鎮護の神として尊崇し、落城するも氏子の信仰さらに厚く(後略)としています。実際には落城していませんが、城内で崇敬されていたかもしれません。

東側の鳥居周辺や北西側に土塁が残ります。当時は全周が土塁に囲まれていたことが想像できます。

2024年06月11日 マグロ常陸介祐平
館沢館[逆井城  周辺城郭]



舘澤天満宮付近が館跡です。建築記念の石碑にある由緒沿革には、「高望王第五世の孫、平良文という位の高い方が、この地方を治める。後に村岡与五郎と改名。天慶二年(939)、陸奥守となり、鎮守府将軍を兼ねていた時に、澤の上に城郭をつくり舘澤といって、多勢の人々が出入りするようになった。その当時、崇拝されていた、菅原道眞公を祀ってた舘澤天満宮と稱して信仰させた。また、皮膚病の神として信仰され、山椒の樹を奉納する風習がある。」とあります。かなり怪しい伝承と感じましたが、こちらの地名は新地で、南東には古くから栄えたと思われる古墳群のある村岡地区があり、村岡良文の名字の地は熊谷でも藤沢でもないこの地が本命ではないかと妄想は膨らみます。(村岡から、移転した新しい土地という意味で「新地」の地名ができたと勝手に想定しました。)

隣接する弘徳寺は、相馬師常(千葉常胤の子で、法然の弟子)の子の相馬義清(信楽房)が自邸を道場としたのが寺の起こりと伝えられる古刹で、本堂裏には信楽房の墓(写真6枚目)があります。
信楽房(義清)は、相馬氏の系図には出てきませんが、親鸞の直接の弟子で浄土真宗では重要人物(善鸞絡み)の一人とされています。(厚木市飯山の弘徳寺も信楽房が開基)
自邸を道場にしたということですので、相馬氏に関連する館かもしれません(良文の所領が子孫に伝来した?義清は良文から9代目)。

遺構らしきは、舘澤天満宮の椎の巨木付近に堀切の痕跡(写真2枚目)が見られます。また、弘徳寺の参道横の用水路は、新しいもののように感じますが、折れの具合いが堀のようにも感じられます(写真5枚目)。

2024年01月09日 ムサコ甲斐守
逆井城



復元櫓が見どころですが、堀や土塁も残っていて、リア攻めしに来た甲斐がありました。関宿城の門が一つ、ここに移築されています。

2023年04月24日 あきくん
逆井城



逆井城跡公園には、駐車場もあり、櫓も復元されており、櫓内にも入れます。

2023年04月23日 マグロ常陸介祐平
秋葉館[逆井城  周辺城郭]



たまたま草刈りをしていた、今なお在住の館主のご子孫の方からお話を聞くことが出来ました。

833年頃に下総小目従七位下丈部継道により築城された古くからあるお城で、その後平将門の乱により一旦廃城となるも、遠江から来た秋葉氏が、建久年間(1190年代)には居館していたようです。

永正年間に結城氏より武功により左二ッ巴の家紋の使用を許され、また古河公方家から領地を与えられたのを機に現在の館を構えたとのことです。

永禄二年に多賀谷氏の攻撃を受け従属し、多賀谷氏の改易により帰農したそうです。

遺構は薄めですが土塁が囲み、長屋門前の通路脇の土塁、南側の切岸などを見ることが出来ました。

その他、江戸時代の開拓の話や関宿藩久世家の江戸屋敷への奉公の話などをお聞かせいただき、貴重な体験となりました。

2023年04月22日 マグロ常陸介祐平
駒寄城[逆井城  周辺城郭]



坂東資料館ミューズから300m東にあるお城です。資料館には逆井城の説明はありますが、近くにあるこのお城には触れられておりません。

西側の広い曲輪と堀切に仕切られた東側の曲輪がありますが、西側は畑、東側は土塁や虎口らしき痕跡は確認できますが、曲輪自体が狭く、平坦では無いため微妙な感じです。

2023年02月06日 上田図書頭雪娘
逆井城

綺麗に整備されています。空掘もあり公園化もされていますが一度訪れることをおすすめします。

2023年01月31日 ruiw0302
逆井城

主要な街道と街道の中間に位置しているけど分かりにくいと言うことはなく、また駐車場も充分に確保されている。快適に訪れることができるお城。北条家が関東攻略最前線に改めて築城し直しただけあって見応えもたっぷり。思ってた以上に撮影ポイントがあり、時間的にそれなりの余裕を持って訪れるのがベター。雨の日、雨上がりには足元のケアにご配慮。

2022年07月23日 おかっぴき
逆井城



中世の城跡です。土塁や堀などが良く残り見どころがあります。櫓や建物も復元されていて良い城跡です。お勧め出来る城跡です。

2022年05月04日 坂東のダイ
逆井城



茨城県南東部の坂東市の誇る城です 小田原征伐で落城後そのまま廃城になりました非常に良く整備され歩きやすく春には桜の名所になります 戦国時代の建物が再現されています

上の写真より
1、本丸に再現された木橋と櫓門
2、二層櫓と井楼矢倉
3、外堀と横矢掛り
4、井楼矢倉 現在は上に上がれません
5、本丸土塁より木橋、櫓門、堀
6、角馬出し
7、鐘掘池
 1536年、城主奥方が釣鐘をかぶり池に飛び込み自殺した伝説があります

2022年04月11日 まるぺこ左衛門督
逆井城



堀がいい感じであります。復元された井楼櫓素晴らしい。登れない(昔は登れた?)のは残念。その他、門や櫓も復元されてます。

2022年04月10日 さすけ渡島守
逆井城



堀がいい感じです。復元した、井楼櫓、二階櫓なども雰囲気があって良いです

2022年01月07日 陸奥守新九郎
逆井城



発掘調査を基に、復元したという戦国期の城郭の景観が見られます。井楼櫓など、賛否両論の復元もありますが、ひとつの城郭整備の姿として、見る価値はあると思います。

2021年06月28日 千葉相模守早雲
逆井城



沼を利用したと思われる堀と空堀があり、堀の向こう二層櫓と土塀、矢倉が立ち並びます。土塀に沿って内側を行くと、矢倉の奥や主殿裏にも土塁が続き、北側まで行くと虎口があります。

公園管理事務所の前には鐘掘り池と馬出しと思われる遺構があり、土橋を渡って奥にも曲輪があります。そこから東に進むと、大きな空堀に架かる木橋と櫓門が見えます。

空堀は底に下りて歩く事が出来、堀底がら見上げると狙い打ちにされるのがよく分かります。城の東側にも空堀があり、いくつか木橋が架かっていますが、ここも歩く事が可能です。ニノ曲輪には関宿城の薬医門や大台城御殿が移築復元されています。

2021年05月05日 織田上総介晃司
逆井城

逆井城跡公園として整備されており駐車場もあります。

中世の城を忠実に復元されており納得の城です。
二重櫓などは16:30で入れなくなりますが公園自体は解放してあるので外観を眺める事はできます。

2021年04月18日 マグロ常陸介祐平
逆井城



遺構が良く残っており、櫓、木橋、主殿などが復元され、関宿城の薬医門が移築されています。近くの常繁寺には逆井氏の墓があります。

2021年03月24日 エムサカ因幡守
逆井城



ここは豊臣以降廃棄された城址ですが、土塁,空堀はそのまま遺構として残りました。
現在は発掘調査の上復元整備が進み、更に櫓,橋等の建築物も時代にあった形で再現され中世城郭が蘇っています。


2020年12月19日 【弐若】真田幸村
逆井城



復元櫓が凄く良いさらに中には中世の空堀に囲まれる

2020年08月24日 拓之助中務少輔
逆井城

戦国の城好きとしては、大変満足な名城です! 二層櫓に登れて狭間が、かけられたり、急な階段を登り縁周りに出て見る景色は戦国の武将の夢を見ているかのような感覚です。 他口コミでは、矢倉は登れないと書いてありましたが、登れた時は最高に、感動しました!ほかの城じゃ復元しない箇所を復元するのは凄かったです。
復元物を見て終わりではなく、ちゃんと土の城の要素も奥の方にありますので見逃さす!
遅くに押しかけパンフをくれました。
管理者の方ありがとうございました。

2020年08月11日 けらりんば甲斐守
逆井城

老朽化のため櫓には登れなくなっています。管理棟て営業していた美味しい蕎麦屋もご高齢のため廃業してしまいました。残念。

2020年05月31日 みかも内匠助48世
逆井城

土塁や堀が見事です。島崎城跡好きの者として堀之内大台城も興味深く拝見しました。贅沢言えば綺麗すぎかなと(笑)

2020年02月06日 独眼竜常陸介
逆井城



思いの外、復元されていて驚いてます。
何より城だけあって敷地が広いけど、平野の城だから、すぐに攻略されそうですね☺️


2019年04月08日 長森原
逆井城

さしま古城まつりは今年から秋から春に開催が変更になったそうです。古城まつりの日には、坂東市役所から逆井城跡公園へ無料臨時シャトルバスが出ていました。坂東市役所へは東武アーバンパークライン愛宕駅(千葉県野田市)から岩井車庫行きの路線バスで行けます(一時間に一本程度、岩井局前下車)。
車でないと行けないだろうと諦めていた逆井城でしたが、古城まつりの日に満開の桜の中で登城を果たす事ができました。
復元された井楼櫓や二層櫓、移築された関宿城の薬医門も素晴らしかったですが、土塁や空堀が思っていた以上に良く残っていて電車とバスを乗り継いで行った甲斐がありました。

2018年10月27日 土塁ルイ
逆井城

北側にあった井楼櫓が最近撤去されたようで残念です。

城跡公園は中世城郭の雰囲気が素晴らしく、関宿城薬医門や古河城書院礎石、大台城の復元「主殿」といった移築や展示もあり楽しい遺構です。

「主殿」の説明板は今までよく読んでいませんでしたが、堀之内大台城というのは、佐竹義宣が「南方三十三館」の領主謀殺後(1596年)、島崎城の北西1kmに築いた常南支配の拠点となる城で、発掘調査で三重櫓や枯山水庭園の他、廊下橋、二重犬走り等が確認され、中世城郭から近世城郭への移行期最終形態の城でした。
現在、遺構は消滅しており城めぐ対象にもなっていません。

現地とは離れていますが、この「主殿」を見学した際は是非「南方三十三館」や佐竹義宣公を思い出していただければと思います。

2018年08月19日 GINTOKI
逆井城

逆井城趾公園事務所にあった蕎麦工房がなくなっています!ぐるなびに掲載された程有名?等所でしたが!

2018年03月29日 野舘宮内少輔サラマンダー
逆井城

本日、坂東市教育委員会生涯学習課様より逆井城のパンフレットが送られて来ました~

小さいのと、この前図書館にてコピーさせて頂いたのと同じ物の計二部ありました

どちらもほぼ同じ縄張図ですが、復元された建物の名称が違いますね

小さいパンフ↔️大きいパンフ
二層櫓↔️物見櫓
櫓門と橋↔️二階門
横矢掛り↔️横矢土塁


大きいパンフレットは20ページもあり、写真で発掘の状況等があるので、資料としても価値があると思います

もしご興味のある方は、お問い合わせするのが良いかと思います

2018年03月14日 野舘宮内少輔サラマンダー
逆井城

2018年3月13日12時45分(150分)

過去に記載した口コミの修正です
本来二曲輪に入城出来た入口は、南にある大手橋からのみ
本来一曲輪に入城出来た入口は、東にある二階門からのみのようです

またパンフレットについて坂東市生涯学習課へお聞きした所、只今増刷中との事
欲しいとお伝えした所、増刷が終わり次第送って頂けるとの事でした
逆井城の管理事務所は今は無人(レストランも潰れてしまったようです…)で、そちらにはパンフレットは置けないとの事でした
パンフレットが欲しい方はお問い合わせするのが良いかと思います

坂東市生涯学習課
0297-21-2204

私はさしま郷土館ミューズという所に併設されている図書館で、逆井城の冊子(20ページ)をコピーさせて頂きました
こちらとパンフレットが違うのか、パンフレットが届きましたらお伝えしようと思います

2018年02月03日 【籠城中】下野守智ぞう
逆井城

逆井城から車で20分弱の坂東市市街地にある、レストランタキは本格的洋食店ながら、飲み物付きのランチメニューが豊富にあります。(日曜日はランチメニューなし)

店の雰囲気も昭和風で良いです。

穴場感満載ですが、美味しいです。

オススメ

2017年06月08日 安田民部卿秀俊
逆井城

2016年 大河ドラマ「真田丸」第8話で海津城のモデルとして出演した城です。

・10メートル程ある井楼櫓には昇れます。※転落注意!!

2014年03月25日 コロ助
逆井城

関宿城から徒歩20分程、利根川を渡った所にある「道の駅さかい」にレンタサイクルがあります(1時間\200、延長は1時間\100)。鼻歌混じりにママチャリを走らせて45分程で逆井城に到着します。東側の曲輪にゲートボールコースがあり、多くの方が楽しまれていました。

2013年11月04日 野舘宮内少輔サラマンダー
逆井城

2013年10月13日8時45分(345分)
※純粋に城跡だけを見るなら60分もあれば十分かと…

この日は毎年行われている『坂東市第24回ふる里さしま古城まつり』
臨時駐車場もあり

城の外周はゆっくり歩いても25分位
北側に田んぼが広がり(昔は沼だった)、全体的に2〜3m位高くなっています

東西南北で説明すると、城の北側に本丸とそれを囲っている空堀、入口は東側の木の橋と南西の土橋
遺構などは、鐘堀池と再建された櫓門
鐘堀池の由来は、落城時に身を投げた女性が、鐘とともに入水し、その鐘を堀り出そうとしたため

城の西側には水堀があり、再建された二層櫓や塀、御殿と関宿城移築城門などがあります
この日は特別なのか、二層櫓や御殿の中に入る事が出来ました〜
トイレもこの地区にあります

城の東側に幅20m位の広場が東から南にあり、その外側に空堀があります

最後に城祉の入口があり、管理事務所と食事処がある南側
管理事務所はお休み

城のパンフは不明です…

祭に出陣式や鉄砲演武等がありましたよ〜

2013年09月30日 野舘宮内少輔サラマンダー
逆井城

2013年10月13日、逆井城で第24回ふる里さしま古城まつり
武者行列、鉄砲演武等をやるようです

2013年01月01日 尻啖え孫市中納言
逆井城

時は戦国末期、北条家の北関東攻略最前線基地。平城ながら天然の地形を活かした縄張を確認できる。復元された櫓や木橋、他城からの移築建造物が有名だが、それ以上に秀逸なのが、北条伝統の比高二重土塁やえげつない横矢掛、高低差のある空堀。また城跡周辺のアップダウンのある地形も天然沼を利用した要害を想起するに余りある。

逆井城の周辺観光情報

ミュージアムパーク茨城県自然博物館

県内最大の自然環境保全地域である坂東市大崎の菅生沼のほとりにあり、優れた自然環境と広い野外施設を有し、本館で学んだことを野外で体験できる、参加体験型の博物館です。

菅生沼

沼に生息する魚類や飛来する鳥類、岸部でみられる昆虫や野草の種類が豊富で自然観察者に人気の高いネイチャー・フィールドです。

逆井城跡公園

戦国時代末期に後北条氏の北関東進出拠点として築城された逆井城は、天正18年に廃城となりましたが、現在もその外堀と土塁が残っています。

情報提供:坂東市商工観光課

逆井城の周辺スポット情報

 関宿城移築薬医門(遺構・復元物)

 馬出し(遺構・復元物)

 比高二重土塁(遺構・復元物)

 櫓門(遺構・復元物)

 太田城出丸(遺構・復元物)

 城址碑(碑・説明板)

 飯沼案内板(碑・説明板)

 駒寄城(周辺城郭)

 秋葉館(周辺城郭)

 館沢館(周辺城郭)

 太田城(周辺城郭)

 和歌城(周辺城郭)

 諸川西門城(周辺城郭)

 三浦氏陣屋(周辺城郭)

 観音堂(寺社・史跡)

 トイレ(トイレ)

 逆井城跡公園駐車場(駐車場)

 二重櫓(関連施設)

 井桁櫓(関連施設)

 主殿(関連施設)

 公園管理事務所(関連施設)

 木橋(関連施設)

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