玉縄城(たまなわじょう)

玉縄城の基本情報

通称・別名

甘縄城

所在地

神奈川県鎌倉市城廻200

旧国名

相模国

分類・構造

平山城

天守構造

築城主

北条氏綱

築城年

永正10年(1513)

主な改修者

北条氏綱

主な城主

後北条氏、松平氏

廃城年

遺構

曲輪

指定文化財

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

村岡城(神奈川県藤沢市)[1.2km]
藤沢御殿(神奈川県藤沢市)[2.8km]
斎田左衛門屋敷(神奈川県横浜市)[4.2km]
鎌倉城(神奈川県鎌倉市)[5.0km]
八王子山台場(神奈川県鎌倉市)[5.7km]
大庭城(神奈川県藤沢市)[5.7km]
富士塚城(神奈川県横浜市)[6.0km]
野庭関城(神奈川県横浜市)[6.5km]
中和田城(神奈川県横浜市)[6.8km]
住吉城(神奈川県逗子市)[7.2km]

玉縄城の解説文



玉縄城(たまなわじょう)は、神奈川県鎌倉市玉縄地域城廻(旧相模国鎌倉郡玉縄村)にあった日本の城(平山城)。甘縄城ともいう。最寄の鉄道駅はJR大船駅。

城の歴史 

北条氏時代

永正9年(1512年)に北条早雲(伊勢盛時)により築かれたとされているが、それ以前から砦か小城があった可能性も考えられている。城の外堀が柏尾川と直結し、相模湾まで舟を繰り出すことが可能だった関係で水軍などを統括する重要拠点となった。さらに鎌倉に近いことから鎌倉の防衛という面があった。

大森氏の小田原城を奪い、西相模に進出した北条早雲は東相模の相模三浦氏と争うが、長期戦となった。この際、同氏の主筋である武蔵の扇谷上杉家当主上杉朝興が新井城に籠る三浦義同の援軍として挟撃してくることへの備えが必要とされ、三浦半島の付け根に当たるこの地に玉縄城が築かれた。三浦氏滅亡後は安房里見氏に対する押さえ、また小田原城の守りとしての役割も担った。

北条氏時代には、一門の重要人物が城主として置かれた。初代城主氏時は早雲の実子であるが享禄4年(1531年)に急逝、そのため、氏綱の実子である2代城主為昌が玉縄城に入ったがまだ少年であり、扇谷上杉家との戦いや里見氏の攻撃で焼失した鶴岡八幡宮の再建指揮も兼ねて父である氏綱が小田原城と玉縄城を往復して政務をみた[1]。その後、氏綱は小田原城に戻ったものの、為昌は天文11年(1542年)に急逝する。このため、氏綱の娘婿で長く城代として為昌を補佐してきた北条綱成が「為昌の養子」という名目で3代城主となった(ただし、実際の年齢は綱成の方が上であり、養子縁組の存在を否定する説もある[2])。以後、綱成の子氏繁、氏繁の嫡男氏舜、その弟氏勝と4代にわたって城主の地位が継承された[3]

堅城として知られ、大永6年(1526年)11月26日に足利義明に呼応して鎌倉へ攻め入った里見義豊(里見実堯を大将とする説もある)の軍勢を撃退した鶴岡八幡宮の戦い(大永鎌倉合戦)をはじめ、度々里見氏の攻撃を退けた。また上杉謙信・武田信玄が相模へ乱入した際も攻略をあきらめたほどである(素通りしたとの見方もある)。

豊臣秀吉による天正18年(1590年)の小田原征伐においては、玉縄城主北条氏勝は山中城の守備に就いていたが落城が迫り責任をとり自害を考えた、しかし弟の北条直重らに諌められ思い留まり、敗残兵(毛利家が残した文書には700騎とある)を伴い落ち延び、諸将が集結する小田原を素通りして本拠地玉縄城に戻り籠城したことにより小田原城の北条氏政の疑心を招いた。玉縄城は徳川家康軍に包囲されたが、地元の龍寶寺住職からの説得により4月21日に、降伏・開城。開城後は徳川氏や古田重然、瀬田正忠らが守備した。以降氏勝は、下総地方の北条方の城の降伏開城に尽力し、戦後は徳川家の家臣となり、下総岩富城1万石の領主となり、岩富藩を立藩した。

徳川氏時代(玉縄陣屋)

徳川政権下においても玉縄城は重要視され、家康側近の本多正信・水野忠守の居城となったが、慶長20年(1615年)の一国一城令を受けて元和5年(1619年)に廃城となった。

その後、一門の長沢松平氏の松平正綱が22000石を受けて玉縄に入封され玉縄藩を立藩し、城の南山麓に玉縄陣屋を建てた。しかし3代藩主・松平正久が元禄16年(1703年)2月10日に上総の大多喜藩へ移封となったため、廃藩となった。なお寛政4年(1792年)に松平定信が海岸防備のために玉縄城の再興を計画したが、実現しなかった。

遺構 

周囲の砦を含め、かつては広大な城域であった。1955年(昭和30年)頃までは比較的多くの遺構が残っていたようであるが、1960年以降、東急不動産の開発によりその多くが破却され、玉縄城趾には、1963年(昭和38年)に女子校の清泉女学院中学高等学校が誘致された。近年玉縄城の保存活動が行われ、史跡の指定を目指しているものの、住宅建設の折りに遺構が出てきても保存されるには至っていない。近年まで陣屋坂上の郭などに土塁が残っていたが、現在は宅地化により痕跡程度の土の高まりが見られる程にしか残っていない。また竪堀が複数残っていたが、トンネル横のマンション建設により破壊された。破壊を免れた遺構として、

  • 城の最高部であったといわれる土壇「諏訪壇」がある。諏訪壇下には土塁(もしくは土橋)が残り、更にその下に三角形の小郭が残る。諏訪壇とけまり場間に堀切残る。
  • 七曲坂を上り切った所は虎口跡であり、痕跡が残る。
  • 主郭(現在の学校)の切岸の辺りには土塁の痕跡とみられる低い土盛りが有る。
  • けまり場と呼ばれる郭には土塁が残り、けまり場とその先に有る、月見堂と言われる郭の間に堀切が残る、更に月見堂の郭の先に2条の小堀切が残るが、立ち入りは出来ない。
  • 太鼓櫓と呼ばれる郭が整備され、その真下にかつて通路としても使われた堀切が残る、更にその先にも堀切が有るが、立ち入りは出来ない(この堀切は陣屋坂からマンション越しに見て取れる)。
  • また、清泉女学院校門前に安置されている巨石は、玉縄城遺構の一部といわれる。
  • 立ち入りは出来ないが、城壁の役割を果たした、主郭外周の大土塁、帯郭が残る。
  • その他立ち入りは出来ないが、細尾根に岩を砕いた堀切、空堀と土塁と思われる物、小郭と思われる所も複数残る。

近年は宅地化が進み周囲に数多くのマンションが建築された。清泉女学院中学校・高等学校に隣接する住宅地に「早雲台」、周辺地域に「城山」「城廻」「関谷」「植木」等の地名を残し、辛うじて龍寶寺から玉縄城大手口へと至る七曲坂、久成寺から同じく大手口へ至る、ふわん坂・陣屋坂等が残っているが、それ以外に往時の状況を偲ぶことは困難である。女子校ということもあって学校警備は厳重であり、限られた時を除き、城跡の見学はできない。

現在は2006年(平成18年)に設立された任意団体「玉縄城址まちづくり会議」が、龍寶寺境内の玉縄歴史館などを拠点に玉縄城跡の保護活動を推進しており、城の遺構を守るため、市に働きかけて「市民緑地制度[4]」を活用して太鼓櫓跡を「植木1号市民緑地」として公園化したほか[5]、市による城跡の史跡指定の方針が決定したという[6]

支城(砦) 

玉縄城の周辺には『鎌倉市史』などで支城と考えられている「玉縄城砦群」が分布しており[7]、南西の藤沢市渡内に二伝寺砦がある[8]。さらに南西の藤沢市村岡には村岡城(高谷砦)が[9]、藤沢市藤が岡には御幣山城(御幣山砦)がある。また、北東の横浜市栄区には長尾城(長尾砦、長尾台の塁)跡が所在する[10]

歴代城主 

後北条氏時代

本多氏時代

1.本多正信 2.水野忠守

長沢松平氏時代(玉縄陣屋期)

1.松平正綱 2.松平正信 3.松平正久

周辺の史跡 

  • 龍寶寺-玉縄城の城主たちの供養塔がある(かつては背後の山にあったが、近年麓の寺に移された)。境内には2020年(令和2年)8月1日に開館した民間団体「玉縄城址まちづくり会議(https://tamanawajo.jp/)」が運営する歴史博物館の玉縄歴史館があり、玉縄城に関する復元図、ジオラマや出土したかわらけ、石つぶての石などが展示されている(有料)。

  • 玉縄首塚-甘縄首塚とも。1526年(大永6年)に起きた鶴岡八幡宮の戦い(大永鎌倉合戦)において里見氏に討ち取られた北条方の将を弔った塚で、柏尾川沿いに建っている。毎年8月19日に「玉縄史跡まつり」と題し供養を兼ねた祭りが開催されている。塚の脇には首塚の成立過程を記した1968年(昭和43年)建立の石碑が建っている。

後北条氏の主な城跡 

参考文献 

  • 赤星直忠 1959「鎌倉の城郭」『鎌倉市史 考古編』鎌倉市史編纂委員会 鎌倉市

  • 平井聖・児玉幸多・坪井清足編 1980「長尾台の塁」『日本城郭大系』第6巻(千葉・神奈川)新人物往来社 pp.309-311

  • 平井聖・児玉幸多・坪井清足編 1980「玉縄城」『日本城郭大系』第6巻(千葉・神奈川)新人物往来社 pp.336-339

  • 平井聖・児玉幸多・坪井清足編 1980「高谷砦」『日本城郭大系』第6巻(千葉・神奈川)新人物往来社 p.346

  • 平井聖・児玉幸多・坪井清足編 1980「二伝寺砦」『日本城郭大系』第6巻(千葉・神奈川)新人物往来社 pp.347-348

  • 鎌倉市教育委員会 1996年(平成8年)~ 『鎌倉の埋蔵文化財シリーズ」』(https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/treasury/maibun.html)鎌倉市

  • 鎌倉市教育委員会 1996「戦国時代~近世の鎌倉」『鎌倉の埋蔵文化財1 昭和54年~平成7年分発掘調査選集(https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/treasury/documents/maibun1.pdf)』p.14

  • 鎌倉市教育委員会 2013「1.玉縄城特集」『鎌倉の埋蔵文化財16-平成23年度発掘調査概要《玉縄城築城500年記念特集号》-(https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/treasury/documents/maibun16.pdf)』鎌倉市 pp.1-7

  • 佐藤博信 2006年「第8章 北条為昌と北条綱成」(原論文1986年)・「第9章 玉縄北条氏の研究」(原論文1975年)『中世東国の足利・北条氏の研究』岩田書院 ISBN 978-4872944266

  • 下山治久 2016年「北条氏綱とその文書」(初出:『三浦古文化』36号 1984年)『シリーズ・中世関東武士の研究 第二一巻 北条氏綱』黒田基樹 編 戒光祥出版 ISBN 978-4-86403-200-1

玉縄城の口コミ情報

2024年08月08日 鈴木剛
御幣山城[玉縄城  周辺城郭]



玉縄城の支城、御幣山砦(おんべやまとりで)とよばれる事もあるそうで城主は大谷公嘉、1569年三増峠の戦いの時城主が小田原城に居た為落城、その後奪還するが1590年の小田原攻めの後廃城、現在は住宅地になっていますが御幣山遺跡として2005~2006年の発掘調査では室町時代から戦国時代の物と思われる掘立柱建物が見つかっているそうです。

2024年06月23日 _ClaD雅楽頭リアの季節
玉縄城



清泉女学院の構内のため部外者は立入禁止ですが、学校の許可を得た城郭史学会主催の見学会に参加して、このときしか見られない遺構を見ることができました。
4枚の添付写真のうち①〜③は学院構内、④は鎌倉市が整備中で立入禁止と、いずれも普段は見ることができない堀ばかりです。玉縄城の遺構はすっかり失われたと思っていましたが、こんな素晴らしい遺構を見ることができて感激でした。

写真の説明
①蹴鞠場(右)東側の堀切
②諏訪壇(左)と蹴鞠場の間の堀切
③諏訪壇の南の堀と土橋
④太鼓櫓跡(右)南東の堀切

2024年01月21日 kaba-maru掃部允
玉縄首塚[玉縄城  碑・説明板]

1526年、玉縄城主・北条氏時の軍勢が、鎌倉に攻め込んできた里見勢を迎え討ち撃退した後、戦死者の慰霊のため築いたとされる塚です。塚の脇の榎の大木は、北条方の戦死者の甘糟氏にちなみ甘糟榎と呼ばれています。大船駅からも程近く、柏尾川の辺にあります。

2021年01月30日 でんろく兵部卿パルキー
長尾城[玉縄城  周辺城郭]



玉縄城の出城であった長尾城跡が玉縄城東2キロ程度の横浜市栄区長尾台にあります。上杉謙信の祖先である長尾氏居館跡でもあり、説明板も幾つかありました。併せて近く鎌倉長谷と同じ御霊神社も一見の価値ありです。

2020年08月16日 大納言Z周防守369
長尾城[玉縄城  周辺城郭]



玉縄城の出城とされ、また関東管領上杉氏の家宰・長尾氏発祥の地と伝わる。

2020年07月25日 甲斐守ヨッシー❖津久井衆❖
玉縄城

初めての玉縄城攻めで悩んだのが駐車場でした、龍寶寺の駐車場に駐車する事を考えましたが、(駐車可能か分からなかった)城めぐりの看板を背負ってなので、トラブルは避けたく近くの某大手ホームセンターの駐車場に駐車する事にしました!(入場後90分無料、お買い上げでさらに90分無料、追加料金60分330円)
そこから徒歩でブラブラと龍寶寺へ向かい境内に有る、玉縄ふるさと館、旧石井住宅を見学、(城めぐりとは関係有りませんが、神風特別攻撃隊至誠隊隊長として戦死した團野少佐の辞世の句の石碑を拝見し悲惨な戦争を心に刻み、更に調べると、太平洋戦争中、米兵から情報を聞き出す過酷な尋問所である、大船収容所が北条氏の菩提寺の龍寶寺門前に有ったという悲惨な現実を垣間見る事も有りました)玉縄城の知識を頭に詰め込みいざ城攻めに出陣えいえいおー!
小坂家長屋門〜七曲坂の登り口の冠木門を潜り七曲坂をてくてく登ると途中に七曲坂武者だまり跡が有ります、ベンチに座り景色を見て、さらにてくてく登り坂の上に到着そして、左に入る小道に入ると、太鼓櫓跡へまた元の道に戻り、大手門跡、城址の石碑、(階段で上がった所に有ります!)ふわん坂を通り(ふわん坂の入口は分かりにくく、城宿の中程、石原工務店さんの事務所?作業場?の間の道を入ってください!)某大手ホームセンター駐車場へ帰って来ました、見学時間はゆっくり攻めて約120位でした!
遺構は少ないですが、信玄公、謙信公も落とせなかった当国無双の名城玉縄城へ皆様も是非城攻めに来てください!


2020年07月24日 甲斐守ヨッシー❖津久井衆❖
玉縄城



七曲坂武者だまり址は、七曲坂の途中に有ります、ベンチで一休みも良いかも!

2019年08月04日 雑賀
玉縄城

北条氏繁の戒名を寺名とし建立された龍宝寺が一角にあります。
とはいえ、玉縄城は遺構の一部が残っているに過ぎず住宅地として拓けた地域になっています。

龍宝寺の広々とした明るい参道を進むと立派な本堂があり、左側にひっそりと玉縄北条供養塔があります。

寺院の入口の横には小さな資料館(係員は不在、入館料200円を備え付けの箱に入れる)があり、玉縄城の模型や俯瞰図、発掘調査時の資料などが多数展示。

奥には国の重要文化財でもある古民家(北条家臣の末裔のもの)もあり、小さいながら見応えはあります。

幹線道路に面し駐車場も広く、訪ねやすい場所です。大船駅からは徒歩15分ほど、バスもあるようです。

近隣にも諏訪神社を始め、歴史を感じる場所が複数点在しています。
ゆっくり歩いてみてはいかがでしょうか。

2019年05月11日 長森原
玉縄城



太鼓櫓から陣屋坂へ降りて行き、そこで何気なしに見上げた尾根にこんな地形を見つけました。
後で調べてみたらやはり堀切の跡のようです。
一段低い犬走り状の所は遺構ではなく、崖崩れ防止の法面工事をした擁壁と思われます。

2019年05月11日 長森原
玉縄城



土橋から三角平場(矢射ち場)を見下ろした所。
下のフェンスに玉縄城の白い旗が小さく見えています。
木が繁っていなければ、ここから七曲坂が良く見下ろせる筈です。
写真では分かりにくいですが、土橋から三角平場まで竪堀になっています。
カシミール3Dで測ると落差は15メートルはありそうです。

2019年05月11日 長森原
玉縄城



分かりにくい写真で申し訳ないのですが、左が切岸、中央が土橋、右が物見台場らしき所です。
三角平場には、この台場から長い梯子をおろして下に降りたのでしょうか。

2019年05月11日 長森原
玉縄城



許可を得て清泉女学院敷地内にある諏訪壇に登って来ました。
階段下に玉縄城址の石碑があります。

2015年03月03日 
玉縄城

北条氏康の弟、為昌が城主だった時期には三浦半島・河越城領までも含む広大な領域を管轄した重要な支城ですが、現在は清泉女子校の敷地内に土塁の一部が残るのみでした(学校の敷地内を見学する際には許可が必要)

ふわん坂(久成寺脇の坂)・七曲坂・現在は緑地公園になっている太鼓櫓跡には城跡である痕跡が残ります。

城跡自体は宅地化により遺構が消失し若干寂しいですが、周辺には玉縄北条氏の供養塔がある龍宝寺や北条綱成縁の諏訪神社、里見氏との激戦を物語る首塚等があるので合わせて廻るのがオススメです。


2014年05月25日 奥月
玉縄城

築城500年祭の時に中に入れました。近年七曲坂などが整備されています。また、近くの龍宝寺には地域の人が作ったとみられる模型などの資料が展示してあります。

2011年10月28日 赤いRVR甲斐守@松本
玉縄城

昭和60年代に一度だけ登城しました。警備員さんに入れてもらいましたが、当時中にはシェパードが何頭も放されていました!校庭の一角に高まりがあって、そこが城址だと言うことでしたが。くれぐれも校舎には入るな!とも言われたのを、覚えています。

玉縄城の周辺スポット情報

 七曲坂武者だまり址(遺構・復元物)

 太鼓櫓跡(遺構・復元物)

 大手門跡(遺構・復元物)

 小坂家長屋門(遺構・復元物)

 堀切跡(遺構・復元物)

 北条家供養墓跡(遺構・復元物)

 城址の石碑(碑・説明板)

 玉縄首塚(碑・説明板)

 長尾城(周辺城郭)

 高谷砦(周辺城郭)

 ニ伝寺砦(周辺城郭)

 御幣山城(周辺城郭)

 龍寳寺(龍宝寺)(寺社・史跡)

 慈眼寺(寺社・史跡)

 遊行寺(寺社・史跡)

 壺井三社大権現跡(寺社・史跡)

 玉縄北条氏供養塔(寺社・史跡)

 大船観音寺(寺社・史跡)

 玉縄ふるさと館(関連施設)

 陣屋坂(その他)

 ふわん坂(その他)

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