新井城(あらいじょう)
新井城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 神奈川県三浦市三崎町小網代
旧国名
- 相模国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 佐原(三浦)氏
築城年
- 鎌倉時代後期
主な改修者
- -
主な城主
- 三浦氏、後北条氏
廃城年
- 天正18年(1590)
遺構
- 曲輪、堀切、虎口、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
三崎城(神奈川県三浦市)[2.0km]
芦名城(神奈川県横須賀市)[8.3km]
衣笠城(神奈川県横須賀市)[10.3km]
佐原城(神奈川県横須賀市)[10.9km]
浦賀城(神奈川県横須賀市)[13.6km]
鐙摺城(神奈川県三浦郡)[14.4km]
住吉城(神奈川県逗子市)[16.4km]
六浦陣屋(神奈川県横浜市)[18.9km]
鎌倉城(神奈川県鎌倉市)[19.2km]
八王子山台場(神奈川県鎌倉市)[19.6km]
新井城の解説文
[引用元:Wikipedia「新井城」の項目]
新井城(あらいじょう)は、神奈川県三浦市三崎町小網代(こあじろ)にあった日本の城。荒井城・小網代城・三崎城とも。相模三浦氏の本拠地とされる。
概要
城跡は、三浦半島の西岸、小網代湾と油壺湾の間に突出する標高26メートルの岬状の高台に位置し、現在東京大学大学院理学系研究科附属臨海実験所の敷地となっている付近が本曲輪とされる[1][2]。なお、三浦市の遺跡地図では、油壺の岬部分から三崎町小網代地区の内陸部まで、極めて広大な範囲を「新井城跡」としている[3]。
新井城の南東2キロメートルの三浦市役所付近には、同じく三浦氏の居城と言われ、後に後北条氏の城となった三崎城がある。従来、後北条氏関連の史料などから新井城と三崎城は別の城と考えられてきたが、近年では相模三浦氏時代には「三崎城」として単一の城を構成しており、後北条氏が同城南部の海側部分を改築した時に、旧城である新井城と、新城である三崎城に分けられたと考えられているという(三崎城を参照)。なお、同市遺跡地図上では新井城と三崎城は別個の遺跡となっている。
新井城の戦い
戦国時代初期の明応3年(1494年)に三浦時高・高教の親子から新井城を奪った三浦義同(道寸)・義意だったが、永正9-13年(1512-1516年)、小田原の伊勢盛時(北条早雲)に城を囲まれた。3年にわたる篭城戦を繰り広げたが、ついに陥落して相模三浦氏は滅亡した。この時三浦一族の血で海が油の壺のように真っ黒に染まったことから、今の地名油壺の呼び名がついた、とされる[4]。
その後、豊臣秀吉の小田原征伐後に廃城となった。
遺構
東京大学大学院理学系研究科附属臨海実験所の敷地周辺に堀切や土塁と見られる遺構が残る。同実験所の新研究棟建設地で、城の主郭と目されていた範囲が1992年(平成4年)に発掘調査された[5]。発掘の結果、大型の掘立柱建物跡や多数のピット、空堀、土坑が見つかり、16世紀代の陶磁器類が出土した。特に長辺2メートル×短辺1メートル×深さ5.9メートルにもなるSK08土坑内からは、底の方から大量の人骨が出土し、1494年(明応3年)または1512-1516年(永正9-13年)の戦闘での死者を遺棄した遺構ではないかと報告された[6]。
参考文献
- 赤星直忠 1955『三浦半島城郭史』横須賀市博物館編
- 武藤康弘 1993「6.三浦市新井城趾」『第17回 神奈川県遺跡調査・研究発表会 発表要旨』(https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/26/26104/19107_1_%E7%AC%AC17%E5%9B%9E%E7%A5%9E%E5%A5%88%E5%B7%9D%E7%9C%8C%E9%81%BA%E8%B7%A1%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E3%83%BB%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%99%BA%E8%A1%A8%E4%BC%9A%E7%99%BA%E8%A1%A8%E8%A6%81%E6%97%A8.pdf)pp.19-22 神奈川県考古学会・秦野市教育委員会・神奈川県教育委員会編
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新井城の口コミ情報
2024年01月17日 カズ
新井城
東大施設の通用門の左右に土塁状の高まりがあり、虎口をそのまま利用した?と、つい想像してみます。
東大施設の中に遺構があるため、自由に見学することはできませんが、そのために遺構が荒れることなく残されていると思います。
可能であれば、フェンス越しに遺構を見学できる遊歩道があれば良いのですが。
一般開放されることもあるみたいですので、機会があればまた再訪したいです。
2023年09月14日 弾正一秀
新井城
この三崎城は三方を海と断崖に囲まれた守るに堅い城です❗海岸に降りると右側の三崎に長井城が見えますよ👍宗瑞様はこの城の陸上からの補給を断つ為に玉縄城を造り横浜に有る青木城を直して山内上杉からの攻撃と里見の攻撃から対処して落とした城です❗是非1度せめて見て下さい👍
2023年05月29日 気分爽快陸奥守
新井城
道寸祭りの際、普段遊歩道から見る堀を反対側から見る事ができるとのことで登城してきました。
当日は笠懸があり、昼に近づくにつれ混雑してきましたが、人混みの少ない朝イチに見学してきました。色々と制約があり、堀底を歩くことはできませんでした。記念に御城印を購入してきました。
①櫓台手前の空堀
②櫓台
③空堀
④③の空堀を遊歩道から
⑤主郭らしきところを遠望
2022年02月27日 他力本願寺弾正少弼
三浦海防陣屋[新井城 周辺城郭]
跡地は三浦市下浦市民センターになっています。説明板によれば若き日の伊藤博文が海防陣屋で勤務したそうです。
2021年06月14日 朧月夜安房守
新井城
油壺湾の名前の由来がおどろおどろしくていいですね。土塁などはよくわからなかったけど、天然の要害であっただろうことは感じられた。油壺マリンパークが閉園してしまうのは非常に残念。
2021年05月03日 【若】北条主水正創左衛門
和田城[新井城 周辺城郭]
遺構は特にありません😱すぐ近くには和田義盛という人の碑があります。
2021年04月16日 龍馬備中守【】
和田城[新井城 周辺城郭]
神奈川県の三浦市にある和田城♪三浦一族の和田氏の城郭です☆遺構は残りませんが歴史は残ります♪三浦義明の孫・和田小太郎義盛の本城です☆和田義盛は弓矢にかけては右に出る者がないと言う位に武勇に優れてました☆家督と居城の杉本城を弟の和田義茂に譲るとここに居館を構えます☆源頼朝に従い鎌倉幕府成立に貢献し初代侍所別当に任じられます☆北条氏との関係が悪化していくと【和田合戦】で敗れ和田一族は滅亡しちゃいます☆この【和田合戦】とは鎌倉幕府内で起こった有力御家人の和田義盛は反乱起します。和田氏、横山党vs北条氏、三浦氏、足利氏、千葉氏の間に起こった戦です☆和田義盛が上総国に下っている最中に将軍に擁立して北条氏を打倒する陰謀が発覚☆【泉親衡の乱】この事件に関係したとして和田義盛の子の義直・義重、甥の胤長は捕縛。上総から鎌倉に戻った和田義盛は将軍に一族の赦免を願い出ます☆多年の勲功者に免じて子息の和田義直・義重は赦免されます☆ただ甥の胤長の赦免は解かれませんでした☆結果・甥の胤長は陸奥国岩瀬郡への流罪に☆6歳になる胤長の娘は悲しみに暮れ病になり息を引きとりました。和田一族は胤長の処分決めた執権・北条義時に大きな恨みを抱きます☆旧胤長屋敷を【泉親衡の乱】の平定に功績のあった金窪行親・忠家に与えると決めたりと度重なる北条義時の挑発に和田義盛は挙兵を決断☆将軍御所を攻める和田勢は必死に戦うも多勢に無勢☆幕府方には新手が次々に加わり矢種も尽き人馬も疲労して退きます☆足利義氏ら幕府軍は勝ちに乗じて攻めかかります☆戦に長けていた和田勢も…由比ヶ浜へ退却…横山党の3000余騎が援軍に来て和田勢は一時勢いを盛り返しますが…御家人たちは一斉に幕府方に合力☆和田・横山勢は鎌倉に突入!北条泰時、時房らが守る若宮大路を中心に市街各所で激戦!和田義秀が奮戦し先頭に立って突撃し敵を追い散らしますが新手を繰り出してくる幕府軍に対して和田・横山勢は次第に疲弊し数を減らして行く事に☆和田義盛の愛息・義直が討ち取られ悲嘆した和田義盛は「今は戦う甲斐もなし」声をあげて大泣きしたと伝わります☆そこへ江戸義範の郎党が襲い掛かり和田義盛は討ち取られる☆子息の和田義重、義信、秀盛も同様に討ち死に横山党も潰走して勝敗は決鋭い☆和田一族は滅亡☆この合戦は北条氏の勝利で幕を閉じました☆その後の北条氏の執権体制はより強固になっていきます。
2021年02月19日 マークⅡ左京大夫政宗
新井城
新井城の解説看板がある所周辺が、城の主郭部分の入口。東大研究所の柵越しでしか見れなかった。
2019年06月16日 龍馬備中守【】
新井城
北条早雲と対峙し攻められた『三浦同寸』☆この城で3年間の籠城戦を行うも落城☆三浦氏は滅亡する☆現在・城郭内にある地震研究所の中に空堀等遺構は現存する☆
2019年06月16日 龍馬備中守【】
新井城
南には油壺湾など三方を海と切り立った断崖に囲まれ細い半島の先端付近の地形を生かした堅城☆湾内は穏やかな海な為三浦水軍の運用にも適する☆
2019年06月16日 龍馬備中守【】
新井城
城郭全貌☆切り立った断崖上を城郭とした三浦氏は三浦半島に勢力を誇った豪族☆鎌倉幕府に大きく貢献する☆
2018年06月05日 北条大蔵大輔阪神西岡
新井城
新井城跡石碑と三浦義意の墓は油壺マリンパーク駐車場の奥に第2駐車場みたいなのがある右手の茂みの中にあります。奥まで行かないとわかりません。
2017年09月03日 あゆとも刑部卿
新井城
外の引橋は引橋バス停と松輪バス停の間にあります。内の引橋は油壺バス停からちょっとだけマリンパーク方面に歩くと左手にガードレールが見え、その下に堀切あります。東大地震研より海岸沿いに遊歩道あり。遊歩道歩くと地震研敷地内に堀切あり。でも立入禁止で覗くだけです。三浦義意の墓はマリンパークの駐車場内にあるそうですがわかりませんでした。
2016年11月03日 一兵衛相模守
新井城
散歩したら土塁がいっぱいありました!
2014年02月23日 右衛門督まごいち
新井城
みさきまぐろきっぷを使って登城しました。
2012年07月28日 キョロ左近衛中将ちゃん
新井城
補則情報
毎年5月の最終日曜日に、三浦道寸の遺徳を偲ぶ『道寸祭り』が開催されます。
当日は法要・演舞のあと、砂浜での『傘がけ(流鏑馬より実践的)』が行われます。
武田流馬術の方々の妙技は迫力満点です。中には『女性騎馬武者』の姿も。砂浜での試技は最初はともかく後半は馬場が荒れ、上下動が激しくなかなか的を得れません。ご興味あれば、是非とも!
2012年07月24日 キョロ左近衛中将ちゃん
新井城
荒井城とも。現在の『油壺マリンパーク』辺りを中心に三方を海に囲まれ、東端の『引橋(現地の信号)』を落とすとさながら『海上要塞』となる。海族衆を率いる三浦氏にとって、海上は『補給路』であり、海上封鎖は困難と思われたが…そこに戦国の怪物・北条早雲が、『籠城戦』を仕掛ける(新井城の戦い)。
戦は足掛け4年。籠城側の三浦道寸・義意親子は高齢の早雲が先に死ぬと読んでいたが、兵糧尽き、最後は鎌倉以来の名門三浦氏の武士の誇りをかけ、全員玉砕。小網代湾には玉砕した屍の血が充満し、油が浮いた様相から『油壺』の名前が残る。三浦義意のエピソードは字数の関係で紹介できないので、検索かけてくださいませ。凄い男です!!