衣笠城(きぬがさじょう)
衣笠城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 神奈川県横須賀市衣笠町
旧国名
- 相模国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 三浦為通
築城年
- 康平年間(1058〜1065)
主な改修者
- -
主な城主
- 三浦氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)、井戸
指定文化財
- 市史跡(衣笠城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
佐原城(神奈川県横須賀市)[2.7km]
芦名城(神奈川県横須賀市)[4.5km]
浦賀城(神奈川県横須賀市)[6.3km]
鐙摺城(神奈川県三浦郡)[8.8km]
六浦陣屋(神奈川県横浜市)[9.9km]
新井城(神奈川県三浦市)[10.3km]
住吉城(神奈川県逗子市)[10.8km]
三崎城(神奈川県三浦市)[11.8km]
青ヶ台城(神奈川県横浜市)[12.3km]
鎌倉城(神奈川県鎌倉市)[12.6km]
衣笠城の解説文
[引用元:Wikipedia「衣笠城」の項目]衣笠城(きぬがさじょう)とは、相模国三浦郡(現在の神奈川県横須賀市衣笠町)にあった日本の城(山城)。三浦半島中央部に立地する。横須賀市指定史跡。
【概要】
前九年の役での戦功により源頼義から相模国三浦に領地を与えられ、当地の三浦氏の祖となったとされる三浦平大夫為通が、康平5年(1062)、衣笠山に作った城が衣笠城の始まりである。のちにこの城は三浦氏の本拠地となり、三浦氏が勢力拡大するにあたって増築されていく。源頼朝が伊豆で平家に反乱すると三浦氏4代目三浦義明は頼朝を支援したが、頼朝は石橋山の戦いで敗れ房総半島へ逃げ延びる。頼朝軍と合流できずに引き返した三浦一族は平家方の畠山重忠軍と衣笠城合戦に及び、衣笠城は落城。城主義明は討ち死にし、三浦一族は房総半島に逃れる。
その後鎌倉幕府が成立するとこの城はまた三浦氏の本拠となるが、鎌倉時代の宝治元年(1247)、宝治合戦で三浦党が没落すると廃城となった。
2007年現在、衣笠城跡には小規模な公園が整備されているが、当時を思わせる遺構はわずかに井戸、堀跡が残るのみである。しかし城山を境内とする大善寺や義明の墓所である滿昌寺など、城跡周辺の寺には三浦一族や衣笠城を偲ばせる事跡が残されている。また平作川に沿って下流の久里浜までのあいだには、衣笠城の支城とされる平作城、大矢部城、小矢部城、佐原城、怒田城などの遺構が残されている。
【観光】
衣笠城址と谷をひとつ隔てた隣の山衣笠山公園は桜の名所として知られ、日本さくら名所100選のひとつに選ばれている。
城山への道を先に進むと、大楠山山頂に至る登山道となっている。
【交通】
・JR横須賀線衣笠駅下車→徒歩8分→衣笠十字路バスターミナルより京浜急行バス→衣笠城址バス停下車→徒歩15分
・京浜急行横須賀中央駅下車→横須賀中央駅バス停4番・5番のりばより京浜急行バス→衣笠城址バス停下車→徒歩15分
・横浜横須賀道路衣笠IC→衣笠城址前交差点左折
・本丸跡は大善寺の裏手。地図に記された衣笠城の位置とはしばしばずれがある。[続きを見る]
衣笠城の口コミ情報
2020年11月09日 五瓜ニ唐花紋左大臣や~きみ
衣笠城
JR衣笠駅からだと45分位歩くと思われる。
バスでも行ける(何系統かあるがある程度の通りに出る必要あり。)
車の場合は衣笠のインター降りたら最初の信号が衣笠城趾なのでそこを左折。
大楠山と衣笠公園からもハイキングコースで衣笠城に行ける。
大善寺と言うお寺の境内からお城に入れる。(階段がある。)
大善寺には駐車場がある。
トイレもある。
お城には説明看板や碑等がある。
物見岩もある。
JR衣笠駅の方の衣笠商店街で横須賀海軍カレーや横須賀衣笠丼等が食べられる。
和菓子屋さんも一菓流菓道の店がある。
はらどけいと言う今川焼屋さんでキヌガサイダーが売っている。
2019年06月16日 龍馬太閤【備中の麒麟】
衣笠城
主郭部・北西の岩山☆この岩山も上手く駆使し戦に使っただろうと妄想☆衣笠城は三浦半島の豪族の三浦氏の本拠地☆
2019年06月16日 龍馬太閤【備中の麒麟】
衣笠城
主郭西側・物見岩先の尾根に続く恐らく搦め手口☆源頼朝に加担し平家に反抗した三浦義明☆平家に攻められ衣笠城に籠城し討ち死に☆
2019年06月16日 龍馬太閤【備中の麒麟】
衣笠城
削平された二の丸☆『前九年の役』での戦功により源頼義から相模三浦に領地を与えらる☆祖となったとされる三浦平大夫為通が衣笠山に作った城が衣笠城☆
2017年09月09日 相模守愛洲久忠
衣笠城
衣笠城址バス停から横横道路方向へ向かい、衣笠城入口の信号を左折してすぐに右折すると、ん?と見上げるほどの登り坂が現れます。
坂を登りきると僧行基の開基と伝わる大善寺さんです。ここに「不動井戸」と呼ばれる井戸があり水の手として利用されていたそうです。左に進むと平時の館があったとされる二郭跡。大善寺さんの裏手から階段を登ると主郭跡の削平地。主郭手前を右に折れると御霊神社です。東西に長細い主郭の西側の詰郭には物見石と呼ばれる大石がありました。
雛壇状の曲輪や堀切跡と考えられる遺構も見受けられましたが、大楠山へのハイキングコースとして整備された部分と見分けがつきませんでした。
城から久里浜駅方向に向かうと三浦義明墓所の満昌寺さんがあります。
2015年06月20日 からさん
衣笠城
衣笠山の本城は畠山らに攻められ三浦一族は落ちましたが、畠山が陣営を張った本陣は畠山と言う名前がそのままついて今でも隣町の葉山にあります。大谷戸橋から獣道のような山道を30分程度昇れば山頂につき、馬頭観音と重忠の札があります。衣笠山まで約10kmここから当たり前だが歩いて攻めたのか、と当時(1180年)の気持ちが少し分かります。
一方衣笠城跡の途中には隠れて敵を不意討ちする崖上の武者隠しや、礫石や大木を落とすキャゴの谷戸、雛壇式の搦め手、三浦為通がここに足をかけて戦況を見たであろう物見岩などがあります。
2012年07月28日 キョロ大蔵卿ちゃん
衣笠城
解説にあるように、桜の名所の衣笠。
城と桜は侍に必要不可欠な要素。
侍は『いつでも死ぬ覚悟で日々生きていく』ゆえに、日々に備えて精進していた。
ここの主、『三浦大介義明』もそんなひとり。
石橋山で敗れた頼朝と息子達を逃がし、自分は衣笠山に立て籠り、『今、頼朝殿の御加勢で三浦の家も運が開けるわぃ!』と戦ったあと→自害する。享年89歳(今なら『後期高齢者』元気過ぎダロ!?)最後の地に生えていた松の木は『腹切りの松公園』となる(ちょっとグロィ)。
因みに攻め手の大将畠山重忠の母は義明の娘(ようは重忠は孫)。
重忠も辛い立場だろうなぁ…
今でも三浦の地には『いい加減免許返上してくれ!』と言いたくなる元気なお年寄りが多いのは、『三浦大介義明以来の伝統』か!?
2010年08月16日 主水正申
衣笠城
ズバリ「衣笠城址」というバス停が有るのも珍しいケースかも知れません