佐原城(さはらじょう)
佐原城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 神奈川県横須賀市佐原3
旧国名
- 相模国
分類・構造
- 丘城
天守構造
- -
築城主
- 佐原義連
築城年
- 平安時代後期
主な改修者
- -
主な城主
- 佐原氏
廃城年
- -
遺構
- 消滅
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
衣笠城(神奈川県横須賀市)[2.7km]
浦賀城(神奈川県横須賀市)[3.7km]
芦名城(神奈川県横須賀市)[6.9km]
新井城(神奈川県三浦市)[10.9km]
鐙摺城(神奈川県三浦郡)[11.5km]
六浦陣屋(神奈川県横浜市)[11.6km]
三崎城(神奈川県三浦市)[12.0km]
住吉城(神奈川県逗子市)[13.4km]
青ヶ台城(神奈川県横浜市)[13.9km]
造海城(千葉県富津市)[14.8km]
佐原城の解説文
[引用元:Wikipedia「佐原城」の項目]
佐原城(さわらじょう)は、神奈川県横須賀市佐原3丁目にあった日本の城(山城)。相模国の豪族三浦氏一門、三浦義明の子、佐原義連の居城と伝わる。
概要
三浦半島東部、横須賀市久里浜に流下する平作川の支流、佐原川右岸に面した台地上に所在する。
周辺は開発による土地改変が進み、土塁や堀切などの山城遺構はほとんど確認できないが、 1893年(明治26年)建立の『「佐原十郎義連城跡」明治二十六年九月八日佐原里民建之』と書かれた石碑が建っている。
参考文献
- 大類伸(監修)・金原仁『日本城郭全集』第4集(人物往来社、1967年)p.136
[続きを見る]
佐原城の口コミ情報
2022年05月08日 左近衛少将てつ
佐原城
横須賀ダイヤランドテニスクラブの近くの案内板に沿って坂道を登って行くと、5分くらいで石碑と案内板があります。遺構らしいものは見つかりませんでしたが、城址の雰囲気はありました。
2021年05月11日 【若】北条主水正創左衛門
佐原城
特にこれといった遺構はありませんが土塁らしきものが少しあります。佐原義連という人の居城があったらしいです。石碑があります。跡地は農地が広がっています。
2021年04月15日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
怒田城[佐原城 周辺城郭]
神奈川県の横須賀市にある怒田城☆平家物語や源平盛衰記にも記されている立地に関しては堅固な城郭です♪
築城年代は不明ですが平安時代末期に三浦為継によって築かれたと伝わってます☆
怒田城は三浦一族の水軍基地として機能しました☆三浦氏の居城である衣笠城の支城は岡崎義実の城館でしたが杉本義宗に引き継がれたと伝わります☆
石橋山合戦で源頼朝軍が敗れたことを知った三浦氏一族の軍勢は引き返しこの時に和田義盛は怒田城に籠もって敵を迎え撃つ事を進言しますが三浦義明に無名の城であるとして退けられ衣笠城で迎え撃つとそんな歴史も持ちます☆
その後、鎌倉時代に【宝治合戦】で三浦氏が鎌倉北条氏に滅ぼされると廃城となりました☆城址には竪堀などの遺構は認められない事から戦国時代には利用されなかったと考えられています☆
城郭は平作川に突き出た丘陵の先端付近に築かれていて現在は吉井貝塚遺跡として県指定史跡になっています♪古来より人が根付いておりました♪
主郭と副郭の間には空堀が残りますが埋められてたりと大分、遺構は薄くなっております☆駐車場無しです☆お気をつけ下さい☆
2021年02月21日 さすらいライダー
佐原城
表の道から住宅地に入り、住宅がまばらになったあたりに、入口がありました。畑の脇に、石碑がたった場所が入口で、畑の畦道の奥でした。駐車場は無し、路上駐車は、自己責任で❗️
2020年08月08日 国府左京大夫城介
怒田城[佐原城 周辺城郭]
【歴史】
平安時代末期、三浦義明が当主の頃に、衣笠城の支城の一つで三浦水軍の拠点として築城されたと思われる。
城主として、岡崎義実(義明の末弟で、源頼朝の挙兵直後から参じている功臣)や、杉本義宗(義明の長男で和田義盛の父)がいる。
衣笠合戦時に、和田義盛が「籠城するなら、衣笠城より怒田城の方がよい」と言っており、かなりの堅城であることが窺える。
廃城になったのは明確には不明だが、三浦氏が滅んだ宝治合戦の頃か。
【遺構】
20m程の台地上に築かれており、西側がコンクリートの法面になっています。これは、高度成長期における開発の影響で、北西部の台地は削られて消滅している。また、当時とは海岸線が変わっているため、水軍の本拠地らしくはありません。
平安末期の城らしく、段差を利用した郭と空堀があります。ただ、空堀にあっては発掘調査後に埋め戻されており、場所を示す木の杭が打ち込まれています。
また、この怒田城は吉井貝塚(県指定遺跡)となっており、城内の至る所に貝塚の案内板が立てられています。
【アクセス】
JR久里浜駅または京急久里浜駅から、北に徒歩10~15分で着きます。登り口は、北側と南側の二ヶ所ありますが、どちらも特に案内板はありませんが、やや北側の方が分かりやすいかもしれません。
【写真】
1:南側登り口
2:城内地図
3:二郭
4:空堀跡
5:一郭
6:二郭の北側にある段郭
7:二郭の南側にある小郭
2012年07月28日 キョロ左近衛中将ちゃん
佐原城
ここのお城の主人公は『佐原十郎義連』。平安末期に三浦義明の末子として誕生。親父の三浦義明は自ら『大介』を名乗り、頼朝挙兵の際に、石橋山で敗れた頼朝と息子達をで千葉に逃して独り城を枕に89歳で討死した豪傑。親父が親父なので、義連も『末子にありがちな、怖いもの知らずで剽悍無比、思った事はズバズバ言う(戦隊ものなら『緑色』かな?)』性格。上総介広常が大軍を率いて頼朝の前に騎乗のまま来訪した時は『佐(頼朝)殿の御前ぞ!無礼者!!』と一喝した。そんなヤンチャな義連を頼朝は気に入って、平家討伐(義経)軍の与力に加える。有名な一ノ谷の戦では、『鵯越の逆落とし』を義経に進言し、躊躇する義経らを尻目に『これくらいの坂、地元の三浦じゃ小鳥一羽追っかける時でも普通に下りるし〜(現代文訳)』と言うや否や『ヒャッハー!!』と単騎突っ込み、義経らは『渋々』後から突っ込んだ→平家大敗。これを聞いた頼朝は『十郎らしい!』と膝を叩いて喜んだとか…平家滅亡後は会津に所領を得て、子孫は地元佐原の地名『芦名』から『蘆名氏』を名乗り、伊達政宗に滅ぼされるまで家名はつづいた。m(__)m
2011年11月27日 【隠者】史学会帰新参
佐原城
丘城の地形は改変されているが残っている、丘の上に碑と説明板あり、少し分かりにくい