三崎城(みさきじょう)

三崎城の基本情報

通称・別名

宝蔵寺城、北条山城、三浦城

所在地

神奈川県三浦市城山町

旧国名

相模国

分類・構造

平山城

天守構造

築城主

三浦氏

築城年

不明

主な改修者

後北条氏

主な城主

三浦氏、後北条氏

廃城年

天正18年(1590)

遺構

土塁

指定文化財

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

新井城(神奈川県三浦市)[2.0km]
芦名城(神奈川県横須賀市)[10.2km]
衣笠城(神奈川県横須賀市)[11.8km]
佐原城(神奈川県横須賀市)[12.0km]
浦賀城(神奈川県横須賀市)[14.4km]
鐙摺城(神奈川県三浦郡)[16.4km]
住吉城(神奈川県逗子市)[18.4km]
勝山城(千葉県安房郡)[19.2km]
六浦陣屋(神奈川県横浜市)[20.8km]
造海城(千葉県富津市)[21.0km]

三崎城の解説文



三崎城(みさきじょう)は、現在の神奈川県三浦市城山町に存在した日本の城。または三浦城。相模三浦氏の本拠地で後に後北条氏が領する。

概要 

城跡は三崎港を臨む高台の、現在三浦市役所や旧三崎中学校(2014年3月25日閉校・移転)・三浦市体育館などがある付近とされている[1]

三崎城の北西2キロメートルの油壺湾北側には、同じく三浦氏の居城である新井城がある[2][3]。従来、後北条氏関連の史料などから新井城と三崎城は別の城と考えられてきたが、近年では相模三浦氏時代には三崎城として単一の城を構成しており、後北条氏が同城の海側の部分を改築して独立した水軍城砦とした時に、旧城である新井城新城である三崎城に分けられたと考えられている。なお、同市遺跡地図上では新井城と三崎城は別個の遺跡となっている。

伝承によれば、鎌倉時代後期の三浦氏宗家滅亡後に相模三浦氏を興した佐原盛時が築城したとされているが、実情は不明である。おそらく、元は同氏の水軍基地の一つであったと考えられている。

戦国時代初期に三浦義同が伊勢盛時(北条早雲)に城を囲まれ、3年にわたる篭城戦を繰り広げたが、ついに陥落して相模三浦氏は滅亡した(新井城の戦い)。語源俗解では、この時根切りにされた三浦一族の血で海が油の壺のように真っ黒に染まったことから、今の地名油壺の呼び名がついた、とされる[4]。その後、盛時(早雲)によって大規模な改築が行われて安房の里見氏に対する備えとした。実際に新井・三崎の両城は何度か里見氏によって攻め落とされて三浦半島南部が里見領になった時期もある。後に盛時(早雲)の孫の北条氏康がこの地を奪還すると、息子の氏規を三崎城主とした。

もっとも、最前線とはいえ城ヶ島に近い風光明媚な場所であったため、平時には後北条氏当主が静養を兼ねて三崎を訪れたらしく、1519年には盛時(早雲)が、1565年には氏康がここを訪れている。

豊臣秀吉の小田原征伐後に廃城となった。

遺構 

  • 曲輪、三浦市福祉会館跡に保存状態の良い土塁。
  • 三浦市体育館の駐車場近くにも保存状態の良い土塁が残る。
  • その他、旧三崎中学校脇、光念寺、忠魂碑付近など所々に土塁が残る。ほか慰霊堂に土橋・堀切の痕跡が残る。また体育館近くに説明板がある。

由緒のある城跡であるが、史跡の指定や城跡公園としての整備はなされていない。ただし三崎中学校、市役所一帯は埋蔵文化財包蔵地「三崎城跡」として周知されているため、文化財保護法の保護下には置かれている。

参考文献 

  • 赤星直忠 1955『三浦半島城郭史』横須賀市博物館編

  • 武藤康弘 1993「6.三浦市新井城趾」『第17回 神奈川県遺跡調査・研究発表会 発表要旨』(https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/26/26104/19107_1_%E7%AC%AC17%E5%9B%9E%E7%A5%9E%E5%A5%88%E5%B7%9D%E7%9C%8C%E9%81%BA%E8%B7%A1%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E3%83%BB%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%99%BA%E8%A1%A8%E4%BC%9A%E7%99%BA%E8%A1%A8%E8%A6%81%E6%97%A8.pdf)pp.19-22 神奈川県考古学会・秦野市教育委員会・神奈川県教育委員会編

関連文献 

  • 【書籍】「大日本地誌大系」|ref=|publisher=雄山閣|date=1932-8}}

三崎城の口コミ情報

2022年05月05日 左近衛少将てつ
三崎城

三崎口駅より徒歩1時間、三浦市役所の裏側に説明板があります。三崎口駅にはレンタサイクルやバスもあります。

2021年03月17日 電撃ビクトリー刑部大輔狭間
三崎城

三浦市役所があります。土塁の違いや曲輪っぽいところが少しだけあります。

2021年03月07日 aya
三崎城



北条氏の拠点のひとつ。遺構はほぼ消滅しており、石碑が立っている。

2021年02月23日 うっきー
三崎城



最寄りのバス停は三崎東岡ですが、その先の三崎港で降りても15分ぐらい歩くだけです。
三浦市役所の駐車場の近くに城址碑と案内板が建っています。

2019年04月30日 ▲三ツ鱗▲
土塁[三崎城  遺構・復元物]



資材置き場・物置小屋の後ろに土塁が見えています。

2019年04月30日 ▲三ツ鱗▲
土塁[三崎城  遺構・復元物]



元中学校の敷地内を取り囲む状態で、応時の土塁が残っています。

2019年04月30日 ▲三ツ鱗▲
説明板[三崎城  碑・説明板]



ここの地点の説明板を見て、縄張りを想像するのが宜しいかと思います。

2017年06月06日 ふーふー
三崎城

ネット上によく、三崎中学校の横に案内板がある、と書かれてますが、ナビで三崎中学校を目的地にしたら大変なことになるので、気をつけて下さい。中学校は三崎町六合に移転してます。

素直に三崎市役所を目的地にして、大手跡と言われる市役所前の坂道を上りきれば、左手に旧中学校、右奥に来庁者用第二駐車場があります。

駐車場と旧中学校のグランドの間の道路沿いに、石碑と案内板がたっています。グランド周辺の高まりが土塁の痕跡です。

2016年01月11日 高田山吹守道灌
三崎城

昨日、いって来ました。三浦市役所の付近のようです。教育委員会の説明板があるので間違いないですけど土累、石垣等、なにもありません。でも、ちょっとした丘の上にあったようです。城の雰囲気はありました。このあたりは海の近くで下って行くと現在の三崎港で、その先は城が島。記憶違いではないと思いますが三浦氏の残党が城が島に逃れて抵抗したそうです。これは、東アジア史的な前例ですが元が高麗の残党、三別抄をサイシュウ島に追い詰めて滅ぼしたみたいです。元が後北条氏で日本に攻めて来たように関東中央部進攻のあしがかりといったら大袈裟でしょうか。このように地理的状況を観察することも大事だと思いますが。

2012年07月24日 キョロ刑部卿ちゃん
三崎城

新井城の海側の砦の役割を担っていた城。
新井城と三崎城は2つでひとつと考えてもよいのでは?だとしたら『現在の三浦市全域』が城!?
三浦義意のエピソード。
新井城の戦いで、最後を悟った義意は、単騎北条方に斬り込む。体躯七尺五寸(2m30cm)の巨人で八十五人力と呼ばれ、鋼鉄の六角棒ひと振りで10人は薙ぎ倒す豪傑(三國志の関羽か張飛?)。北条方はなかなか攻めあぐねて、遠巻きに矢を放っていたが、『4人の勇者』が義意に飛び掛かった、4人はたちまち倒されたが義意は4人を殺さず、『お前たち4人の勇気は天晴れである。これからも北条の役に立つであろう!』と解き放つ。4人は義意の配慮に痛く感激した。
しかし、義意は一通り戦うと『俺の首を獲りにくる奴はいないのか!いないならこうしてくれる!!』と自ら首を掻き斬り、その首は3年の間朽ち果てなかった。
義意に助けてもらった4人の勇者は義意の死にいたく悲しみ、その場所で4人とも切腹してしまった。その場所は今も『義士塚』として残る。


三崎城の周辺スポット情報

 土塁(遺構・復元物)

 土塁(遺構・復元物)

 城ケ島砲台(遺構・復元物)

 本丸(遺構・復元物)

 大手(遺構・復元物)

 説明板(碑・説明板)

 忠魂碑(碑・説明板)

 宮柊二歌碑(碑・説明板)

 剱崎砲台(寺社・史跡)

 光念寺(寺社・史跡)

 本瑞寺(寺社・史跡)

 見桃寺(向井正綱墓所)(寺社・史跡)

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