浦城(うらじょう)
浦城の基本情報
通称・別名
- 浦村城
所在地
- 秋田県南秋田郡八郎潟町浦大町字里ヶ久38他
旧国名
- 羽後国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 三浦氏
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 三浦氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、帯曲輪、堀切
指定文化財
- -
再建造物
- 模擬柵、石碑
周辺の城
-
五城目城(秋田県南秋田郡)[3.0km]
小友館(秋田県秋田市)[16.7km]
脇本城(秋田県男鹿市)[19.1km]
檜山安東氏城館(秋田県能代市)[21.6km]
湊城(秋田県秋田市)[23.7km]
染川城(秋田県男鹿市)[24.9km]
秋田城(秋田県秋田市)[25.6km]
久保田城(秋田県秋田市)[27.5km]
太平城(秋田県秋田市)[27.8km]
金山館(秋田県能代市)[28.2km]
浦城の解説文
[引用元:Wikipedia「浦城」の項目]
浦城(うらじょう)は、秋田県南秋田郡八郎潟町にあった日本の城。
地理
浦城の西には高岳山が隣接している。高岳山と隣接する場所には、浦城城主の三浦兵庫頭盛永が自刃したとされる叢雲の滝があり、公園として整備されている。浦城の東には秋田自動車道があり、尾根が破壊されている。浦城に登るには、八郎潟町浦大町の常福院の奥の駐車場か、叢雲の滝近くの駐車場から登ることになる。
浦城は標高が約120メートルで、長さが700メートルの細長い山城である。帯郭跡や出丸跡、空堀跡、土塁、井戸跡がある。また、本丸跡には歴史学習館が造られている。高岳山との境はV字型に掘られている。これは薬研堀と言われるもので、掘られた部分の通路になっている部分は通称「クピトの坂(首人の坂)」と言われている。浦城は高岳山に連なるため、城域と山を区切る薬研堀を設け防衛線としたと考えられる。クピトの坂から階段を登ると、帯郭に覆われた平地が現れる。ここは通称「屋敷跡」と言われている。東にすすむと、鐘撞堂跡がある。ここには鐘撞堂が再建されており、実際に音が出る鐘撞がつるされている。更に東に進むと、武者溜跡、さらに東で本丸跡につく。
本丸跡には大きな石が置かれており、片面が平らになっている。これは昔の浦城の基礎石ではなかったかと推定されている。また、5〜6cmの丸い小石が置かれている。これは城を防衛する際の石つぶてではなかったかとも、経文の字を書いた「経文石」ではないかとも言われている。また本丸跡には土を掘った井戸跡があり、大きくえぐられている。
現在浦城はNPO「浦城の歴史を伝える会」によって整備されている[1]。
浦城城主・三浦兵庫守盛永
浦城の城主であった三浦兵庫守盛永(みうらひょうごのかみもりなが)は資料によって記述が異なるが、いずれにせよ、檜山安東氏と湊安東氏との湊合戦で湊安東氏側に立ち、湊合戦で敗れた後に、浦城に籠城し檜山安東氏に敗れ自刃したとされる。
戸部正直の「奥羽永慶軍記」によれば、盛永の妻は御前柳で男子を産み亡くなり、嫡男は一日市の清源寺の近くに押切城を造ったとする。
盛永は檜山城近くまで領地を持っており、檜山城近くの地理に詳しいので湊合戦では湊安東氏側の総大将を務めたともされる。
浦城と菅江真澄
菅江真澄は1806年に浦城付近に到達し、付近の様子を『霞む月星』に記録している。
菅江真澄は北側からこの地に到着し、まず滝(叢雲の滝)が細く落ちていたと記述している。「三浦兵庫頭義豊(盛永のこと)がいたころの城跡は高く今は田や畑になっているが、その昔の様はわからない。『本廓、御坐の間、馬だし、大鐘をかけた櫓跡はあそこ』とそばにいた人が教えてくれた。今は田や畑になっている。からめてのほとりに、田に水を引く大きい池があった。堀の跡かも知れない」などと記録している。
現在は杉林になっている浦城は当時は畑になっており、村人が山の上で畑を耕している様子がうかがえる。
参考文献
八郎潟町広報誌 2007年8月号〜
[続きを見る]
浦城の口コミ情報
2022年09月16日 RED副将軍
浦城
地元NPO法人により整備が行き届いたオススメ城🏯
オススメ度 ★★★★⭐︎
築城年代等の詳細不詳。
天文年間(1532年〜1555年)には千葉氏が、永禄年間1558年〜1569年)からは三浦盛永が城主であったと伝わります。
三浦氏は湊安東氏に近い与力領主とされ、1588年に勃発した檜山安東氏と湊安東氏の争いである湊騒動では、湊安東氏に付いて総大将として安東実季の檜山城攻めに参陣しました。
両軍は一旦は和睦しましたが、翌1589年には檜山安東氏は反撃を開始。檜山安東勢の攻撃により浦城は落城し、三浦盛永は自害しました。
その後、三浦氏は押切城を居城としていることから落城後は廃城となった様です。
三浦氏は相模三浦氏の庶流かも知れませんが不明です。
見所
高岳山から東に延びた尾根上に築かれており、稜線上に郭を配したシンプルな連郭式。
大きく6つの郭群は鋭い切岸と堀切で隔てられています。
城域西端の堀底道を登り切った先が最大規模の薬研堀です。城域東端は三重堀切で防御線が張られています。
主郭は木製階段が架けられ城柵が巡り、至るところにロープや梯子もかかり、地元のNPO法人により非常にキレイに整備がされています。
2020年10月20日 愛甲太閤【相模の狂人】
浦城
南東側の麓に神明社があり入口には浦城の説明板もありますが、こちら側に登城道は無いようです。説明板に引き込まれて入り込むと、枝分かれした道が全て行き止まりで、ヤブっぽい杉林の急斜面を直登する羽目になります。冷たい雨が降る中無理やり登ったところ本丸のかなり東、武者溜から伸びる腰曲輪の末端近くに登りつきました。このあたりは整備の手が届いておらず少々荒れていますが、長大な腰曲輪から曲輪の切岸が立ち上がっている様子が雄大です。
2019年04月29日 まるき〜陸中守
仮設トイレ[浦城 トイレ]
駐車場にトイレあります!
2016年10月27日 陸前守剛太犬@歴読
浦城
とても整備されていて、堀切が素晴らしかった。もっと有名になってもいい城だと思う。
2015年12月13日 【隠者】史学会帰新参
浦城
城の北側と南側に駐車場あり。北側は秋田自動車道東側の貯水池の横を通り、自動車道の下をくぐり、しばらく行けば着くが、分かりにくい。南側は麓の常福院を目印に進み常福院の少し奥の北側に駐車場がある。南側駐車場は簡易トイレはあるが水道は未確認。北側駐車場はトイレがないが水道はあった。どちらも10台前後停める事が出来る。
西側の薬研堀から秋田自動車道そばの東側の曲輪まで直線距離で500M以上あり現地で見学してみると城域は予想以上に広い。東西に複数の曲輪が並んで配置される連郭式構造である。浦城の歴史を伝える会によって城内は遊歩道や説明板や名称板が整備されている。曲輪や空堀がよく残る。曲輪には木柵や見張り台や建てられていて古城らしくなっている。本丸には現在の本丸御殿ともいえる建物がありイベントで使うらしい。
北側駐車場から城内最高所の本丸までの比高は約50Mほどであった。駐車場から西から東まで城内をくまなく歩いたら約3.5キロだった。1時間30分ほどかかった。
無名な城だが遺構がよく残る隠れた名城である。