湊城(みなとじょう)
湊城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 秋田県秋田市土崎港中央3
旧国名
- 羽後国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 安東鹿季
築城年
- 14世紀後期
主な改修者
- -
主な城主
- 安東氏、佐竹氏
廃城年
- 慶長8年(1603)
遺構
- 曲輪、横堀(水堀)
指定文化財
- -
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
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湊城の解説文
[引用元:Wikipedia「湊城」の項目]湊城(みなとじょう)は、出羽国土崎湊(秋田県秋田市)にあった日本の城(平城)。
【概要】
湊城の築城時期についての詳細は不明である。後代の書物になるが、明治期の『秋田沿革史体制』には、永享8年(1436年)に安倍康季が将軍野(土崎の東に広がる平原、現在は住宅地)の西北に築いたとある。元々は現在の寺内後城(秋田城の西方、旧雄物川に面した小高い丘)にあった(この場合は平山城)という説もあるが、少なくとも、慶長9年(1604年)に佐竹義宣によって破却されたときは現在の土崎神明社の地にあったことは間違いないとされ、実際に発掘調査によって織豊政権時代にできたと見られる城の遺構が発掘されている。
土崎湊の地は、1395年(応永2年)に十三湊の下国安藤氏の一族である安藤盛季の弟鹿季が、当時このあたりを支配していたとみられる上国安東氏にかわって入部し拠点としたとされるが、当時の居城は不明である。鹿季はこの後湊氏と称し、秋田城介を名乗った。また、以後湊安藤氏(この頃から安東氏とも)の累代が支配する一方で、下国安藤氏は盛季が南部氏に敗れて蝦夷地に逃れ、後に盛季の後継者政季が湊安東氏に招かれて檜山(秋田県能代市)に土着した(政季の子忠季以降は檜山安東氏と呼ばれる)。その後、湊安東氏は安東尭季が後継者を定めないまま亡くなり、宗家であり尭季の娘婿でもある檜山安東氏の当主愛季が、両家の統合を図るため弟の茂季を送り込んだ。しかし、それに反発した湊安東家配下の国人の一部が反乱を起こした。この反乱は愛季が鎮圧し、湊城に入ることによって両家を統合したが、このときはまだ安東氏の拠点は檜山城であった。愛季が亡くなり、子の実季が家督を継ぐと、茂季の子通季が反乱を起こしたが、実季はこれに勝利し、秋田郡の支配権を確固たるものにした。
この後、実季は拠点を檜山城から湊城に移し、慶長4年(1599年)から湊城の大規模な改築を行った。この改築は、使用した材料や費用、日数等が書かれた詳細な記録が現存しており、新築に近いとする見解もある。江戸中期の資料には、湊城の跡地や門の位置について記載された記録があり、二重の水堀をめぐらした平城であったとされる。慶長6年(1601年)に完成したが、実季はその翌年慶長7年(1602年)に常陸宍戸に転封となり、かわりに秋田転封となった佐竹氏の佐竹義宣が入城した。しかし、安東氏の領地は5万石程度であったが佐竹氏はその約4倍、20万石の大名であったため、家臣団の屋敷なども構えるとなると湊城は狭く、また拡張の余地も少なかった。そこで、義宣は慶長9年(1604年)に久保田神明山の地に新たに久保田城を建設してそちらに移り、湊城は破却された。元和6年(1620年)には跡地に土崎神明社が建てられている。
湊城は平城であったため、取り壊し後の土地はその多くが町人の屋敷となり、江戸時代における土崎湊町の隆盛の基盤となった。
【アクセス】
JR奥羽本線土崎駅より徒歩3分ほど。
【参考文献】
・秋田県の歴史散歩編集委員会編『秋田県の歴史散歩』山川出版社、2008年、ISBN 4634246058[続きを見る]
湊城の口コミ情報
2016年09月11日 永眠武蔵守釋 葱進
湊城
現在の土崎湊ともいえる秋田港フェリーターミナルから徒歩20分ほど(車なら5分ほどか)、土崎駅前の通りに面した土崎神明社及び隣接する公園が湊城跡とされている。
公園には湊城の解説板と湊安東家の顕彰碑が建てられているが、地図や縄張り図の類いはなし。東側に土塁と思われる土盛り(松が植わっている)がある。
データには水堀があると書かれているが、現在は消滅している模様。
2013年07月30日 中務少輔きたろう三世
湊城
跡地はほぼ完全に更地。旧城があったと言われる後城地区は、一部秋田城の城域と重なるようだが、湊城の明確な遺構は見当たらない。河口に面し街道を抑える立地は安東氏の城にふさわしいと思うのだが・・・
2011年11月03日 楓橋太政大臣夜泊
湊城
土崎駅より、歩いて3分で到着。現在は神社と公園の敷地となっており、往時を偲ばせるものはありません。
佐竹時代は一騎当千の士が住んだことから、一騎町と呼ばれていたとか。