久保田城(くぼたじょう)

久保田城の基本情報

通称・別名

窪田城、矢留城、葛根城、秋田城

所在地

秋田県秋田市千秋公園1-39

旧国名

羽後国

分類・構造

平山城

天守構造

築城主

佐竹義宣

築城年

慶長8年(1603)

主な改修者

主な城主

佐竹氏

廃城年

明治13年(1880)

遺構

曲輪、横堀(水堀)、土塁、門、番所

指定文化財

市文化財(御物頭御番所)

再建造物

本丸新兵具隅櫓、本丸表門、石碑、説明板

周辺の城

秋田城(秋田県秋田市)[4.2km]
湊城(秋田県秋田市)[5.8km]
太平城(秋田県秋田市)[6.6km]
白華城(秋田県秋田市)[8.5km]
豊島城(秋田県秋田市)[9.9km]

久保田城の解説文

久保田城(くぼたじょう)は、羽後国(旧出羽国)秋田郡久保田(現在の秋田県秋田市千秋公園近辺)にあった日本の城である。

 

概要
久保田藩主佐竹氏の居城である。矢留城、葛根城とも呼ばれる。江戸時代後期の公式文書では「秋田城」と書かれることも多かったが、古代に出羽国府が置かれた秋田城とは所在地ともに別の城である。秋田市指定の名勝としての正式名称では「千秋公園(久保田城跡)」と久保田城が使われている。

 

雄物川の支流である旭川の左岸、程野村窪田にある神明山(しんめいやま、標高40m)に築かれた平山城。石垣は基底部に僅かにあるのみでその上に土塁を盛られており(鉢巻土手)、天守も持たず塁上に「出し御書院」と呼ばれる櫓座敷を建ててその代わりとし、他に8棟の櫓を建て並べていた。石垣が無いのは幕府に遠慮したためとも言われるが、佐竹氏の旧領常陸国を含む東国ではもともと石垣を用いない築城法が一般的であったため、石垣作りに精通した者が家中に居なかったという説もある(但し後に江戸城の修築を命じられた時、佐竹氏は石垣の普請も担当している)。いずれにせよ山川沼沢を巧みに利用し防御を図っており、水堀や円郭式城郭など西国の様式も採り入れられている。なお、天守については、寛永10年(1633年)の火災以前には「御三階櫓」があったという説があるが、この時期の城内を描いた絵図などは残されておらず、確証は得られていない。

 

1880年(明治13年)の大火で城内の建造物はほぼ焼失しており、市街再建の過程で堀の多くも埋め立てられ、城下の中通を中心に秋田県初期の官庁街へと変貌した。現在、久保田城本丸・二の丸一帯は千秋公園となり、三の丸には秋田県民会館や秋田市立中央図書館明徳館、平野政吉美術館、秋田県立脳血管研究センターなどが整備されている。秋田県知事公舎は三の丸御殿の跡地に建てられている。建造物としては、前述の大火を逃れかつ解体も移築もされなかった御物頭御番所が現存し、本丸新兵具隅櫓(御隅櫓)、本丸表門が再建されている。他に焼失前に移築したとされる久保田城の裏門が、楼門から平屋へと改造をされてはいるものの、同市鱗勝院へと移築され、同市休宝寺には、明治4年に払い下げられたとされる書院が現存している。

 

歴史・沿革
江戸時代以前
神明山には安東氏(秋田氏)配下の三浦氏(川尻氏)が所在し、氏神として総社大明神・神明宮・別宮攝末社を奉っていた。三浦氏の城は「鎗留ノ城」「矢留ノ城」と呼ばれ、久保田城の別名の由来となっている。また、神明山の名も神明宮に由来する。更に古くは、大嶽山・小嶽山・光明山の3つの頂がある様から三森山(みつもりやま)または三嶽山(みたけやま)と呼ばれていた。

 

江戸時代
  • 1602年(慶長7年)9月17日 - 久保田藩初代藩主である佐竹義宣、秋田氏の居城であった湊城に入城。
  • 湊城は平城で防衛に向かないうえ、54万石規模の家臣団を抱えていた佐竹氏にとって秋田氏15万石(公称は5万石、蔵入地2万5000石)の城は手狭であり、これが久保田城築城の理由となった。
  • 1603年(慶長8年)5月 - 梶原政景と渋江政光を普請奉行とし、神明山に新城を築城開始。同時に城下町と徳川家康が推進していた主要道の整備も行う。
  • 三森山神社は川尻村下浜(現在の楢山川口境)へ遷座したが、低湿地のため神地には不向きで、1694年(元禄7年)に川尻村上野岱へ再度遷座、1707年(宝永4年)9月6日に社殿造営し本遷宮。1912年(明治45年)に3社を合祀し総社神社となった。
  • 1604年(慶長9年)8月28日 - 窪田城本丸竣工。湊城を破却し窪田城を本城と定める。また、年内に他の藩へ通じる主要道が完成。
  • 1607年(慶長12年) - 内町の町割(第一期)が開始。三の丸と中通廓が新設される。外町の町割もこの頃開始されたと見られる。
  • 1619年(元和5年) - 内町の町割(第二期)が開始。中通廓が割直しされ、亀ノ町廓が新設される。
  • 1629年(寛永6年) - 内町の町割(第三期)が開始。楢山・保戸野・手形・川口の侍町が新設される。
  • 1631年(寛永8年) - 鍛冶町と馬口労町を結ぶ道を新設し、大町筋を通町から馬口労町まで貫通させる。街道(羽州街道)を茶町筋から大町筋へ変更する。
  • 1633年(寛永10年)9月21日 - 本丸全焼。藩主義隆は三ノ丸下中城の渋江内膳邸を仮殿とする。
  • 1635年(寛永12年)12月15日 - 修築。
  • 1647年(正保4年) - この年に描かれた「出羽一国絵図」にて初めて「久保田城」と表記された。「窪田城」から「久保田城」への改称時期は1633年(寛永10年)から1645年(正保2年)にかけてと推測されている。
  • 1671年(寛文11年) - 楢山愛宕下を町割。
  • 1673年(延宝元年) - 築地・長野下を町割。
  • 1699年(元禄12年) - 手形東新町・手形西新町を町割。これ以降幕末まで城下町に大きな変化はない。
  • 1776年(安永5年)4月2日 - 本町六丁目から出火し、穴門・西矢倉門(松下門)・東矢倉門(長坂門)・表門・本丸御殿・出し御書院まで延焼。
  • 1778年(安永7年)閏7月10日 - 本丸全焼。藩主義敦は三ノ丸下中城の渋江敦光邸を仮殿とする。
  • 1781年(天明元年)5月24日 - 本丸御殿を修築。
  • 1788年(天明8年)12月24日 - 焼失していた御用局(吟味役所)復旧の記録あり。
  • 天明年間 - 表門付近で出火。
  • 1797年(寛政9年)5月10日 - 本丸北方で出火し、北方多門長屋1棟49間、北方櫓1ヶ所(帯曲輪門上御隅櫓)、西方多門長屋1棟12間、西方櫓1ヶ所(新兵具御隅櫓)、北西方塀25間を焼失。

 

近代
  • 明治元年(1868年) - 戊辰戦争。久保田藩は新政府軍を支持したため庄内藩・盛岡藩から攻撃を受け(秋田戦争)、領内の大半が戦場となり特に庄内藩には城下12kmの椿台まで迫られたが、仙台藩・米沢藩の降伏を受けて庄内藩が撤退したため、久保田城は戦禍を免れた。
  • 明治2年6月17日(1869年7月25日) - 版籍奉還。城地は兵部省(後に陸軍省)の管轄となる。
  • 明治3年1月7日(1870年2月7日) - 藩庁を三ノ丸下中城の渋江内膳邸へ移す。
  • 明治3年11月 - 三ノ丸上中城に藩知事義尭の官邸を移す。
  • 明治4年1月13日(1871年3月3日) - 久保田藩を秋田藩、久保田城下町を秋田町と改称。
  • 明治4年7月14日(1871年8月29日) - 廃藩置県。
  • 明治5年3月13日(1872年4月20日) - 本丸に秋田県庁を開庁。
  • 明治5年10月12日(1872年11月12日) - 秋田県庁が東根小屋町の旧明徳館へ移転。
  • 1873年(明治6年)1月14日 - 全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方により存城処分となる。
  • 1880年(明治13年)7月21日 - 大火により城内の建物がほぼ全焼する。
  • 日付は19日説・20日説もあるが、秋田県が22日付で軍へ打った電報の起案書に「昨二十一日午後十時前、秋田旧城ヨリ出火……」とあることから21日が正しいとされる。
  • 1886年(明治19年) - 4月30日の俵屋火事で焼失した寺町鱗勝院の山門として、裏門が払い下げられる。
  • 1890年(明治23年) - 陸軍省から佐竹氏に城跡が払い下げられる。

 

現代
  • 1989年(平成元年) - 本丸新兵具隅櫓(御隅櫓)を復元。
  • 2001年(平成13年) - 本丸表門を復元。
  • 2004年(平成16年) - 秋田市建都四百年記念祭が挙行。
  • 2006年(平成18年)4月6日 - 日本100名城(9番)に選定される。

 

構造
神明山の最高所を均して本丸とし、ここに藩主の居館である本丸御殿と政務所が置かれた。周囲を多聞長屋と板塀で取り囲み、表門・裏門・帯曲輪門・埋門・切戸口という5箇所の出入口が設けられた。表門は一ノ門ともいい、更に二の丸へ通じる手前に長坂門(二ノ門)があった。南西隅で岬のように突出した最高所の土地を「出し」と呼び、「出し御書院」という櫓座敷が設けられた。

 

本丸東側の一段低い土地を二の丸とし、勘定所・境目方役所・祈祷所安楽院・時鐘・金蔵・厩などが置かれた。外部からの出入りは全て二の丸に集まるようになっており、松下門・黒門・厩門(不浄門)・土門(北御門)という4箇所の出入口が設けられた。それぞれ下中城、上中城、山ノ手、八幡山に通じる。現在は松下門跡が千秋公園の正面入口となっているが、藩政期の正式な登城の道は黒門を経由するものだった。

 

二の丸の北・東・南を取り囲むように三の丸があり、重臣屋敷が置かれた。東部を上中城、南部を下中城、北東部を山ノ手(手形上町)という。山ノ手の西(本丸の北西)にある八幡山も三の丸に含まれるが、重臣屋敷ではなく小八幡社・稲荷社・別当寺金乗院が置かれた。

 

八幡山の更に北側には北の丸があり、大木屋と籾蔵が置かれた。また、本丸西側で内外堀に挟まれ島状になった西曲輪(捨曲輪)には、兵具蔵が置かれた。

 

本丸・二の丸を内堀で囲み(西兵具蔵前堀・南堀・東堀・北堀)、三の丸を外堀で囲んだ(八幡宮後堀・西兵具蔵外堀・東外堀・南外堀)。その他も北の丸の周囲(北の丸下堀・北の丸下北の方堀)、中通廓と亀の町廓・長野下の間(大堀)、亀の町廓と築地の間(上堀)、亀の町廓と楢山の間(下堀)などに堀が設けられた。堀の多くは旭川の旧河道である。現在ではほとんど埋め立てられ、現存するものは南堀の一部、東堀の一部、西兵具蔵外堀の一部(穴門堀)、南外堀の一部(大手門堀)のみとなっている。

 

城の直接的な機能を持つ本丸・二の丸・北の丸・西曲輪を総じて「一の廓」、重臣屋敷が設けられた三の丸を「二の廓」、同じく重臣・高禄の家臣の屋敷町となった中通を「三の廓」、それに続く亀の町を「四の廓」と呼び、土手・堀を持たないその他の侍町を「外廓」と呼んだ。但しこの分類は時期によって変遷がみられる。

 

一門や重臣の屋敷が丸の内から広小路や長野町・古川堀反町など本丸に近い町に配置され、楢山や保戸野など離れたところには主に小録の家臣が配置された(但し門の近くなど重要な場所には重臣が置かれた)。侍町を総じて「内町」と称した。

 

町人町は「外町」(とまち)と呼ばれ、城の西側に旭川を挟んで配置された。内町は防衛のため屈曲・食い違いの多い道路線形になっているが、外町は交通の利便のため碁盤の目状に区画されている。

 

外町の更に西側へ寺院が集中的に設置された。

 

現地情報
所在地
 秋田県秋田市千秋公園1-39
交通アクセス
 JR奥羽本線・秋田新幹線「秋田」駅から徒歩約10分

 

参考文献
「あきたさきがけブックNo.31 羽州久保田の原風景 佐竹氏入部のころ」土居輝雄、秋田魁新報社、1999年 ISBN 4-87020-198-4
「図説 久保田城下町の歴史」渡部景一、無明舎出版、1983年 ISBN 978-4-89544-499-6
「久保田城ものがたり」渡部景一、無明舎出版、1989年 ISBN 4-89544-200-4
萩原さちこさんオススメの見どころ!
JR秋田駅から徒歩5分。新幹線の発車まで、少し時間があれば訪れられる城です。ご存知、関ヶ原合戦後の慶長7年(1602)に常陸から転封になった、佐竹義宣が築きました。今も昔も、秋田の中心地です。

 

現在は千秋公園として解放されていて、地元の人にとっては城という認識はあまりないようです。が、さすがは佐竹氏の居城、とんでもなく広く立派な城です。もともと天守はなく、現存する櫓もありませんが、城の規模や特徴は十分に感じることができます。雄物川の支流・旭川の左岸にある神明山に築かれ、旭川を境に東側を内町、西側を外町として城下町がつくられています。

 

佐竹氏の築城技術の集大成ともいえる近世城郭です。特徴は、東国らしい城だということ。徳川幕府に配慮したからとか、石材が採れなかったからとか、佐竹義宣には石垣を積む技術がなかったからなどといわれますが、石垣の有無が城のレベルを決めるわけではありません。土壌に恵まれ、すぐれた土木工事の技術で築かれた久保田城は、東国の城らしさにあふれた名城といえます。絶妙に高低差がつけられ、なかなか秀逸な縄張ですし、土木量は相当なものです。屈曲する本丸長坂門跡や黒門跡などを見ても、しっかりとした頑丈な土塁のラインは身震いするほど。土塁は下部を見ると腰巻き石垣になっています。

 

久保田城の顔になっているのは、復元された隅櫓です。ぽつんと建ち、まるで天守のようなたたずまいですが、その名の通りただの櫓です。隅櫓内部の資料館にある秀逸なジオラマを見れば、一目瞭然。今は圧倒的な存在感を放つこの隅櫓が、かつては城内にひしめく建物のひとつでしかなかったとわかります。隅櫓に向かう道のりは細い通路になっていて「多門長屋跡」と案内板が出ているでしょう。ここには土塁上にずらりと多聞櫓が建ち並んでいました。つまり、この高くなっているところが中心部を囲むラインで、その隅っこで睨みを利かせたのが隅櫓ということです。

 

隅櫓内部の資料館、佐竹ファンは必見です。12代のプロフィールのほか、参勤交代の絵図をジオラマ化したものもあります。参勤交代のルートは、久保田城下の二の丸から上中城、追手門(上土橋町)から広小路、東根小屋町を進み、追手二の門(虎の口門)から中亀の丁、追手三の虎の口から楢山登町へというもの。牛島橋通町、牛島を通り、お茶屋橋で振り返って茶をいただく風習がありました。

久保田城の口コミ情報

武蔵守長可様[2014年02月14日]
2月に訪問しました。冬期期間中はお隅櫓は閉館中で、佐竹資料館のみ開館です。
城内は通路、階段ともに除雪されていて閉館中のお隅櫓までも楽に歩けます。 冬靴で行きましたが、底が滑らない靴ならばブーツでなくても登城可能です。
城内から周囲の山並みも綺麗に見え、冬の登城も気持ちがいいです。

ロドリゲス大宰大弐百名城制覇様[2013年08月11日]
8月25日までの夏休み期間中、午後7時まで御隅櫓に入場できます。
櫓の4階は風通しが良く、秋田の街並みが一望できる素晴らしい空間でした♪♪

かなりのオススメです♪♪

中務少輔きたろう三世様[2013年07月30日]
城内の茶室にある手水鉢は、加藤清正が朝鮮から持ち帰り秀吉に献上したものを、佐竹義宣が石田三成の手引きで譲り受けたと伝えられる。

león伊豆守大途様[2012年11月06日]
秋田駅から歩いて10分程、現在は千秋公園となっています。

常陸から転封となった佐竹氏の城らしく、石垣を一切使っていない総土づくりの関東風城郭です。
遺構としては城内の警備を担当する御物頭御番所が現存してます。
一ノ門は木造の再建、御隅櫓はコンクリート製の模擬復元です。

幅の広い掘と土塁が見所でした。
土塁の上を歩ける箇所が多いので、曲輪の形がとても解りやすいです。

城内にある佐竹史料館には佐竹義宣所用の具足等、面白い展示品がたくさんありました。
興味ある方は是非。

傾奇揚げ仙兵衛様[2012年06月02日]
30分100円のコインパーキングが有るが滞在中車を停めた形跡がない

久保田城の周辺観光情報

あきた文化産業施設「松下」

千秋公園内にある「旧割烹松下」。あきた文化産業施設「松下」は、この建物をリノベーションして2016年にオープンした。オリジナルの飲み物、甘味を楽しめる松下茶寮、秋田県内全蔵の銘酒を取り揃える松下酒房など、秋田の文化を嗜む複合施設となっている。

お問い合わせ:あきた文化産業施設「松下」(018-827-3241)

ポートタワーセリオン 道の駅「あきた港」

高さ143メートルと日本海沿岸屈指の高さを誇るポートタワー。展望室は高さ100メートルとなっており、男鹿半島から鳥海山、太平山までを一望できる360度のパノラマが楽しめる。1階のセリオンガーデンでは、秋田のおみやげ、地元の農産品、名産品のショッピングも楽しむことができる。

お問い合わせ:ポートタワーセリオン 道の駅「あきた港」(018-857-3381)

赤れんが郷土館

明治45年に旧秋田銀行本店として建設された、国の重要文化財にも指定されている赤れんが館を利用した施設。秋田の歴史・民俗・美術工芸に関する企画展などを随時開催している。年末年始、不定期の展示替え期間のみ休館。

お問い合わせ:赤れんが郷土館(018-864-6851)

秋田県立博物館

考古・歴史・民俗・工芸・生物・地質の6部門を中心とした総合博物館。周囲は小泉潟公園となっており、日本庭園やフィールドアスレチックなども楽しめる。毎週月曜日、年末年始と全館燻蒸消毒期間(9月はじめ)は休館。

お問い合わせ:秋田県立博物館(018-873-4121)

平田篤胤墓

江戸後期の国学者。本居宣長の復古神道を体系化。幕末の尊王運動に影響を与えた人物。国史跡。

お問い合わせ:秋田観光コンベンション協会(018-824-1211)

日吉八幡神社

亨和元年(1801)12月訪問。旧久保田城下の総鎮守で、宝永4年(1707)建立の木造三重の塔は県内で唯一。

県指定有形文化財。亨和元年(1801)12月 雪の中山王の桜・三重塔を見る。

春はいかに桜の梢花もさぞ ゆきもとをゝに見ゆる一本『雪の道奥雪の出羽路』。

情報提供:秋田県観光連盟
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