檜山安東氏城館(ひやまあんどうしじょうかん)
檜山安東氏城館の基本情報
通称・別名
- 檜山安東氏城館[檜山城(霧山城、堀ノ内城)・大館・茶臼館]
所在地
- 秋田県能代市檜山他(地図は檜山城を示す)
旧国名
- 羽後国
分類・構造
- 城館遺跡群
天守構造
- -
築城主
- 安東氏[すべて]
築城年
- 明応4年(1495)[檜山城]、不明[大館・茶臼館]
主な改修者
- -
主な城主
- 安東氏[すべて]、小場義成・多賀谷氏(佐竹氏家臣)[檜山城]
廃城年
- 元和6年(1620)[檜山城]
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)、堀切[すべて]
指定文化財
- 国史跡(檜山安東氏城館跡)
再建造物
- 碑[すべて]、説明板[すべて]
周辺の城
-
金山館(秋田県能代市)[9.2km]
館平城(秋田県能代市)[12.4km]
蝦夷館(秋田県山本郡)[19.2km]
浦城(秋田県南秋田郡)[21.6km]
五城目城(秋田県南秋田郡)[22.9km]
明利又城(秋田県北秋田市)[32.8km]
川口館(秋田県大館市)[33.2km]
脇本城(秋田県男鹿市)[35.1km]
染川城(秋田県男鹿市)[35.5km]
小友館(秋田県秋田市)[37.9km]
檜山安東氏城館の解説文
U字型の尾根筋を利用していて、大きく東、南、北の曲輪群に分けられます。車1台であれば、二の丸と三の丸の間の辺りまで車で登り停められます。登城口を進むと、南曲輪群から東へと歩を進めることになります。西側に3方向にのびる尾根は、堀切でがっちりガード。三の丸の先端は二重堀切で厳重に遮断されています。堀切が鋭く、深さがあるのが印象的です。現在公園になっているのが二の丸で、その東が本丸です。
目を見張るのは、南曲輪群の本丸東側にのびた尾根筋と、東曲輪群の境の堀切。このあたりが、最大の見どころでしょう。土橋と、土塁で囲まれた桝形虎口も明確に残っていて、戦闘の気配を感じます。構造をみる限り、本丸から歩くと逆流しているようでもあり、東側からのルートが大手道のようにも感じられます。初期の檜山城の城域はここまでだったのかもしれません。東曲輪群は将軍山という最高所を中心としたエリアで、広い曲輪があることから兵の駐屯地として使われていた可能性もあるようです。しっかりと分断された南側の尾根もポイントです。
北曲輪はあまり整備されていないため、上級者向けです。縄張図によると中央に広い曲輪があり、尾根の東斜面には無数の竪堀が設けられ谷からに侵入に備えています。案内のもと薮をかき分けてみたところ、かろうじて連続竪堀が数条確認できましたが、やはり薮に覆われて明瞭とまではいきませんでした。
檜山城の西に位置する茶臼館、北西にある大館は檜山城の支城と考えられています。いずれも標高50メートルほどの丘陵の末端部を堀や土塁で区画したシンプルな構造ですが、かなり規模が大きいのが特徴です。
[引用元:Wikipedia「檜山安東氏城館」の項目]
檜山安東氏城館跡(ひやまあんどうしじょうかんあと)は、秋田県能代市檜山集落の東側丘陵にある山城および城館遺跡群。1980年(昭和55年)と1986年(昭和61年)に、檜山城跡とその近くにある大館跡・茶臼館跡・国清寺跡とを併せて、国の史跡に指定された。また、秋田魁新報社が主催した1952年(昭和27年)6月20日の第1回「秋田県観光三十景」(有効投票約195万票)で第10位(53172票)に選出されている。
概要
檜山城は、能代市南東部に位置し、米代川の支流檜山川南の標高147メートル、周囲との比高128メートルの霧山にある。所在地の名をとり「霧山城」、あるいは「堀ノ内城」ともいわれる。東西1500メートル、南北900メートルの大規模な山城であり、西方には羽州街道が縦走する。
霧山およびその山麓の馬蹄形地形を利用して構築され、堀切や段築を用いて要害としている。城の中核である本丸、二の丸、三の丸は南側の最頂部に位置する。北側の緩斜面にも多数の曲輪や腰曲輪があり、享保13年(1728年)および天保2年(1831年)の絵図には本宮堂、鉄砲場、星場など多数の施設が記載されている。本丸以下の南側とこれら北側緩斜面の間の尾根には櫓跡がある。本丸の北東約1250メートル地点に安東家の菩提寺国清寺があり、西北西700メートル地点には霧山天神宮、その沢をはさんだ南側に多賀谷氏(後述)の菩提寺多宝院がある。さらに、霧山天神宮と多宝院にはさまれた舌状台地(沢をはさんで天神宮側)には安東氏時代の御用場跡があったと推定される。
なお、古城地区には「館神」、「御料場」、「古寺」、赤館地区には「鉄砲場」、「背中あぶり」という地名が今も残っている。
歴史・沿革
1432年(永享4年)、安藤康季が修築したとの記録もあるが、一般的には1456年(康正2年)、「河北千町」を領していた葛西秀清を安東政季・安東忠季父子が滅ぼして安東氏がここに本拠を構え、政季が築城を開始して忠季が1495年(明応4年)頃に修築を完了したとされる。以後、尋季、舜季、愛季、実季まで5代にわたり檜山安東氏の居城となった。1589年(天正17年)には安東氏の内紛により、この城で大規模な籠城戦(湊合戦)[1]が行われている。
1598年(慶長3年)、実季は土崎(秋田市)の湊城に移り、檜山城は大高相模守康澄[2]の代官地となった。
関ヶ原の戦い後の1602年(慶長7年)、秋田氏と改めた安東氏は常陸宍戸に転封となり、かわりに佐竹氏が秋田に国替えとなった。佐竹氏は小場義成を檜山城の城代とするが、1610年(慶長15年)には小場義成を大館(現在の大館市)にうつし、かわりに多賀谷宣家が城代となり檜山1万石を受けた。多賀谷氏は大規模な城の改築を行ったものの、江戸幕府の一国一城令により、1620年(元和6年)、檜山城は廃城となった。しかし、多賀谷氏は代々この地にとどまり、檜山は廃藩置県までこの地方の政治や文化の中心となった。また、この地には神社仏閣が多数現存しており、納豆が名産となっている[3]。
2016年(平成28年)6月6日、檜山安東氏城館跡で初めての発掘調査が開始された。これは2017年(平成29年)度の環境整備のため能代市教育委員会が実施したものである[4]。
考古資料
遺跡
支城跡と国清寺跡
檜山城北西の支城、大館には北方の城であるチャシの特徴があるという指摘も菅江真澄などが行っている。1971年(昭和46年)から6次にわたる発掘調査では、中世の館跡や古代の集落跡が重複する複合遺跡であることがわかり、遺物としては、土師器、墨書土器、鞴の羽口[5]、洪武通宝などが出土した。大館跡は元慶の乱の際に政府が築いた「野代営」ではないかと言われていた時期もあったが、この調査では証拠となる資料は見つからなかった。古代住居跡はほぼ10世紀から11世紀にかけてのものであるが、戦国時代の大館はこれら住居跡の立地する台地を空堀によって区分しており、現在ではそれぞれ大館、小館と称される。尖端部分には二重、三重の柵を備えて防禦をかためた痕跡がのこる。
茶臼館は、檜山城の西にある支城と考えられている。台地状の曲輪を区画する堀切や、腰曲輪が現存しており、中世城館の構造を知るうえで重要な考古資料となっている。ここには大浦氏(のちの津軽氏)に追われた津軽の北畠氏が住んだという伝承、また、大高相模守の館跡という伝承もある。構造は大館跡に類似しており、区分された区画は小館、中館と呼ばれている。
大館跡、茶臼館跡はいずれも標高50メートル前後の丘陵末端部を数本の堀、土塁で区分した簡潔な構造であるが規模は大きい。ともに正面が羽州街道を向くというところにも共通点がある。
国清寺は1504年(文亀4年)ころ、安東忠季によって建てられたとされる安東氏の菩提寺である。安東氏(秋田氏)が常陸国宍戸に移されたのちは廃寺となった。現在では、かつての境内であった水田に1本の銀杏の木を残すのみである。
檜山城には米代川に面する丘陵上にいくつかの支城的役割をはたす館が設けられていたと考えられるが、1980年(昭和55年)3月21日、そのなかの大館、また南方の備えである茶臼館、そして本城および国清寺跡が一括して国の史跡に指定され、その保存管理計画も策定されている。
多賀谷居館跡
檜山入部後の多賀谷氏は当初は檜山城(本城)に入ったが、檜山城破却後は茶臼山に入り、居館を築いて家臣を周囲に配した。能代市教育委員会では、1994年(平成6年)から1996年(平成8年)にかけて、遺跡範囲と保存状態確認のための緊急調査を行っている。その結果、中央部の整地跡、表門跡および裏門、囲裏門の痕跡を示す凹み、土塁、井戸跡、溝跡、土坑などを確認しており、町屋では角材列を検出した。遺物はともなっていないが、近世の屋敷造成や小規模な都市計画のあり方を示す資料となった。
周辺遺跡・文化財
- 浄明寺…永正年間(1504年-1521年)に創建された安東一族ゆかりの寺院。浅利勝頼の首塚がある。山門は檜山城より移された薬医門で1634年(寛永11年)建立であることが判明し、桃山様式を残す建築物として県の有形文化財に指定されている。他に能代市の文化財指定を受けている資料が4件ある。
- 立山(大森館跡)…湊合戦における出城。
- 楞厳院…安東舜季が父尋季供養のため天文年間(1532年-1554年)開基したとされる曹洞宗寺院。
- 母体八幡神社…元亀3年(1572年)に安東愛季が再興したという棟札が残る神社。
- 釣潟神社…愛季奉納の絵馬(能代市指定文化財)が残る神社。
- 母体のモミ林…モミの自生地としては北限にあたる。秋田県指定天然記念物。
- 旧羽州街道一里塚(鴨巣一里塚)…正保4年(1647年)『出羽一国御絵図』には鶴形村のすぐ南に記されている。県内では南から数えて47番目の一里塚。秋田県指定史跡。
- 檜山追分旧羽州街道松並木…檜山から鶴形へ向かう旧羽州街道と脇街道である野代(能代)道の分岐にあたる。現在黒松が13本残るが、最大のものは樹高11メートルで、樹齢約200年と推定される。久保田藩が1681年(天和元年)に街道整備を行った記録があるので、その後植栽されたものと考えられる。秋田県指定史跡。
参考文献
- 秋田県教育委員会『秋田県の文化財』秋田県教育委員会、1989.3
- 秋田県教育委員会『秋田県の中世城館』秋田県文化財保護協会、1981.3
- 秋元信夫「出羽北部の城館」伊藤清郎・山口博之編『中世出羽の領主と城館』高志書院<奥羽史研究叢書>、2002.2
- 沼館愛三『出羽諸城の研究』伊吉書院、1980.9
- 秋田魁新報社編『古戦場-秋田の合戦史-』、1981.7
- 秋田県埋蔵文化財センター『平成9年度秋田県埋蔵文化財発掘調査報告会資料』、1998.3
- 秋田県教育庁払田柵跡調査事務所「秋田県重要遺跡調査報告書2 檜山安東氏城館跡(大館跡)調査」『秋田県文化財調査報告書』467(https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/11980)、秋田県教育委員会、2011年
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檜山安東氏城館の口コミ情報
2022年07月21日 RED副将軍
檜山安東氏城館
リア攻めマップ登録地点の檜山城の口コミです。
秋田安東氏の本拠地であり、秋田県を代表する名城🏯
多数の尾根を分断する大堀切と、技巧的な桝形虎口が特徴的です。
オススメ度 ★★★★★
1456年に、安東政季・安東忠季の父子がこの地を支配していた葛西秀清を滅ぼし、築城したのが始まりと云われます。
以降、5代に渡り檜山安東氏の居城となりました。
8代当主の安東愛季は、分裂していた檜山安東氏と湊城安東氏を統一し、勢力を大きく拡大。織田信長、豊臣秀吉の天下人とも連絡を密に取っていたことから、官位官職も与えられ、秋田城介の官職から秋田氏を名乗りました。
安東愛季…相当なヤリ手です。
関ヶ原の戦いの際は、秋田実季は東軍に属しており、1602年には佐竹氏が秋田に転封になり、入れ替わりに常陸宍戸に国替えとなりました。檜山城には佐竹家臣の小場氏が入城。
1620年の一国一城令により廃城となりました。
見所
檜山安東氏城館跡として檜山城、大館、茶臼館、国清寺とで構成され、国史跡に指定されています。
主郭から西側は三本の尾根が延び、其々を大堀切で分断しています。恐ろしい深さで必見です。
主郭東側の将軍山、屋敷跡に通じる鞍部は土橋と桝形虎口が形成され、更にその内部は鉤の手の土塁で折れを造る技巧的なもので最大の見所です。
写真8枚では足りません。
行き方は、城域西側に県道4号線からの林道が通り、二ノ丸下くらいまで車で行くことが出来ます。とはいえ、野生動物の棲息域なのでプーさんには十分にご注意下さい。私はカモシカと3頭出会いました。
2015年10月24日 カーネル
檜山安東氏城館
東能代駅から檜山城へ
道中に檜山城への案内はなく、ひたすら県道4号を南下。歩道も広くて歩き易いのですが、スーツ・革靴で荷物も重く、さらに靴擦れ発生
辛かったのでとっとと帰ろうと思ったのに広い広い。マジかと思いました。お城自体は『さすが国史跡』な内容で大満足
登城当時は、檜山城と大館が別登録だったので、こちらにも寄ってから東能代駅に。見学時間含めて3時間半。歩き計画されてる方の時間目安になれば幸いです
歩きだと2回ポチで城主になれますよ。って思ったら、今は激戦区になったんですね
2012年11月13日 奥州王征夷大将軍毘沙門天乱丸
檜山安東氏城館
檜山城付近からさらに登る事少しですが車では断念(>_<)
場所確認のみで時間なく撤退しましたが次回はゆっくりと探索したいですね(^_^)
2012年11月13日 奥州王征夷大将軍毘沙門天乱丸
檜山安東氏城館
秋田道能代東ICをR7号線通り県道4号線へ高速道路の下をくぐり抜け小学校の交差点右へしばらくして左側に神社がありその一帯が城跡です(^_^)
さらに登る事少し、茶臼館なのですが道が悪く車の腹こすり、また時間の関係上場所確認で撤退しました(^^;)
2011年10月30日 楓橋太政大臣夜泊
檜山安東氏城館
車で本丸まで登れます。途中、未舗装の狭い山道になりますが、ループして元の道に戻れるので安心です。
麓では、秋田名物檜山納豆の店がありますので、お土産にどうぞ。