払田柵(ほったのさく)

払田柵の基本情報

通称・別名

所在地

秋田県大仙市仙北町払田

旧国名

羽後国

分類・構造

古代城柵

天守構造

なし

築城主

不明

築城年

延暦年間(782〜806)

主な改修者

主な城主

不明

廃城年

遺構

石垣、土塁、横堀(空堀)

指定文化財

国史跡(払田柵跡)

再建造物

外柵南門、木橋、石碑

周辺の城

本堂城(秋田県仙北郡)[1.5km]
六郷城(秋田県仙北郡)[5.2km]
四十二館(秋田県大仙市)[7.5km]
金沢柵(秋田県横手市)[10.9km]
楢岡城(秋田県大仙市)[14.9km]

払田柵の解説文

払田柵跡(ほったのさくあと)は、秋田県大仙市払田・仙北郡美郷町本堂城廻にある日本の古代城柵遺跡。国の史跡に指定されている。

 

文献資料にその名がないため、「幻の柵」とも呼ばれる。軍事施設と行政施設の役割を果たしていたと考えられる。日本における木簡研究の嚆矢となった遺跡としても知られる。

 

沿革
発見
1902年頃、耕地整理の際に秋田県仙北郡千屋村(現在は美郷町)の水田から200本余の柵木が発見された。だが、この木は燃料にされたり、下駄に加工され売られたりした。しかし、後藤宙外が遺跡の存在に注目し、遺跡内の文字の書かれた木片を採集して、敦煌出土の「木簡」に似ていると論考している。1930年3月に文部省に嘱託された上田三平が発掘調査を開始し、払田柵跡の存在が明らかとなった。1930年10月には本格的な調査が開始され、その結果、1931年(昭和6年)3月30日に秋田県としては初めて国の史跡に指定された。

 

調査の本格的開始
1973年度「仙北地区新農村基盤総合整備パイロット事業」が立ち上げられ、柵跡は壊滅の危機に立たされた。そのため翌年の1974年4月1日に「秋田県払田柵跡調査事務所」を立ち上げ、さらなる調査や柵跡の実態把握、そして柵跡の保護を行っていった。

 

1989年1月23日外郭の柵木は奈良国立文化財研究所によって、年輪年代法による年代測定が行われ、801年に伐採された材であることがわかった。これにより、桓武朝における坂上田村麻呂らによる征夷事業によるものであり、陸奥国側の胆沢城志波城と一連のものであることが判明した。払田柵跡からは「嘉祥二年正月十日」と記された木簡が発見されており、この結果とおおよそ一致する。

 

現況
1931年(昭和6年)3月30日、国の史跡に指定され、1974年(昭和49年)4月1日、地方機関として「払田柵跡調査事務所」が開設されたのち、毎年、学術調査が進められ、その発掘調査にもとづいて外郭南門や大路、政庁などが復元されてきた。出土品は、近接する払田柵総合案内所(旧仙北町が設置)や秋田県払田柵跡調査事務所(建物は秋田県埋蔵文化財センターと共通)で見学することができる。

 

それ以外の場所はほとんどが民家や水田となっており、現状変更には許可が必要である。

 

立地と構造
横手盆地の北部に位置し、硬質泥岩の丘陵である真山(しんざん)と長森(ながもり)を囲むように外郭が築かれ、そのさらに内側には、長森だけを囲むように内郭が築かれている。内外郭の東西南北にはそれぞれ掘立柱による門が築かれていた。

 

長森の中央には、板塀で囲われた平安時代の政庁と考えられる建築物の跡が残されている。その配置と造営技術は律令制官衙様式に則っている。また、政庁は4回、建て直されていることがわかっている。

 

建設当時は外郭の中に川が流れていたことが判明している。現在は流路を変えているが、一部当時の川跡が復元されている。

 

外郭は東西約1,370m、南北約780m、面積約87.8haの不整楕円形をしており、東北地方最大級の城柵遺跡である。自然の丘陵上をそのまま利用していること、三重の区画施設に囲まれていることも大きな特徴である。

 

払田柵にかかわる学説 
上田三平は「無名不文の遺跡」であるとして、記録にその構造を示さない古代遺跡は多く、軽々に結論を出すべきでないとして、1938年(昭和13年)文部省発行の報告書に、現状では、文献には対応する史跡がないことを主張した。

後藤宙外は、宝亀6年に秋田城から遷された出羽国府、すなわち「河辺府」であると論じた。河辺府説に立つ論者には、新野直吉、船木義勝などがおり、冨樫泰時も同調的である。船木は、801年に、坂上田村麻呂が造胆沢城使となり、出羽権守文室綿麻呂を遣わして、河辺府、すなわち払田柵の造営に着手し、804年に完成したとする。

 

それに対し、『続日本紀』に天平寶字4年(760年)創建とされる雄勝城であると説いたのが高橋富雄である。城輪柵多賀城よりも大規模で、防御も厳重をきわめ、辺境経営の城柵として最大級の大鎮域が文献に記載されないはずがなく、大野東人の出羽遠征記事や元慶の乱にかかわる記事から類推して、出羽における一府二城のひとつであった雄勝城であろうとした。ただし、高橋の説は、のちに年輪年代測定により創建年代が延暦年間であることがほぼ確定され、年代的に整合しないことが明らかとなった。

 

喜田貞吉は、当初、横手盆地南端部の雄勝郡内に設けられた雄勝城がのちに移転されたという見解を示した。喜田の説は、「官小勝」と書かれた墨書土器が出土したことで、現在あらためて注目されている。年輪年代測定の結果とも矛盾しない「第2次雄勝城説」ともいうべきこの説を唱える論者には、東北歴史博物館の岡田茂弘や秋田大学の熊田亮介がいる。

 

アクセス
公共交通機関
JR東日本 奥羽本線・田沢湖線(秋田新幹線)大曲駅前にある「大曲バスターミナル」より、羽後交通バス千屋方面行きに乗車し、「埋蔵文化財センター前」下車。
車・タクシー
秋田自動車道から : 大曲IC - 大曲西道路和合ICから国道13号を経由して秋田県道50号大曲田沢湖線を東へ約7km

 

参考文献
秋田県教育庁払田柵跡調査事務所『払田柵を掘る』払田柵跡調査事務所、1995年3月。
古代城柵官衙遺跡検討会『第25回 古代城柵官衙遺跡検討会資料』東北芸術工科大学、1999年2月。
秋田県教育庁払田柵跡調査事務所「払田柵跡 第141次調査概要 払田柵跡調査事務所年報2010」『秋田県文化財調査報告書』466、秋田県教育委員会、2011年。
萩原さちこさんオススメの見どころ!
「城柵」は、奈良・平安時代の律令国家が地方に地域支配拠点として設置した、軍事・行政施設のことです。出羽の国にもいくつかの城柵が文献史料で確認できますが、考古学的にも一致するのは秋田城のみ。払田柵は遺構が明確にも関わらず、史料上での対比が定まっていない謎めいた城柵です。

 

とはいえ、遺跡の実態は明白。現地は外柵南門や石塁が復元されているのをはじめ、発掘調査による建造物の平面表示がまるで野外博物館のように展示されていて、城柵の構造や払田柵の規模やつくりがよくわかります。まず、払田柵総合案内所へ立ち寄るのがオススメ。アニメーションを駆使した親切な解説映像や模型で、全体像をイメージできます。

 

総合案内所には無料のレンタサイクルがあるのですが、つまりはそれほどまでに広大です。周囲を約3.6キロの材木塀で囲まれ、復元された外柵南門から中心部の政庁に続く大路だけでも約200メートルあります。高さ9.7メートルの外柵南門の大きさを考えれば、東・西・南・北門で囲まれた全体の規模も想像がつくはず。長森・真山の両丘陵の外側をぐるりと長楕円形に取り込み、規模は東西1,370メートル、南北780メートルに及びます。創建時は国家権力を誇示すべく、壮麗で豪華な施設だったようですが、9世紀中には外郭の門が取り払われ、縮小されます。ちなみに、10世紀後半に終末を向かえた後、払田柵を引き継いだと考えられるのが大鳥井山遺跡。後三年合戦で源氏に滅ぼされることになる清原氏の城館跡です。

 

外郭南門は「ハ」の字型に置かれた石塁と櫓の上に建ちます。古代城柵で区画施設に石塁や石垣を使っているのは払田柵だけです。外郭南門をはじめ各門は、計12本の柱から成る八脚門。調査の結果、門柱は60〜62センチの丸柱だったことが判明しています。門はクリ材、門に続く材木塀はスギ材と使い分けをしていたのも興味深いところです。

 

基本的に方形なのに対して楕円形をしていること、外柵・外郭の門が正方位に設置される原則に対して東門が揃って北東を向いていること、外郭北門だけが地盤の悪い低湿地にあること、などさまざまな疑問があります。解明されてはいませんが、東には奥羽山脈が迫り、隣国陸奥国との国境も10キロほどです。内陸部に位置する払田柵は陸上交通の要だったようで、沖積地の独立丘である払田柵の立地は、山越えの最初の休息地として最適との見解があります。どうやら、軍事・行政的な機関という側面と、北方の内陸部を対象とした交易という二面を兼ねていたよう。財政確保を考えれば交易は重視されたはずですから、古代においては道の駅のような役割があったのかもしれません。

払田柵の口コミ情報

アグボンラホール様[2016年05月13日]
今まで、三回おとずれてます。

STRADA様[2015年10月18日]
ガイダンス施設に無料の貸出自転車が有ります。

野呂利駿河守休三23夜のみ様[2015年09月28日]
城郭基本情報にもありますように中心部の長森の西隣の独立丘の真山も払田柵の外郭に囲まれていますが、真山には中世に堀田氏の堀田城がありました。今も切岸で区切られた曲輪状のものが見られます。

真山の頂上にある高梨神社は大正時代に付近の神社を統合した神社です。このあたりは当時高梨村でした。この神社には、ドンパン節の原型を創った円満造翁(円満造=えまぞう)作の彫刻が施されています。円満造翁は明治から戦前まで活躍した宮大工です。

なお高梨神社から南西1.7kmの所にある南陽院にも作品が残されているそうです。南陽院は室町末期創建と伝えられる寺で鐘楼門が目印です。

真山に話を戻すとすぐ南に東北三大地主池田家の分家の庭園があります。払田柵周辺はこの池田家の土地で同家の支援なくしては払田柵の調査はありえませんでした。

カーネル様[2012年04月23日]
HPで調べたときは、大曲バスセンターから、秋田埋蔵センター前バス停下車とありましたが、自由乗降区間のため、左にに南門が見えますので、ボタンを押して降りましょう
アナウンスも『払田前』と言っていたような・・・

楓橋右大臣夜泊様[2011年11月13日]
整備が進んでいて、正面の八脚門、政庁に登る石階段と柱列などは見応えがあります。
大曲駅より車で約15分、案内施設、駐車場もあるので安心です。
すぐ近くには「柵の湯」という温泉もあります。

払田柵の周辺観光情報

秋田県立農業科学館

秋田県の農業の歩みを紹介するほか、食や農業について楽しく考え学ぶことができる展示が多数。敷地内には広場や遊具、バラ園なども併設されており、家族でも楽しむことができる。

お問い合わせ:秋田県立農業科学館 (0187-68-2300)

唐松神社

天元5年(982)年、物部氏が唐松山山頂に社殿を奉還したのがはじまりで、その後、現在地に移築された。参道の樹齢300年以上の杉並木は壮観。子授け、安産の神として広く知られており、全国から祈願者が集まっている。

お問い合わせ:大仙市協和支所市民サービス課 (018-892-2111)

水神社

藤原時代の線刻千手観音等鏡像(国宝指定)を蔵する神社として有名。菅江真澄もこの地を訪れている。

お問い合わせ:大仙市観光情報物産協会(0187-86-0888)

千屋断層

明治29年「稲田土に埋まり、山新たに現れたる如く」と称された陸羽地震によって出現した。

隆起がおこり、逆断層が発生したもので、断層はわが国最大規模のもので、山側と平野部の境に発生しており、山側の土地が隆起し手前にずり出している状態がよく分かる。国指定天然記念物。

お問い合わせ:美郷町教育委員会生涯学習課歴史文化財班(美郷町学友館内)(0187-84-4040)

情報提供:秋田県観光連盟
「発見!ニッポン城めぐり」を始めるには?

「発見!ニッポン城めぐり」は、iPhone・Androidの両アプリに対応。
利用料金は無料、アプリ内の課金も一切ナシ!いますぐ城めぐりを始めてみよう!

スマートフォンからのアクセス方法

app store app store  ■iPhone
 AppStore で「発見!ニッポン城めぐり」を検索。

google play ■Android
 Google play で「発見!ニッポン城めぐり」を検索。

スマホを持って城をめぐろう!スマホでお城スタンプラリーゲーム「発見!ニッポン城めぐり」 発見!ニッポン城めぐりとは? GooglePlay Appstore