胆沢城(いさわじょう/いさわのき)
胆沢城の基本情報
通称・別名
- 方八丁
所在地
- 岩手県奥州市水沢佐倉河渋田
旧国名
- 陸中国
分類・構造
- 古代城柵
天守構造
- なし
築城主
- 坂上田村麻呂
築城年
- 延歴21年(802)
主な改修者
- -
主な城主
- 坂上田村麻呂
廃城年
- -
遺構
- (発掘調査:築地塀跡、正殿跡、脇殿跡、門跡)
指定文化財
- 国史跡(胆沢城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
鳥海柵(岩手県胆沢郡)[2.2km]
水沢城(岩手県奥州市)[3.8km]
豊田館(岩手県奥州市)[4.8km]
六日入城(岩手県奥州市)[10.5km]
岩崎城(岩手県北上市)[13.7km]
黒岩城(岩手県北上市)[14.8km]
鹿合館(岩手県奥州市)[15.4km]
野手崎城(岩手県奥州市)[15.9km]
人首城(岩手県奥州市)[16.6km]
二子城(岩手県北上市)[17.0km]
胆沢城の解説文
[引用元:Wikipedia「胆沢城」の項目]
胆沢城(いさわじょう/いさわのき)は、陸奥国胆沢郡(現在の岩手県奥州市水沢)にあった日本の古代城柵。国の史跡に指定されている。
坂上田村麻呂が802年(延暦21年)に築き、1083年(永保3年)の後三年の役の頃まで約150年にわたり鎮守府として機能した。
歴史
平安時代
文献上の初見は『日本紀略』にあり、坂上田村麻呂が802年(延暦21年)1月9日に陸奥国胆沢城を造るために征服地に派遣されたことを伝える。征夷大将軍の田村麻呂はこれにより造胆沢城使を兼任した。11日には東国の10か国、すなわち駿河国、甲斐国、相模国、武蔵国、上総国、下総国、常陸国、信濃国、上野国、下野国の浪人4,000人を胆沢城に配する勅が出された。おそらくまだ建設中の4月15日に、田村麻呂は蝦夷の指導者アテルイの降伏を報じた。
新征服地の城としては、翌年これより北に志波城が築かれた。志波城の方が規模が大きいので、当初はさらなる征討のため志波城を主要拠点にするつもりだったと推測されている。しかしまもなく征討は中止され、志波城はたびたびの水害のせいで812年(弘仁3年)頃に小さな徳丹城に移転した。これによって後方にある胆沢城が最重要視されるようになった。
9世紀初めに鎮守府が国府がある多賀城から胆沢城に移転した。その正確な年は不明だが、早ければ建設と同時の802年、遅ければいったん志波城におかれたとみて812年となる。『日本後紀』の808年(大同3年)7月4日条から、この時既に鎮守府が国府と離れた地にあったことが知れるが、それが志波か胆沢かまではわからない。移転後の胆沢城は陸奥国北部、今の岩手県あたりを統治する軍事・行政拠点となった。
815年(弘仁6年)からは軍団の兵士400人と健士300人、計700人が駐屯することになった。兵士は60日、健士は90日の交替制によって常時700の兵力を維持した。これ以前には他国から派遣された鎮兵500人が常駐していた。初めから500人だったか、別の改正を経て500人になったのかは不明である。
9世紀後半になると、その権威は形骸化していった。
現代
1922年(大正11年)10月12日内務省告示270号で国の史跡に指定された。
1971年(昭和46年)、岩手日報で「胆沢城」が連載された。古代城柵である胆沢城を中心にした古代の物語である[1]。
2002年(平成14年)に造営1200年の節目を迎えた。また、朝廷に抵抗したアテルイの没後1200年とも重なって、地元水沢市(当時)では、様々なイベントが行われた(そのイベントというのもアテルイが主であった。しかし、付加的に地元での認知度が上がった)。
2005年(平成17年)9月3日には、政庁からおよそ400m離れた伯済寺遺跡より、墨書土器に「政所」の文字が書いたものが見つかったと発表した。これにより有力官人が城外の自分の邸内で執政していた可能性が強くなった。
2019年(令和元年)6月、外郭南門両脇の築地塀と南大路の一部が復元され、胆沢城跡歴史公園として開園された。
構造
発掘調査によれば、総面積はおよそ46万m2で、外側から幅3-5mで深さ1-1.5mの堀があり、築地(ついじ)と呼ばれる高さ3.9mの土で固めた築地塀の内側にもまた堀をもつ、二重の堀による外郭線で囲まれている。
その内部には中央部に90m四方の政庁があり、これもまた外壁を伴う。
また正門の外郭南門(がいかくなんもん)から北に伸び、政庁前門と政庁南門の2つの門がある。
- 政庁 - 儀式を行う中心施設。
- 官衙(かんが) - 政庁のそばにある役所。
所在地
- 岩手県奥州市水沢佐倉河字九蔵田
- 水沢駅よりバスで旧国道4号を北上して約15分。佐倉河「八幡」で下車する。
参考文献
- 黒板勝美・編 『新訂増補国史大系[普及版]日本紀略』 吉川弘文館、1979年。
- 黒板勝美・編 『新訂増補国史大系[普及版]日本後紀』 吉川弘文館、1975年。
- 【書籍】「昭和四〇年代の城郭研究の流れについて (五) 」
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胆沢城の口コミ情報
2023年05月22日 ヤマ中務大輔
胆沢城
道路脇に車駐車できるスペースがあります。案内板等あり当時が偲ばれます。
2023年05月21日 国府左京大夫城介
上館[胆沢城 周辺城郭]
胆沢城周辺に残るの名も無き中世領主の城
【歴史】
築城者・築城年代共に不明。
仙台藩の史料である「風土記御用書出」(安永風土記)に、上館(かみだて)屋敷という屋号が記載されている。
別名:古館、速瀬館、川端館
【遺構】
胆沢城の北北西800mに位置し、胆沢川に南岸に築かれた平城。
現在は果実畑になっているが、四つの郭(主郭・西郭・北郭1・北郭2)があり、各郭間を横堀で区切っている。
主郭の南東部には櫓台らしき高まりがあり、その西側には土橋と虎口がある。
主郭と西郭・北郭を区切る横堀は、深さはあまりないが、堀幅はかなり広くなっている。また、北郭1・北郭2を区切る横堀は、横矢がかかる形状になっている。
【感想】
胆沢城の周囲に幾つか無名の在地領主の館が残っていますが、唯一訪れたのがここ上館です。
城内は果実畑になっており、農道の部分からしか遺構を確認していません。主郭の北側にある横堀にも植えられているので、横堀内も探索することができませんでした。堀自体はかなり浅くなっているため、年月による土砂の堆積等があったものだと思われます。
果実畑(おそらく林檎畑?)なので藪もなく遺構の見学はしやすいですが、農家さんが忙しい時は訪れない方がいいと思います。
【アクセス】
胆沢城(奥州市埋蔵文化調査センター)から徒歩15分。
農道なので、直近に駐車スペースはない。
【写真】
①主郭南の横堀
②櫓台
③主郭と北郭間の横堀
④主郭と西郭間の横堀
2023年02月07日 ファン掃部助トム治郎
胆沢城
水沢駅から徒歩攻です。一面雪景色でした。坂ノ上田村麿の時代もこんな感じだったとしたら都人にとってはまさにみちのくだっただろうな。別な季節にもきてみたいとおもいました。
2022年02月19日 RED副将軍
胆沢城
坂上田村麻呂が造営した東北統治の拠点🏯
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
802年に桓武天皇の命を受けた坂上田村麻呂が築いた古代城柵。808年には多賀城から鎮守府が移され、約150年にわたり軍政の拠点として機能しました。1083年の後三年の役の頃には形骸化し廃城となったと見られています。
見所
高さ約3.9mの築地(土塀)と幅3~5m、深さ1~1.5mの堀で方形に囲まれていたと言われ、外郭南門跡に一部、築地が復元されています。国史跡だけあり、キレイに整備されています。
2021年06月28日 桜井太政大臣静龍
胆沢城
鎮守府八幡宮から軽自動車でギリギリ通れる道を通り、近くの駐車スペースまできました。デカイ車な方は鎮守府八幡宮の駐車場へ。
と思うたら、どうやら裏から入ってたらしく、表には広い道とデカイ門があり、そちらからなら楽に車止められると後でわかりましたorzところどころに木の看板で昔の面影を案内はしてます。本庁舎跡は土塁になってました。
2019年09月14日 さすらい
奥州市埋蔵文化財調査センター[胆沢城 関連施設]
胆沢城のガイダンス施設でもあります。駐車場やトイレはもちろん、展示物も充実しています。新しい建物です。
2019年08月26日 尾張守ひろっちぃ
胆沢城
門、建物跡が復元されております。
堀や土塁があり戦いのための砦の機能が随所に見られます
胆沢城の周辺スポット情報
外郭南門跡(遺構・復元物)
東脇殿(遺構・復元物)
政庁前門(遺構・復元物)
政庁南門(遺構・復元物)
政庁正殿(遺構・復元物)
政庁東門(遺構・復元物)
北辺建物(遺構・復元物)
外郭南門両端の築地塀(遺構・復元物)
外郭南門(遺構・復元物)
外濠(外郭南門前)(遺構・復元物)
政庁地区(遺構・復元物)
東櫓(遺構・復元物)
南大路(遺構・復元物)
外郭外溝橋(遺構・復元物)
東方官衛地区(遺構・復元物)
厨地区(遺構・復元物)
西櫓(遺構・復元物)
胆沢城説明板(碑・説明板)
東櫓碑(碑・説明板)
西櫓碑(碑・説明板)
胆沢城南大門碑(碑・説明板)
政庁跡説明碑&入り口(碑・説明板)
内城建物の跡(碑・説明板)
上館(周辺城郭)
鎮守府八幡宮(寺社・史跡)
奥州市埋蔵文化財調査センター(関連施設)
胆沢城跡歴史公園(関連施設)