徳丹城(とくたんじょう)
徳丹城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 岩手県紫波郡矢巾町西徳田
旧国名
- 陸中国
分類・構造
- 古代城柵
天守構造
- なし
築城主
- 文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)
築城年
- 弘仁2年(811)
主な改修者
- -
主な城主
- 文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)
廃城年
- -
遺構
- (発掘調査:建物跡、築地塀跡)
指定文化財
- 国史跡(徳丹城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
見前館(岩手県盛岡市)[3.8km]
高水寺城(岩手県紫波郡)[4.8km]
樋爪館(岩手県紫波郡)[8.2km]
盛岡城(岩手県盛岡市)[10.4km]
志波城(岩手県盛岡市)[10.4km]
柳田館(岩手県紫波郡)[10.6km]
厨川柵(岩手県盛岡市)[13.2km]
寺林城(岩手県花巻市)[15.6km]
雫石城(岩手県岩手郡)[18.6km]
大迫城(岩手県花巻市)[19.2km]
徳丹城の解説文
[引用元:Wikipedia「徳丹城」の項目]
徳丹城(とくたんじょう/とくたんのき)は、現在の岩手県紫波郡矢巾町徳田にあった日本の古代城柵。1969年(昭和44年)8月5日に国の史跡に指定されている。
概要
「徳丹城」は、もともとあった志波城(盛岡市)を、水害を理由に弘仁2年(811年)、文室綿麻呂の建議により、翌弘仁3年(812年)の3月頃約10キロメートル南方に移転・造営したものである。
沖積平野の微高地(低台地)に立地し、約350メートル四方の規模である。材木列で周囲を囲み、70メートル - 80メートルの間隔で櫓を建てていた。内部には官衙建物群があり、志波城の政治機能を引き継いだものと考えられる。
しかし志波城と比べて城郭の規模は縮小されており、築地も北側にしかない。さらに弘仁6年(815年)には配置されていた鎮兵500人が廃止され、正規軍が配置されなくなる。しかし徳丹城自体は9世紀半ばまで使用されていた形跡があり、律令国家に協力的な俘囚の軍が配置されていたと考えられている。
志波城の移転・徳丹城の造営・徳丹城の廃止の一連の流れは、この時期の律令国家の強硬政策の転換として、熊谷公男や鈴木拓也らが取り上げている。
2006年(平成18年)7月31日に徳丹城跡内の発掘調査により、井戸跡で国内初となる木製の冑(兜)が発見された[1]。古代の史料には木製冑の存在が記されており、その数も非常に多いと推定されていたものの、木材は腐食しやすく出土した例が無かった。この冑が出土した井戸は、9世紀(平安時代前半)に掘削・使用されたものだったが、冑そのものは、放射性炭素年代測定の結果、7世紀(古墳時代末〜飛鳥時代)に製作されたものと判明した。
また、1971年頃に徳田小学校旧校舎を取り壊した際、建築廃材(コンクリート片)がそのまま徳丹城跡に埋められ、史跡が385平方メートル(2007年7月26日現在判明分)に渡って損傷していたことも明らかになった。
敷地内に、矢巾町歴史民俗資料館、南部曲り家を併設し、史跡公園として現在整備が進められている。
名称
城名は、元来「トクタン」ではなく「トコタン」と呼ばれていたが、後に「徳丹」の漢字が当てられることによって「トクタン」として定着したと見られる。史跡の所在地である「徳田」も、この「徳丹」と同義であろう。 「トコタン」の語はアイヌ語に由来すると言う説があり、アイヌ語では「元の村」、「滅んだ村」の意味になるが、安易にアイヌ語に由来を求めて解釈することには賛否ある。
参考文献
- 【書籍】「徳丹城跡出土の木製胄・第65次発堀調査成果から」
- 池野恋漫画・挿絵 矢巾町歴史民俗資料館シナリオ・解説・編集・監修 『徳丹城造営千二百年記念図録 漫画で知る徳丹城の歴史 徳丹城の冒険 僕別将に会ったよ』 矢巾市教育委員会、2013年3月31日
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徳丹城の口コミ情報
2020年10月26日 FUKU
徳丹城
徳田神社が近くにこじんまりと鎮座してました。
2019年08月26日 尾張守ひろっちぃ
徳丹城
遺跡の間を国道が走り見事に半分に切り離されています。建物の跡や櫓の跡が説明板はありますが復元されてはいないため、想像するしかありませんが、壮大な遺跡であったことを思わせます。
敷地内に徳田小学校があり、また民家もあり、真ん中を国道に分断されてるため都市化の波が進んでいると思われます