鳥海柵(とのみのさく)
鳥海柵の基本情報
通称・別名
- 弥三郎館
所在地
- 岩手県胆沢郡金ヶ崎町西根字鳥海
旧国名
- 陸中国
分類・構造
- 古代城柵
天守構造
- なし
築城主
- 安倍宗任
築城年
- 平安時代後期
主な改修者
- -
主な城主
- 安倍氏
廃城年
- -
遺構
- (発掘調査:掘立柱建物跡、竪穴建物跡)
指定文化財
- 国史跡(鳥海柵跡)
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
胆沢城(岩手県奥州市)[2.2km]
水沢城(岩手県奥州市)[5.4km]
豊田館(岩手県奥州市)[6.7km]
岩崎城(岩手県北上市)[11.7km]
六日入城(岩手県奥州市)[12.1km]
黒岩城(岩手県北上市)[13.9km]
鹿合館(岩手県奥州市)[14.2km]
二子城(岩手県北上市)[15.9km]
野手崎城(岩手県奥州市)[16.3km]
人首城(岩手県奥州市)[17.9km]
鳥海柵の解説文
[引用元:Wikipedia「鳥海柵」の項目]
鳥海柵(とのみのさく)は、岩手県胆沢郡金ケ崎町西根縦街道南・原添下・鳥海・二ノ宮後にあった平安時代の豪族安倍氏の城柵(日本の城)。指定名称「鳥海柵跡」(とのみのさくあと)として、2013年(平成25年)10月17日に国の史跡に指定されている。
概要
鳥海柵跡は、北上川とその支流の胆沢川の合流点から西北西約2.5キロメートル地点で、胆沢川北岸の地点に位置する。胆沢川を挟んで約2キロメートルの地点には、胆沢城跡が所在する。
金ケ崎段丘の南扇端に立地し、低地との比高は約10メートルである。その台地は沢田川等の自然の沢で形成された3条の開析谷によって4つに分かれ、北から「縦街道南」「原添下」「鳥海」「二ノ宮後」という地名が残る。その規模は、南北約500メートル・東西約300メートルと推定される。別名・弥三郎館(やさぶろうたて)。
前九年の役は、永承6年(1051年)、陸奥守藤原登任と安倍頼良との武力衝突から始まる。合戦の際、安倍頼良(のちの頼時)は、源頼義の勧誘に応じた安倍富忠と戦い、流れ矢に当たり、この柵に帰り死んでいる。康平5年(1062年)9月11日、源氏・清原連合軍に攻められ落柵。衣川関の陥落後、安倍氏はこの柵に拠るが、戦わずしてさらに北の厨川柵へ走り、最後の抗戦をした。
厨川柵・嫗戸柵(ともに盛岡市付近)を陥落させたことにより終結するが、その後、後三年の役を経て、奥州の支配権は藤原清衡に始まる奥州藤原氏へと移ることとなる。11世紀前半〜中頃の安倍氏の時代は平泉を中心とする奥州藤原氏の時代の前史と位置づけられる。
1958年(昭和33年)から2012年(平成24年)まで19回に亘り発掘調査が行われた。1958年(昭和33年)から1965年(昭和40年)までの西根遺跡調査は、金ケ崎町教育委員会が岩手大学の協力を得て調査を実施し、50棟を超える竪穴建物跡が検出されて注目を集めた。
1972年(昭和47年)、1975年(昭和50年)は東北縦貫自動車道整備にともない岩手県教育委員会が発掘調査を実施し、櫓状建物跡や堀、塀跡などが検出された。なかでも堀は、台地を分割する北端の谷とその南側の谷との間を結ぶことが確認され、長さは145メートルに及ぶ。遺構の時期や巨大な堀の存在から、この遺跡が、伝承どおり鳥海柵跡である可能性が高まった。
1979年(昭和54年)は国道4号金ケ崎バイパスの整備にともない岩手県埋蔵文化財調査センターで調査を実施し、縦街道古墳群等が検出された。
これらの調査を踏まえ、2003年(平成15年)から2012年(平成24年)まで史跡としての保存を目指し、金ケ崎町教育委員会によって確認調査が行われ、四面廂付掘立柱建物跡や竪穴建物跡、堀などが検出された。原添下区域の南東端からは谷とをL字に結ぶ堀が検出され、方形に区画された台地からは東西方向の掘立柱建物が2棟検出された。堀からは11世紀中頃の土師器が大量に出土している。遺跡北部の縦街道南区域からは、東西16.50メートル、南北12.58メートルの四面廂付きの掘立柱建物が検出された。この建物は柱列が整然と並び、床束の柱穴と寸莎(すさ)痕跡のある焼土塊が出土から、土壁で床張りの建物だったと考えられる。北側の廂柱列から円形土製品や鉄製品、柱状高台の土器底部が、付近からは水晶玉が出土しており、建物に対する何らかの儀式が行なわれた可能性が考えられる。この建物の南側では桁行1間、梁行2間の掘立柱建物が近接して検出されており、建物の軸線がほぼ一致することから一体の建物であった可能性も考えられる。建物の時期は、出土した土師器から11世紀前半と考えられる。遺構の状況等から、この建物は政治・儀式に関わる中心的な建物と推定される。
江戸時代の地誌である『安永風土記』は、この地が鳥海柵跡であるという伝承を伝えており、大正時代には「鳥海柵見取り図」という絵図も調製されている。平安時代に書かれた『陸奥話記』には安倍氏が設けた12の柵が記されているが、その中心的な柵が「鳥海柵」である。
『吾妻鏡』などには「鳥海三郎宗任」とあることから、安倍頼良の三男宗任が柵主と考えられている。
安倍氏の勃興期から全盛期にかけての状況をよく伝えているのみならず、律令国家による支配から自立し、平泉で結実する奥州平泉文化の起源を知る上で重要である。また、史跡・大鳥井山遺跡や史跡・柳之御所遺跡などとともに、東北で成立、発展した居館のあり方や都市計画の展開を知る上でも重要であるとして、遺跡は2013年(平成25年) 10月に国の史跡に指定された。
交通
東北縦貫自動車道水沢ICから国道四号線を北へ車で約5分
- 東北本線金ケ崎駅から車で約10分
参考文献
- 平井聖ほか 1980『日本城郭大系』第2巻(青森・岩手・秋田)新人物往来社
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鳥海柵の口コミ情報
2024年09月01日 地下城主ひねもぐら渡島守
鳥海柵
昔の大河ドラマの舞台に行ってみたくて胆沢城とセットにして攻めました。手前に案内板と掘立て柱がある以外は芝生の広場です。
2023年11月09日 大夫黒
金ケ崎要害歴史館[鳥海柵 関連施設]
「鳥海柵」が、国指定史跡10周年を迎えることから、鳥海柵企画展が行われていました。(~R5.12.28まで)
写真入口向かって左手、ワンフロアの施設でしたが、綺麗に展示・管理されていて、職員の方も親切で、受付では関連情報やパンフレットを、展示会場では、金ケ崎の歴史について、丁寧に説明していただきました。
施設の外は、木々の中ある旧家の侍住宅や、武家町の名残がわかる狭く入り組んだ小路などがあり、ひっそりと大切に残されてきた当時の町並みが、とても素敵なところでした。(重要伝統的建造物群保存地区)
ちょっと足を伸ばすと、伊達殿ゆかりの「金ケ崎要害」があります。
2023年04月17日 気分爽快陸奥守
大林城[鳥海柵 周辺城郭]
丘陵部の内城は、柏山館、生城寺館、松本館から構成されていますが、道路を挟んだ松本館には散策路が設けられていませんでした。柏山館、生城寺館の西側には、深い横堀が存在し、両館の間は深く大きな堀切となっています。雨上がりのためか、堀切底は湿っており、南側の端には水が溜まっていました。秀吉の奥州仕置きの結果、廃城となったようですが規模の大きな城館だったことが伺えます。
①柏山館内部
②柏山館と生城寺館の間の堀切
③堀切は横堀となって柏山館南側に延びる
④生城寺館の横堀①
⑤生城寺館の横堀②
⑥大手道付近より生城寺館を望む
⑦井戸らしきもの
⑧大手道
2020年09月10日 稀偉主 愛魔尊
鳥海柵
ただの原っぱでした。町のHPによると「ガイドマップ必携」とあり金ケ崎要害歴史館などで入手出来るようですが、これらの入館施設は県内在住者のみとコロナ禍の為、制限されています。尚、HPでガイドマップはダウンロード出来ます。
2019年08月26日 尾張守ひろっちぃ
鳥海柵
国道と自動車道両方に挟まれており事故には注意です。
建物や櫓は復元されておらず説明板からありし日の姿を思い浮かべるしかありませんが、非常に大きい遺跡であったことをうかがわせます。『陸奥話記』でここを落とした源頼義に「なかなか見ることができなかった鳥海柵に入ることができた」と言わせたほどの価値はあります。