大森城(おおもりじょう)
大森城の基本情報
通称・別名
- 岩渕城、岩淵城
所在地
- 秋田県横手市大森町大森(大森公園)
旧国名
- 羽後国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 小野寺道高
築城年
- 文明年間(1469〜1487)
主な改修者
- -
主な城主
- 小野寺氏
廃城年
- 慶長6年(1601)
遺構
- 曲輪、帯曲輪
指定文化財
- -
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
吉田城(秋田県横手市)[9.0km]
四十二館(秋田県大仙市)[9.1km]
大鳥井柵(秋田県横手市)[11.4km]
六郷城(秋田県仙北郡)[12.0km]
横手城(秋田県横手市)[12.2km]
金沢柵(秋田県横手市)[12.6km]
玉米館(秋田県由利本荘市)[14.7km]
楢岡城(秋田県大仙市)[16.3km]
払田柵(秋田県大仙市)[16.6km]
岩崎城(秋田県湯沢市)[17.4km]
大森城の解説文
大森城の口コミ情報
2022年07月28日 【配龍】沼田乃豆腐屋
新城館[大森城 周辺城郭]
沼館城主であった大築地織部秀長の家臣・小出豊後の居館跡と伝えられる。天正14年(1586)の阿気野合戦で小野寺氏が戸沢氏に敗れ、戸沢盛安が一時居陣したが、小野寺氏の報復を恐れた盛安は、翌年に和睦を結んで人質を取り交わし、撤退したという。
単郭の館と推測されている。
現在、館跡は宅地となっており、西側に僅かな高低差が見られるのみである。
2021年10月04日 【配龍】沼田乃豆腐屋
兵部ヶ沢館[大森城 周辺城郭]
築城年代は中世と思われるが、来歴は一切不明。「兵部」という名前から、朝廷の組織である兵部省の官位を名乗った武将の居城だったのだろうか?また、兵部ヶ沢館から南に2kmほど離れた末館との関連性も不明である。
【秋田県遺跡地図情報】によると、現状は野球場(陸上競技場が隣接している)で、遺構は帯郭、旧式階段状とある。
また、縄張周辺には『兵部ヶ沢遺跡』がある。縄文時代の集落跡であり、土器や石器、竪穴住居跡も確認されている。
資料がほとんどなく、謎が多い城跡である。
①縄張にある野球場
②野球場に隣接する陸上競技場との間の地形。切岸跡か後世の造成によるものか?
③ここから薮漕ぎスタート。当然道など無い魔界への入口
④推定主郭跡。開けており、薮も低め。
⑤主郭より一段下から撮影。左側が高くなっている。
⑥こちらも右側に高低差が確認できる。
⑦主郭と東の郭の間の谷
⑧東の郭にも平場を確認。
2021年06月16日 【配龍】沼田乃豆腐屋
沼館城[大森城 周辺城郭]
現在この場所には蔵光院というお寺があり、境内がそのまま主郭部だったと考えられる。
この地は、平安時代後期に起こった『後三年合戦』において、清原家衡が源義家・清原清衡の軍勢を迎え撃ち勝利をおさめた古戦場『沼の柵』と推定されている。
時は過ぎ、戦国時代初頭には、稲庭城主小野寺氏が整備して『沼館城』を築いて移り、本拠地とした。信心深く、当時鵜ノ巣(現在の羽後町)にあった蔵光院をこの地に遷し、不動明王や観世音菩薩を信仰したといわれている。
①沼の柵本城址の説明坂
②沼の柵趾の石碑
③蔵光院の山門
④主郭北東角の櫓台跡
⑤主郭東側の土塁
⑥二ノ郭西側の土塁
⑦主郭部に接する二ノ郭南西部の土塁と堀跡
2021年06月15日 【配龍】沼田乃豆腐屋
末館[大森城 周辺城郭]
*周辺城郭のマークの辺りが登城口となる。主郭部は、ここより南に150mあたりにある。(主郭部が周辺城郭ポイントに僅か届かなかったため、登城口付近をマークさせていただいている。)
横手盆地中央部、雄物川に接した独立丘陵に築かれた丘城。縄張りは、頂部を加工した主郭を中心に、北郭、西郭を設けた構造となっている。各郭とも周囲に郭を設けて、防御力を高めている。
東側に横手盆地を眺望できる高所に位置しており、軍事的な性格をもつ城砦として築かれたと考えられる。
築城時期や館主は不明。「由利衆」に対する小野寺氏の番城、雄物川舟運を扼する性格があったものと考えられる。
現在、館跡は三吉山公園として整備されている。
①登城口にある標柱
②登城道から北郭を見上げる
③北郭から主郭に向かう虎口
④主郭に祀られている三吉神社
⑤主郭と西郭の間にある二重堀切
⑥北郭下の腰郭
⑦【参考】①の2週間前の標柱
⑧【参考】②の2週間前の登城道
☆毎年9月には三吉神社のお祭りがある。それに向けて城跡が整備されるとのこと。(上記①~⑥は8月下旬に撮影)
2012年11月13日 奥州王征夷大将軍毘沙門天乱丸
大森城
現在は大森公園として整備され本丸に大森神社
各曲輪群が良く確認できる
大曲から大森温泉の右手の橋を渡りすぐ大森神社の鳥居、さらに登り右側に大森公園駐車場有
遊歩道沿いに登ると大森神社付近一帯が本丸跡
2010年12月06日 楓橋太政大臣夜泊
大森城
小野寺氏の築いた山城で、太閤検地の際は、派遣された上杉氏の本拠地となりました。
現在は公園となっていて、本丸、二ノ丸の表示もあります。本丸からは、横手の穀倉地帯が眺められます。
成り立ち
大森城(おおもりじょう)は、鎌倉時代以来の名門武士の家系である小野寺(おのでら)氏が、文明年間(1469~1487年)に岩渕城(いわぶちじょう)を築城し、その後、小野寺康道(やすみち、字:大森五郎)が入場し、後に大森城と呼ばれるようになった。その後、小野寺氏の統治は慶長5年(1600)奥羽合戦の結果終わりを迎え、元和6年(1620年)頃に廃城となったと伝えられている。
大森城の城郭は規模が大きく、縄張は輪郭式に近く、本丸(標高120m、比高約80m、東西約130m、南北約75m)を中心として同心円的に、帯曲輪、二の丸、役人館、外曲輪が配置されている。
現状
大森城跡は、明治34年(1901)、旧大森町の町制施行を記念して、桜約千本が植えられて、公園として整備された。以後追植が行なわれ、大正から昭和初期にかけては約二千本の桜が咲きほこり、東北の吉野山と賞されるほど人々に親しまれる公園となった。本丸跡から一望できる雄勝・平鹿・仙北の眺望は四季の風情にすぐれ、新秋田三十景のひとつに数えられている。特記事項
天正18年(1590)に行われた太閤検地では、豊臣政権の中枢を担っていた五大老の一人である上杉景勝が軍勢を伴い大森城に入ったと伝えられている。検地が実施されたが、地元の反発が強まり、仙北一揆が勃発した。一揆が起きたのは9~10月で、六郷・増田・浅舞・鍋倉・山田・川連などの国人と百姓が立ち上がったが、仙北一揆は10月中旬までに鎮圧され、降参した者たちは出家させられた。