岩崎城(いわさきじょう)
岩崎城の基本情報
通称・別名
- 一名建ヶ城、(岩崎陣屋)
所在地
- 秋田県湯沢市岩崎(千年公園)
旧国名
- 羽後国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 岩崎(藤原)河内守
築城年
- 建長・文永年間(1249〜1275)
主な改修者
- -
主な城主
- 岩崎氏、原田氏(最上氏家臣)
廃城年
- 元和元年(1615)
遺構
- 曲輪、櫓台、土塁、横堀、井戸跡
指定文化財
- -
再建造物
- 碑
周辺の城
-
湯沢城(秋田県湯沢市)[5.3km]
吉田城(秋田県横手市)[9.5km]
西馬音内城(秋田県雄勝郡)[12.1km]
横手城(秋田県横手市)[13.6km]
稲庭城(秋田県湯沢市)[13.9km]
小野城(秋田県湯沢市)[14.4km]
大鳥井柵(秋田県横手市)[14.4km]
大森城(秋田県横手市)[17.4km]
金沢柵(秋田県横手市)[19.4km]
玉米館(秋田県由利本荘市)[22.0km]
岩崎城の解説文
[引用元:Wikipedia「岩崎城」の項目]
岩崎城(いわさきじょう)は、秋田県湯沢市(出羽国雄勝郡)にあった日本の城(平山城)。
概要
市の北部の皆瀬川左岸にある標高314メートルの天ヶ台山から北西に延びた丘の先端部に位置する平山城で、標高110メートル、比高差30メートルである。城の西側に羽州街道岩崎宿があり、羽州街道と皆瀬川の監視を目的とした湯沢城の支城であった。
歴史・沿革
鎌倉時代
建長・文永年間(1249年 - 1274年)藤原河内守が岩崎城を築城した。
戦国時代
城主の岩崎氏は小野寺氏の庶流で、湯沢城の北側を守備していた。
天正18年(1590年)奥州仕置で雄勝郡は最上氏の領土とされたが、横手城主小野寺義道はこれを認めずに雄勝郡の支配を継続した。これを聞いた山形城主最上義光は、文禄4年(1595年)、楯岡城主楯岡満茂が率いる軍勢を湯沢城に差し向けた。
湯沢城が落城して次の目標が岩崎城だと推測した岩崎義高は小野寺義道に援軍を要請したが、同日に今泉城、角間城、鍋倉城、植田城、新田目城が最上軍の攻撃にあったため岩崎城の方には手が回らず、ほとんど援軍が来なかった。
その後、前森城主原田大膳が岩崎城に夜襲をかけ、城主の岩崎義高は討死して落城した。その後、原田大膳が城主となった。以後、岩崎城は最上氏の城になった。
江戸時代
慶長7年(1602年)佐竹義宣の移封後は佐竹氏の城となった。
元和元年(1615年)一国一城令により廃城となった。
天明5年(1785年)菅江真澄が旅路の途中でこの城跡に立ち寄ったという。
慶応4年(1868年)佐竹義諶は拠点を椿台城から移して、岩崎城址南麓に岩崎藩陣屋を構えて岩崎藩を置いた。
明治時代
明治38年(1905年)9月14日本丸の東の堀に奥羽南線(現:JR奥羽本線)が開通。
現代
現在は千年公園として整備されており、無料駐車場も設けられている。南麓には岩崎藩陣屋の殿舎が移築されている。
構造
縄張
城郭の形式は平山城。城の北部を皆瀬川が流れ、天然の堀の役目を担っていた。現在は城全体が千年公園として整備されている。
本丸
本丸はL状の郭をしており、本丸の規模は東西約70m、南北約100mある。南側に1段、北側には3段の曲輪がある。現在は本丸の東側の堀にはJR奥羽本線が通る。
二の丸
二の丸は本丸の西側に位置し、長方形の郭をしている。規模は東西約70m、南北約100mある。東端に、櫓台(妙見神社)がある。
三の丸
三の丸は本丸の南側に位置している。規模は東西約60m、南北約70mある。三の丸には玉子井戸があり、集落が存在した。
玉子井戸
井戸の深さは約5mある。城主岩崎道高の娘である能恵姫が生まれて少し経った頃に何故か泣き続けるようになり、いろいろ手を尽くしたが効果がなかった。その数日後に乳母が庭で卵形の石を拾い、それが姫の落ちつかせたので守り石とされた。その守り石が置かれていることから(玉子井戸)と呼ばれるようになった。
現地情報
所在地
- 秋田県湯沢市岩崎字千歳(千年公園)
アクセス
- 鉄道
- JR奥羽本線 下湯沢駅より徒歩約19分
- JR奥羽本線 十文字駅より徒歩約30分
- 路線バス
- 羽後交通(湯沢・横手線、湯沢・秋田線《高速バス・秋田中央交通と共同運行》)
- 岩崎バス停より徒歩14分
参考文献
- 『探訪日本の城(1) 奥羽道』 昭和52年11月
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岩崎城の口コミ情報
2023年05月04日 【配龍】沼田乃豆腐屋
馬鞍城[岩崎城 周辺城郭]
醍醐字沢山馬鞍山、標高200m前後の山上一帯に築かれた山城。
尾根の先端部を削って構築され、全体として三区画に郭が配置され、馬蹄型を呈している。主郭は馬蹄型の角にあたる地域で最高位にあり、東西40m×南北40mの方形を呈し、西端中央付近に突出部をもつ、東縁と南縁に幅6m、高さ2mの土塁が築かれ、樋ノ口館主郭と似ている。
主郭の周りには一段の腰郭が回り、東側は背後山中に続く尾根に上幅4m底幅1m深さ5mの薬研堀に穿たれた空堀で遮断し、南側は急峻で深い沢に落ち込む。
①馬鞍城標柱
②大手道
③主郭と西郭の間の堀切
④西郭にある御嶽神社
⑤主郭にある大土塁
※何故、大手側(正面)ではなく、背後が山側にこれだけ大きな土塁を築いたのだろうか?
⑥大土塁の下の帯郭
⑦主郭から北郭を望む
⑧主郭東側下にある竪堀
2022年05月19日 【配龍】沼田乃豆腐屋
陣場[岩崎城 遺構・復元物]
今泉館から北西約700mにある『陣場』という地名。土塁や堀跡のような地形がある。往時のものだろうか。
2022年05月19日 【配龍】沼田乃豆腐屋
乱場[岩崎城 遺構・復元物]
今泉館から北西約1.5kmにある『乱場』という地名。かつての古戦場跡といわれている。堀跡のような地形がある。往時のものだろうか。
2021年06月18日 【配龍】沼田乃豆腐屋
増田城[岩崎城 周辺城郭]
現在、城跡は増田小学校となっている。
貞治年間(正平、1362-68)、三又城から小笠原義冬が移住して築城した。永享年間(1429-41)、光冬の代に仙北楢岡城へ移り、その後、土肥氏が入った後、最上氏が入った。天正18年頃(1590)、太閤検地の際、検地反対一揆軍が一時城を奪取した。慶長7年(1602)、佐竹義宣の命で今宮摂津守が城を請け取り、翌8年から元和2年(1616)まで佐竹義賢が居城した。その後、岩崎貞隆が増田1万石を与えられたが、元和8年、城は破却された。
北西端の城柵の一部と考えられる土塁上に、天然記念物『二本杉』がある。貞治2年(1363)、小笠原義冬が築城の際、城の堅固と武運長久を祈り愛姫と生牛を人柱の犠牲にしたといわれる。その霊を弔うために二本の杉の木を植えたものだと伝えられている。樹齢は650年以上ともいわれている。
①増田城説明板
②東入口の南側に残る土塁
③東入口の北側に残る土塁
④北東角の土塁上には遊具が建てられている
⑤北西端にある『二本杉』
⑥『二本杉』
⑦『土肥城址』の標柱
2021年05月26日 【配龍】沼田乃豆腐屋
飯館[岩崎城 周辺城郭]
飯館は東西約60m南北約60mの方形の中世城館で、昭和初期まで東側や南側に堀跡があったと云われる。「奥羽永慶軍記」に『・・が田子内城を攻めた時、飯楯・三股を案内役者とした』との記述もあり、「飯館」を名乗る城館主が居住していたと考えられる。
館跡の北側~西側は成瀬川に沿って崖となっています。また、館跡は周りより一段高くなっていることが分かります。
遺構はほとんど見当たりませんが、北西部に土塁の跡でしょうか?高まりが確認できます。
2021年05月23日 【配龍】沼田乃豆腐屋
今泉館[岩崎城 周辺城郭]
今泉館は、横手の小野寺氏の支城として『奥羽永慶軍記』に度々登場する。佐藤釆女守、菊池釆女正、今泉太郎左衛門(文禄5年〈1596〉討死)の名が伝えられ、その時の最上氏と小野寺氏の合戦の際に、最上勢の攻撃により炎上した。館の形跡を示す地形は残っていないが、『内堰』や『陣場』といった館のあったことを偲ばせる字名や俗称が残っている。
館跡は一段高くなっており、濠の跡と考えられるところは水田や用水路になっている。
2021年05月23日 【配龍】沼田乃豆腐屋
小鼓城[岩崎城 周辺城郭]
文亀元年植田の地に小鼓城があり、古四王神社は城主大石駿河守誉九郎藤原定景が祀ったものと伝えられ、社祠は北向き、御神像は天那鬼を踏まえた多聞天王(県指定有形文化財)であり、現在の奥殿は明治29年に上棟されたものである。
永禄3年の秋、植田小鼓城主大石誉九郎定景が皆瀬川のほとりを小鷹狩りして分けめぐり、葦原の雨露に濡れた木像を神か仏かと見奉れば、北に向きてましませり。
これはまさしく古四王権現の一柱と思召し、羽織に包みて従者に持たせ、小鼓城の隅は辰巳の方位に、古四王宮として守護奉りしが、今の多聞天王像である。
古四王宮は日々栄え、参詣道は賑わっていたが、文禄5年庄内の最上義光の軍に攻められて植田小鼓城は落城する。
この戦いで城に火がかけられ、古四王殿も危険となるや、多宝院の三世に当たる高勝坊が兵火の中に飛び込み、古四王尊像を命にかけて守り、小鼓城を逃れて里山に潜み時期を待ち、世の乱れも静まり、ほとぼりのさめた頃、植田に立ち帰り一紙半銭の寄付を集めて長い年月を重ねて再び古四王殿を建立したのが今の古四王神社である。(秋田叢書・記述抜粋)
水田の中にある小鼓城趾から南に400mのところに、古四王神社がある。
2021年05月23日 【配龍】沼田乃豆腐屋
古内城[岩崎城 周辺城郭]
古内城(別名:前田城)は大永年間(1521-27)、増田城主の土肥頼景が築城し、女婿の土肥勝頼を城主に据えたと伝わる。古内土肥氏は古内氏を称したと推測され、『奥羽永慶軍記』では、文禄4(1595)年の小野寺・最上軍による『岩崎城攻防戦』に古内多左衛門、太郎左衛門、百介の名が記されている。
2021年04月24日 【配龍】沼田乃豆腐屋
三又城[岩崎城 周辺城郭]
築城年代、築城主は定かではないが、南北朝時代に小笠原氏によって築城されたと伝わる。後に、稲庭城の支城となる。
三又神社境内が主郭部で所々土塁が残る。主郭北側には、東西にわたって空堀があり、中央には土橋が架かっている。その先が北郭となる。
空堀の西端には小さな祠が祀られており、地元の方によると『お堀さん』と呼ばれているらしい。また、三又神社の狛犬には、戊辰戦争時に受けた銃弾の痕が残っているとのことだったが、見付けることができなかった。
最近、北郭の杉林にアオサギが営巣しはじめ、近くのりんご園への糞害が危惧されているとのこと。
2019年06月01日 【配龍】沼田乃豆腐屋
岩崎城
建長・文永年間(1249年~1275年)頃に岩崎河内守によって築かれたと云われる。稲庭城主小野寺経道が一族の藤原河内守を岩崎の地に封じ、河内守が岩崎城を築いて岩崎氏を称した。