楯岡城(たておかじょう)
楯岡城の基本情報
通称・別名
- 舞鶴城
所在地
- 山形県村山市楯岡楯山
旧国名
- 羽前国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 前森今嶺
築城年
- 承元2年(1208)
主な改修者
- -
主な城主
- 前森氏、本城氏、楯岡氏、中山玄蕃、山野辺義忠、鮭延愛綱、多田氏
廃城年
- 元和8年(1622)
遺構
- 曲輪、石積、横堀(水堀)、横堀(空堀)、切岸、堀切
指定文化財
- -
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
長瀞城(山形県東根市)[3.5km]
東根城(山形県東根市)[5.0km]
富並城(山形県村山市)[7.6km]
谷地城(山形県西村山郡)[9.5km]
中堀館(山形県天童市)[10.9km]
延沢城(山形県尾花沢市)[11.1km]
天童城(山形県天童市)[15.1km]
次年子館(山形県北村山郡)[15.5km]
寒河江城(山形県寒河江市)[15.9km]
寺津城(山形県天童市)[17.3km]
楯岡城の解説文
[引用元:Wikipedia「楯岡城」の項目]
楯岡城(たておかじょう)は、山形県村山市楯岡楯にあった日本の城(中世の山城跡)。
歴史・沿革
- 承元2年(1208年)、前森氏の築城とされる。
- 弘長元年(1261年)に本城氏が入り、応永十三年(1406年)に最上満直の四男、楯岡満国が入った。のちに最上義光の弟楯岡光直が城主となるが、光直は義光の死後最上家家臣と跡目相続で対立し、それが原因で元和8年(1622年)に最上氏は改易となり、楯岡城も廃城となった。
- 現在は、一部が東沢公園として整備され、ハイキングコースとなっている。
歴代城主(現地説明看板による)
- 前森氏
- 初代 今嶺守
- 二代 泰嶽守
- 三代 泰院守
- 四代 下綱守
- 本城氏
- 初代 関山守
- 二代 涼山守
- 三代 泰国守
- 四代 風国守
- 五代 安国守
- 最上氏(楯岡氏)
- 初代 伊予守満国
- 二代 河内守満正
- 三代 和泉守満次
- 四代 豊後守満春
- 五代 長門守満康
- 六代 因幡守満英
- 七代 豊前守満茂
- 初代 多田甲斐守光直
- 二代 多田甲斐守義賢
構造
根小屋式山城である。
山城部分は、東西400メートル、南北200メートルに及ぶ西楯山と、東西200メートル、南北150メートルの中楯山からなり、周囲を断崖絶壁で囲まれた要害である。
根小屋となる城主居館は山の南側、現在村山市立楯岡小学校がある地域にあったらしい。
考古資料
遺構
山の頂上部とその周辺に郭が存在し、南側斜面に石垣が残っている。
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楯岡城の口コミ情報
2024年05月12日 駄目太政大臣政宗
楯岡城
県道29号から湯沢沼脇を東湯沢沼に向い、東湯沢城の手前の駐車場に車を置き、舗装路脇の遊歩道を展望台に向かうと10分位で到着です。道は除草されていて歩きやすかったです。
2023年04月08日 【】修理大夫こーへー
飯田楯[楯岡城 周辺城郭]
【歴史】
★楯主は飯田播磨で最上下郷八楯の一つだったが八楯を離れて最上義光に従ったとされる。後に飯田楯(山形市)に移りここは本(元)飯田になったとされる。
【遺構】
★階段状曲輪、三条堀切、虎口、切岸他
【写真】
①登城口、羽黒社鳥居が目印
②三条堀切
③三条堀切
④折れ坂虎口
⑤階段状曲輪群
⑥階段状曲輪群
⑦大堀切
⑧大堀切
【感想】
★最上義光の城郭と合戦、戦国山形の合戦と城で紹介されている山城。天正期前半期の最上の城の特徴とされる階段状曲輪群、登城口より数分で三条堀切を見る事が出来き必見です!
2021年09月21日 大和田弾正少弼義清
楯岡城
草などの生い茂る時期でしたが堀切や多重帯曲輪などが良く見えて見事でした。
2018年09月27日 カーネル
楯岡城
奥羽線 村山駅から
奥羽本線に平行して北上する。街中をぬけると正面に山が横たわり、一部凹んだ箇所を見ると櫓が見えます
隣正寺の隣にあるしろはと幼稚園に楯山の案内図があり、ここから登れます。西楯山幹線コースからのぼったのですか、いつの間のにか、七曲りコースで登っていました
山道は非常にキレイに整備されており、駅から30分で尾根に到着。ここは展望台になっています
北西の山頂へ向かうと、櫓跡地の石碑があります。幼稚園横の案内図だと反対側に下れそうなので、下ると下草が凄い。ところどころにテープや木の名前の札が木についているので、道だと判断し下る
段丘の曲輪が何段もありました。尾根を下ると稲荷神社コースと西楯山コースの分岐にでるので、西楯山コースへ向かうが道がわからず稲荷神社コースを目指す・・・がこちらもよくわからず、急斜面を下り稲荷神社に降りました。駅に戻って90分でした