山形城(やまがたじょう)

山形城の基本情報

通称・別名

霞城、霞ヶ城、吉字城

所在地

山形県山形市霞城町1(霞城公園)

旧国名

羽前国

分類・構造

輪郭式平城

天守構造

御三階櫓[3重3層/1622年築?/破却]

築城主

斯波兼頼

築城年

正平11年〔北朝〕/延文元年〔南朝〕(1356)

主な改修者

最上義光、鳥居忠政

主な城主

最上氏、鳥居氏、堀田氏、秋元氏

廃城年

明治4年(1871)

遺構

曲輪、石垣、横堀(空堀)、移築門、移築御殿

指定文化財

国史跡(山形城跡)

再建造物

二の丸東大手門、大手橋、石碑、説明板

周辺の城

平清水館(山形県山形市)[3.5km]
山家城(山形県山形市)[3.7km]
中野城(山形県山形市)[5.8km]
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日本100名城・続日本100名城スタンプ情報

番号・名称

10 山形城

設置場所

最上義光歴史館[地図
山形市郷土館受付窓口[地図
二の丸東大手門櫓内部[地図

山形城の解説文

山形城(やまがたじょう)は、山形県山形市霞城町にあった日本の城。別名は霞城(かじょう)、霞ヶ城(かすみがじょう)と呼ばれる。また、吉字城とも呼ばれた。国の史跡に指定され、日本100名城に選定されている。

概要
おおよその城郭構造の基礎は、最上義光の時代につくられ、鳥居忠政の時代に現在の形に整えられたものである。江戸時代には山形藩の政庁が置かれた。現在は、そのほとんどが失われ、二の丸跡が霞城公園として残されている。建造物では、大手南門が、市内の万松寺山門として移築され現存する。また、市内八日町宝光院の本堂は、御殿の建物を移築したものといわれている(県指定文化財)。

山形市は、2033年をめどに本丸全体の発掘調査を完了させるとともに、本丸北枡形の復元を完了することを計画している。2012年度末現在、本丸は一文字門及び御殿等の写真・図面などの史料が発見されていないことにより、大型建築物の復元のめどは立っていないが、本丸大手門の高麗門及び土塀は時代考証に基づき復元が行われている。2013年の発掘調査は本丸西側濠の遺構が中心となり、本丸濠南西部に関しては本丸土塁構築が出来る状態となっている。2013年の発掘調査では三の丸跡から奈良・平安時代のものと推定される竪穴住居跡6棟が発見され、城下町は古代から存在した集落を基盤として形成されたのではないかとみられている。

歴史・沿革
前史
山形城が立地するのは山形盆地南側、馬見ヶ崎川扇状地の中央やや北寄りに位置する。羽州街道と笹谷峠の合流点に当たり、鎌倉時代までは最上郡の中心として栄えた。

最上氏による築城
1356年(南朝:正平11年、北朝:延文元年)に斯波兼頼が羽州探題として山形に入部し、1357年(南朝:正平12年、北朝:延文2年)初期の山形城が築城される。以後、出羽斯波氏は最上氏を名乗り、最上氏本宗家の居城となった。最上義光が、慶長年間に城郭を拡大し三の丸を構築、家臣団の屋敷が置かれた。さらに城下町を整備し、慶長出羽合戦で得た出羽57万石の本城となる。

江戸時代
元和8年(1622年)最上氏が転封された後、鳥居忠政により改修がなされた。鳥居氏以後、たびたび藩主の変更があり、改修もなされたが、山形藩を治める藩主の石高も減少したため、江戸中期以降は城の維持が困難になる。幕末には本丸は更地で、御殿も二の丸に置かれ、三の丸の西半分は田畑となっていた。

近代
1870年(明治3年)に山形藩が転封となったとき、長く使われずにいた城郭は大破し、外壁・矢倉も風雪に耐えかねる状態であった。

城が売りに出されると、山形市が購入し、陸軍の駐屯地を誘致した。歩兵三十二連隊の兵営敷地となり、城内の櫓や御殿は破却され、本丸は埋め立てられた。三の丸の堀も埋め立てられ耕作地として利用された。...

山形城の口コミ情報

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