畑谷城(はたやじょう)

畑谷城の基本情報

通称・別名

所在地

山形県東村山郡山辺町畑谷

旧国名

羽前国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

不明

築城年

16世紀後期

主な改修者

主な城主

江口氏(最上氏家臣)

廃城年

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)

指定文化財

町史跡(畑谷城址)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

山野辺城(山形県東村山郡)[8.1km]
長谷堂城(山形県山形市)[8.9km]
荒砥城(山形県西置賜郡)[11.1km]
中野城(山形県山形市)[11.5km]
山形城(山形県山形市)[12.2km]
成沢城(山形県山形市)[13.2km]
上山城(山形県上山市)[13.4km]
小漆川城(山形県西村山郡)[13.6km]
中山城(山形県上山市)[14.7km]
左沢楯山城(山形県西村山郡)[14.8km]

畑谷城の解説文



畑谷城(はたやじょう)は、山形県東村山郡山辺町畑谷にあった戦国時代の日本の城(山城)。東黒森山の北西に位置する「館山」の山頂を本曲輪とし、各所に空堀を配した曲輪を築いていた。山辺町指定史跡。

概要 

畑谷城は、標高549メートルの館山山頂に位置する。山頂の本曲輪部分の四方は帯曲輪や空堀が巡らされ、また、本曲輪の西方100メートルの平坦部には三重堀、同じく東側には大規模な空堀と土塁が配置されている。

脇坂淡路守により最初に築城され、その後、最上氏の家臣・江口光清(江口道連)により拡張整備されたという[1]山形城の支城の一つであり、村山地方と置賜地方の境界付近に位置していることから、山形城主・最上氏にとっては、置賜地方を領した伊達氏や上杉氏に備える最前線の城(境目の城)であった。

慶長5年(1600年)の慶長出羽合戦において、上杉軍(総大将・直江兼続)が荒砥(山形県西置賜郡白鷹町)の狐越街道から約2万余の軍をひきいて山形城を目指し攻め上ってきた際の最上軍と上杉軍の最初の激戦地であり、2日間の攻防の末、城主・江口光清ほか500人が討ち取られて落城した。城の麓にある長松寺には江口光清の墓がある。

畑谷城の空堀は、上杉軍侵攻の知らせを受けてから早急に掘られたもので、全てが深く、西方の三重堀は全国でも珍しいものである。

1985年(昭和60年)12月9日に町の史跡に指定された。

参考文献 

  • 山辺町文化財保護審議会 2017「畑谷城址」『山辺町の文化財(https://www.town.yamanobe.yamagata.jp/uploaded/attachment/2658.pdf)』p.16 山辺町教育委員会

畑谷城の口コミ情報

2024年04月29日 篠沼大膳大夫義久
畑谷城



最上の守将江口光清が数百で籠城、奮戦討死した城。攻め方の直江兼続は2万で来襲。

2023年12月22日 RED副将軍
畑谷城



大規模な三重空堀が特徴的な慶長出羽合戦で江口光清が改修したとされる隠れた名城🏯

オススメ度 ★★★★★

築城年代、築城主は不詳。
最上義光の居城である山形城の支城とされ、1600年の上杉景勝との慶長出羽合戦においては、畑谷城は上杉領との境目に位置する最前線の要所の為、最上氏重臣の江口光清が入城しました。
上杉討伐のため徳川家康は会津へと北上していましたが、石田三成が挙兵したことにより引き返します。
これに乗じて上杉景勝は直江兼続を大将として最上領へ侵攻。最上義光は各支城を放棄して兵力集中を目指しましたが、畑谷城の江口光清は「敵を目前にして城を捨てたとは武士たるもの末代までの名折れ」として退却に応じずに上杉軍を迎撃。
援軍の到着には間に合わず畑谷城は落城し、江口光清と300の兵は全員討死したとされますが、上杉勢も1,000人近い死傷者が出たとされる激戦でした。
その後、長谷堂城へと戦いの舞台は移りましたが、関ヶ原で西軍を率いる石田三成が敗れたとの報を聞いた直江兼続は撤退を決断。最上伊達連合軍が追撃をしますが、撤退戦において直江兼続は畑谷城に留まり自ら殿をつとめて荒砥城へ退却したとされます。
その後、畑谷城は役目を終えて廃城となった様です。

見所
畑谷集落北の標高549mの館山に築かれており、山頂に主郭を置き周囲に帯郭を配したコンパクトな城郭です。
主郭西下にも二重の横堀がありますが、最大の見所は東側の谷間に築かれたコの字状の大空堀と、西の尾根に築かれた三重空堀です。深さ4m程度の鋭い空堀が良好に残存しています。

行き方は、南側麓の畑谷集落に案内所と駐車場があります。整備されており比高は約70mで気軽に散策することができます。

2023年10月27日 伊豆坊伊豆守
畑谷城

山形駅から車でほぼ30分、長谷堂城までもここからほぼ30分でした。

土に刻み込まれた痕跡は、埋まってはいるんでしょうが、当時もさもありなんと思わせてくれる遺構の残存度です。

一見の価値ありだと思います。

地元の方のパンフレットも詳しくて秀逸、管理も行き届いています、感謝。

2023年09月28日 みその対馬守
畑谷城



土塁、堀の大きさに驚きました‼️合戦の歴史を思いながら周ると感慨深いものがあります‼️

2022年10月10日 陸前守剛太犬@歴読
畑谷城



麓の長松寺を目標にすれば駐車場に辿り着きます。まず目を引くのが大きな堀。本丸にたどり着くまでにも多くの遺構が目を引きます。中でも目を引くのが奥まった場所にある二重堀。慶長出羽合戦の直前に掘られたと伝わっていますが、規模が大きく度肝を抜かれます。山形の中心部から車で30分ほど、県随一の城だと思います。

2022年09月13日 上田図書頭雪娘
畑谷城

空堀の一見の価値あり。必ず案内図をごへい宿で入手して下さい。

2022年05月19日 雲龍斎隠遁守全長
畑谷城



とても素晴らしい遺構が見れます。近世城郭派の方も山城にハマるきっかけになる城跡かと☝️

案内所(ごへえ宿)から直ぐに空堀が見えます。その先に竪堀や東部大空堀など見て、登り口から10分もしないで標高550mの主郭に着きます。そこを起点に周囲の空堀や最奥の西部二重空堀などが簡単に見学できます。途中には案内板やトラロープなどがあり迷うことはないです。多少の蜘蛛の巣は覚悟して下さい。
写真は🅿から見た横堀

2021年09月25日 三春田村氏
案内所[畑谷城  関連施設]

パンフレットがもらえます。他にお土産なども売っていました

2021年05月23日 兵部卿藤重真
畑谷城



遺構は良く残っています。ごへえ宿でパンフレットを入手することをオススメします。

2021年04月29日 摂津守いくpika
畑谷城



主郭に「旅人よ ゆきて伝えよ 最上のために 戦いたおれし者を」と刻まれたモニュメントがありましたので心して口コミを。

畑谷城主の江口五兵衛光清は最上義光からの信頼が厚く上杉との境目の重要地点である畑谷城を預かり、また光の一字を賜り光清「あききよ」と読むところに二人の深い信頼関係が伺われます。

江口光清は慶長出羽合戦で上杉軍二万を相手に武士の名折れと撤退せず畑谷城を枕に徹底抗戦し城兵300名(住民含めて500名)と共に討ち死に…
高橋紹運の岩屋城や鳥居元忠の伏見城にも負けず劣らずな壮絶エピソードがこの畑谷城にあった事を初めて知りました。

駐車場、案内板、リーフレットが置かれているごへえ宿の直ぐ近くの長松寺に江口光清の墓があります。

最上のために戦いたおれし者たちを偲びつつ、東部大空堀や西部二重空堀など先達の口コミ通り独創的で大変素晴らしい遺構が残る畑谷城を巡ってみてはいかがでしょうか。

2014年09月28日 三日左馬助落人
畑谷城

城内外を区切る遮断性があまく、東部の郭は城外の山から見下ろされる位置にあるなど一見防御性に疑問を感じる不思議な縄張りで、実際、慶長年間にここを攻めた上杉勢は東の山上から鉄砲を釣瓶射ちにしたそうです。

ただ、非常に独創的な遺構に驚かされます。
深く大規模な東部の濠と、主郭を越えて西側の三重濠は必見で、予め城跡の入口にある案内図をみて巡ると味わい深いように思います。

駐車場あり。入口の小屋にはガイドの方がおられることもあるので、案内を受けると更にわかりやすく巡れます。


2011年12月11日 三沢出羽守伊兵衛
畑谷城

長松寺の隣にごへえ宿という案内所と駐車場があります。ここで畑谷城のパンフレットをもらえます。すぐ東部大空濠と主郭への登り口になります。戦国期の遺構を良好に保つ三十の城址の一つに選ばれたとのこと。確かになかなかのものです。

畑谷城の周辺スポット情報

 主郭(遺構・復元物)

 虎口(遺構・復元物)

 二重横堀(遺構・復元物)

 畑谷城址碑(碑・説明板)

 畑谷合戦&江口光清碑(碑・説明板)

 畑谷城址説明板(碑・説明板)

 駐車場(駐車場)

 案内所(関連施設)

 城主の墓(関連施設)

 首洗い池(関連施設)

 登城口(その他)

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