中山城(なかやまじょう)
中山城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 山形県上山市中山
旧国名
- 羽前国
分類・構造
- 山城
天守構造
- 不明(天守台あり)
築城主
- 中山弥太郎
築城年
- 室町時代?
主な改修者
- -
主な城主
- 中山氏、蒲生郷可、横田氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、井戸、石垣(天守台)
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
上山城(山形県上山市)[6.6km]
長谷堂城(山形県山形市)[11.0km]
荒砥城(山形県西置賜郡)[12.0km]
上野館(山形県山形市)[12.8km]
成沢城(山形県山形市)[12.9km]
畑谷城(山形県東村山郡)[14.7km]
湯原館(宮城県刈田郡)[15.7km]
岩波館(山形県山形市)[16.2km]
山形城(山形県山形市)[17.6km]
小松城(山形県東置賜郡)[19.3km]
中山城の解説文
中山城の口コミ情報
2021年03月22日 【】修理大夫こーへー
岩部山館[中山城 周辺城郭]
【歴史】伊達政宗の築城技術が結集した要害で軍事に特化した中枢部を守る臨時の城、陣城と伝わる。
天正16年大崎氏をめぐる伊達政宗て最上義光の対立のなか「伊達天正日記」に登場する中山要害は出羽中山城ではなく岩部山館であり伊達氏が対最上氏に対する最大の防御拠点とされている。
【遺構】多彩な虎口、切岸、二重土塁、石積等
【難易度】岩部山三十三観音からのルートは尾根道の大岩にある鉄クサリにつかまりながらルートなので難易度高めです。
【写真】①岩部山三十三観音案内図 ②③二重土塁 ④⑤切岸・横堀
2019年12月07日 さすらい
連続虎口[中山城 遺構・復元物]
中山城の1番の見どころ!
三の曲輪からニの曲輪へ向かうには、5回も直角に曲がる必要があり、最も厳重なつくりと言っていいでしょう。
曲がるごとにワクワクしてきますよ!
ぜひ、この感覚を体感してください!
2019年04月29日 大隅守上
駐車場[中山城 駐車場]
駐車場の近くにある登城口
2019年03月20日 花水木満開征夷大将軍クララ姫
中山城
【ペット連れ宿泊情報】
南陽市赤湯温泉『丹泉ホテル』さん。老舗のホテルで夜は米沢牛を堪能できました。温泉は高温で天然露天風呂あり。朝食の目玉は、その場でつかれる『お餅』が食べ放題。醤油・大根おろし・あんこ・納豆など、好きな食べ方でどうぞ。(私はホテルの営業マンではありません)
2012年09月23日 KING甲斐守カズ
中山城
中世東北の山城では最大級というだけあり広い本曲輪跡と本曲輪の石垣はかなり魅力的でした。中世山城でここまで石垣が残ってるのは珍しいのではないでしょうか。アクセスは旧中山小学校からのルートがお勧めです。駐車城がないため中山地区公民館の駐車場お借りしました。
2011年12月10日 三沢出羽守伊兵衛
中山城
前森山と城跡の天守山の間を新たに出来た国道13号バイパスが通ります。城跡へは、従来の中山郵便局付近からのアプローチの他、バイパス沿いの駐車場に停めて歩道橋を渡る、またはバイパスからそのまま城跡方面への細い道へ進入と多彩。意外に広い曲輪がしっかり残っており、本曲輪には石垣を積んだ物見台もあります。なかなか楽しめました。味のある城跡碑がありました。物見台にはもっと立派な石碑もあります。
城の縄張りは、北西に楡沢から流れる川と、北東に横町沢を流れる横川に挟まれ、東方の正面に前森と称する小高い山があり、自然の要害を利用した防備の山に囲まれている城である。
形態は、基本思想といわれる堅固三段の曲輪からなる。即ち、本曲輪、二の曲輪、三の曲輪が設けられている。
主郭となる本曲輪は、登り口より南北に51メートル、東西38メートルと楕円形をした平坦な地である。その廻りには土塁が築かれ、東西には、主郭より4メートル高い位置に、正方形で平坦な物見台(天守台ともいう)が設けられており、西北面と北東面には見事な石積みがなされている。
二の曲輪は、本曲輪より4.9メートル低い位置に構築されており、南東から西南まで83メートル、北東から西南まで49メートルの平坦な地で、中山城では最大規模の曲輪である。
三の曲輪は、二の曲輪より17.9メートル低い位置に構築されており、東から西まで53メートル、北から南まで40メートルと、やや長方形に近い曲輪である。北側には本曲輪と同様に土塁が築かれており、その高さは2メートルから2.5メートル、幅も2メートルから最大8メートルもある。また三の曲輪から二の曲輪に入るところは急に狭い桝形になっており、5回も曲折して通らなければならないほど、見事な虎口となっている。
さらに、土塁の構築されている北側は急斜面で、真下は狭い曲輪があり、そこに湧水を利用した井戸が設けられている。この井戸を七色の清水と称し、城内の飲用水として使用されていた。昭和32年、中山小学校建設の時、井戸を調査している。この時、井戸の四方が木枠で組まれ、深さも180cmほどあったが、遺物品の出土はなかったという。
本曲輪と三の曲輪を挟む北東の谷間は湿地帯で薄暗く、六段階状の見事な帯曲輪がめぐらされているのも一つの特徴であると思われる。
現在、元中山小学校舎の敷地内は、馬出しであったが、近世に入ってからは馬場と変わり、御役陣屋が配置されてからは道場となり、その下のグラウンドも曲輪であったものを、そのまま利用しているが、いずれも、上杉領になってからの構築であると思われる。
総体的に見ると、最初の築城は伊達領を最上から防備するために築き、後、蒲生領に移り、上杉領になるまでの間、その領主によって構築の変更もあったものと考えられる。
情報提供:山形県教育委員会