中山城(なかやまじょう)
中山城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 山形県上山市中山
旧国名
- 羽前国
分類・構造
- 山城
天守構造
- 不明(天守台あり)
築城主
- 中山弥太郎
築城年
- 室町時代?
主な改修者
- -
主な城主
- 中山氏、蒲生郷可、横田氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、井戸、石垣(天守台)
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
上山城(山形県上山市)[6.6km]
長谷堂城(山形県山形市)[11.0km]
荒砥城(山形県西置賜郡)[12.0km]
上野館(山形県山形市)[12.8km]
成沢城(山形県山形市)[12.9km]
畑谷城(山形県東村山郡)[14.7km]
湯原館(宮城県刈田郡)[15.7km]
岩波館(山形県山形市)[16.2km]
山形城(山形県山形市)[17.6km]
小松城(山形県東置賜郡)[19.3km]
中山城の解説文
中山城の口コミ情報
2023年03月07日 RED副将軍
中山城
東北では数少ない中世の石垣遺構が残る城跡🏯
オススメ度 ★★★★★
築城年代は不詳。永禄・元亀年間(1558年〜1573年)に中山弥太郎により築かれたとされます。中山弥太郎は、米沢城の伊達輝宗の家臣であり、伊達輝宗の命を受け、敵対する最上氏との境目の城として砦を改修して中山城を築いたと云われます。1590年、豊臣秀吉による奥州仕置において、蒲生氏郷が会津に入封。中山城には蒲生氏重臣の蒲生郷可が入城しました。蒲生郷可により現在に残る石垣造りの城郭に改修されました。1598年、上杉景勝が会津に入封すると、中山城には上杉氏家臣の横田旨俊が入城。1600年、慶長出羽合戦においては中山城から上杉氏は最上氏に攻め込んだとされます。江戸時代になると中山城は破却されましたが、中腹の平場に米沢上杉藩の御役屋陣屋が構えられました。
見所
東北では珍しい中世の石垣遺構が残る城郭。東北というより関東でも珍しいので東日本で中世石垣は希少です。標高343.9mの天守山に築かれ、三郭、二郭、主郭が連なる連郭式でそれぞれの郭へは複雑な折れを伴う虎口で区切られ動線としても楽しめます。主郭には石垣造りの天守が鎮座しています。しかし、夏期に訪城したのですが登城コース以外は激ヤブ。写真は映えません💧雪深い地域でもありベストコンディションの時期は短いです。
元々は小学校があった敷地が広い駐車場となっています。往時は馬出しでもありました。
2022年12月05日 ファン掃部助トム治郎
中山城
上山温泉駅から上山城経由で徒歩1時30分です。物見台の石垣は大変見ごたえあります。列車に乗り遅れそうになったので物見台から中山駅まで全速力で下山。約10分。三郭から二郭への5回折れ曲がりをトップスピードで体感しました。
2022年04月25日 さすらいの征夷大将軍慶誾尼☆寧
中山城
アクセスは仙台空港からレンタカーで向かいました。途中の山形道で捕獲されると言うアクシデントに見舞われましたが凹むことなく進軍致しました。
4/13、先人様ご情報の中山地区公民館の駐車場へ向かいました。職員さんに『中山城を見に行きますので車を止めさせて下さい。』と言うとあたしの格好を見て質問を受けます
『鈴は持ってますか?』
『ラジオは持ってますか?』
『お一人ですか?』
『その格好で?』
に『はい1人です。何も持っていません。く、熊が出るのでしょうか?』と答えると『今年はまだ出ていませんが、イノシシが出ています。ちょっとお待ちくださいね』というと『館長〜今玄関に鈴持ってない。ラジオ持ってない。女性お一人で。軽装の旅行の格好をされてます。中山城に行くと来られていますがどうしますか?』と…堂々と、ハッキリと、筒抜けに、曇らず、大きな声で
き、聞こえてるんですが〜
鈴なし、ラジオなし、女一人、軽装の旅行者
鈴なし、ラジオなし、女一人、軽装の旅行者
鈴なし、ラジオなし、女一人、軽装の旅行者
玄関で待ってる間
このフレーズがあたしの中で反復され…
だ、ダメだ!!
丸腰女
こりゃ恥ずかしすぎるわ〜
『歌いながら行ってください。1時間して戻って来なかったら探しに行きますからね』と送り出して頂きました。
途中の蛇に悲鳴を上げながらもちんちろまいで戻って来た時には、あたしここまでして単騎で山城に行かなきゃならんの?って…話じゃねぇ?
たぶん行くけど…
鈴、ラジオ、複数人、山城用服装、ご確認を〜
2021年12月13日 ️
石切山城[中山城 周辺城郭]
積雪前のラストチャンス❓🤔に行って来ました謎の城郭❓石切山城☺️
現時点でググッてもヤフってもネスケ🤣ってもNEWSの記事と南陽市の遺跡分布調査報告書が出てくるぐらい🤔
しかも戦後まで石切場だったことから、竪堀ニワタマ論🐔🥚も脳裏に浮かぶ…🙃
それでも南陽市では平成27年に調査を実施し、「中世城館であった可能性が高い」と報告書に記しています🧐
上杉綱勝が鷹狩🦅の際に向かったとされる「御小屋場」として城館趾が再利用された可能性もあるようでますます謎🙁
さらに、昨秋と今春には米沢の研究者の方が南陽市が調査したエリア以外の場所で石組の井戸🚰新たな石垣🪨を発見しています😲
今回行ったのは南陽市の報告書PDF第34図に載ってるエリアのみですが、それでも謎の石垣🪨、謎にデカい堀凹、謎の水たまり🤣、謎の爪痕🧸😅が見られてなかなかのもんでした🤤
2021年03月22日 【】修理大夫こーへー
岩部山館[中山城 周辺城郭]
【歴史】伊達政宗の築城技術が結集した要害で軍事に特化した中枢部を守る臨時の城、陣城と伝わる。
天正16年大崎氏をめぐる伊達政宗て最上義光の対立のなか「伊達天正日記」に登場する中山要害は出羽中山城ではなく岩部山館であり伊達氏が対最上氏に対する最大の防御拠点とされている。
【遺構】多彩な虎口、切岸、二重土塁、石積等
【難易度】岩部山三十三観音からのルートは尾根道の大岩にある鉄クサリにつかまりながらルートなので難易度高めです。
【写真】①岩部山三十三観音案内図 ②③二重土塁 ④⑤切岸・横堀
2019年12月07日 さすらい
連続虎口[中山城 遺構・復元物]
中山城の1番の見どころ!
三の曲輪からニの曲輪へ向かうには、5回も直角に曲がる必要があり、最も厳重なつくりと言っていいでしょう。
曲がるごとにワクワクしてきますよ!
ぜひ、この感覚を体感してください!
2019年04月29日 大隅守上
駐車場[中山城 駐車場]
駐車場の近くにある登城口
2019年03月20日 ヒノヒカリ米征夷大将軍クララ姫
中山城
【ペット連れ宿泊情報】
南陽市赤湯温泉『丹泉ホテル』さん。老舗のホテルで夜は米沢牛を堪能できました。温泉は高温で天然露天風呂あり。朝食の目玉は、その場でつかれる『お餅』が食べ放題。醤油・大根おろし・あんこ・納豆など、好きな食べ方でどうぞ。(私はホテルの営業マンではありません)
2012年09月23日 KING甲斐守カズ
中山城
中世東北の山城では最大級というだけあり広い本曲輪跡と本曲輪の石垣はかなり魅力的でした。中世山城でここまで石垣が残ってるのは珍しいのではないでしょうか。アクセスは旧中山小学校からのルートがお勧めです。駐車城がないため中山地区公民館の駐車場お借りしました。
2011年12月10日 三沢出羽守伊兵衛
中山城
前森山と城跡の天守山の間を新たに出来た国道13号バイパスが通ります。城跡へは、従来の中山郵便局付近からのアプローチの他、バイパス沿いの駐車場に停めて歩道橋を渡る、またはバイパスからそのまま城跡方面への細い道へ進入と多彩。意外に広い曲輪がしっかり残っており、本曲輪には石垣を積んだ物見台もあります。なかなか楽しめました。味のある城跡碑がありました。物見台にはもっと立派な石碑もあります。
城の縄張りは、北西に楡沢から流れる川と、北東に横町沢を流れる横川に挟まれ、東方の正面に前森と称する小高い山があり、自然の要害を利用した防備の山に囲まれている城である。
形態は、基本思想といわれる堅固三段の曲輪からなる。即ち、本曲輪、二の曲輪、三の曲輪が設けられている。
主郭となる本曲輪は、登り口より南北に51メートル、東西38メートルと楕円形をした平坦な地である。その廻りには土塁が築かれ、東西には、主郭より4メートル高い位置に、正方形で平坦な物見台(天守台ともいう)が設けられており、西北面と北東面には見事な石積みがなされている。
二の曲輪は、本曲輪より4.9メートル低い位置に構築されており、南東から西南まで83メートル、北東から西南まで49メートルの平坦な地で、中山城では最大規模の曲輪である。
三の曲輪は、二の曲輪より17.9メートル低い位置に構築されており、東から西まで53メートル、北から南まで40メートルと、やや長方形に近い曲輪である。北側には本曲輪と同様に土塁が築かれており、その高さは2メートルから2.5メートル、幅も2メートルから最大8メートルもある。また三の曲輪から二の曲輪に入るところは急に狭い桝形になっており、5回も曲折して通らなければならないほど、見事な虎口となっている。
さらに、土塁の構築されている北側は急斜面で、真下は狭い曲輪があり、そこに湧水を利用した井戸が設けられている。この井戸を七色の清水と称し、城内の飲用水として使用されていた。昭和32年、中山小学校建設の時、井戸を調査している。この時、井戸の四方が木枠で組まれ、深さも180cmほどあったが、遺物品の出土はなかったという。
本曲輪と三の曲輪を挟む北東の谷間は湿地帯で薄暗く、六段階状の見事な帯曲輪がめぐらされているのも一つの特徴であると思われる。
現在、元中山小学校舎の敷地内は、馬出しであったが、近世に入ってからは馬場と変わり、御役陣屋が配置されてからは道場となり、その下のグラウンドも曲輪であったものを、そのまま利用しているが、いずれも、上杉領になってからの構築であると思われる。
総体的に見ると、最初の築城は伊達領を最上から防備するために築き、後、蒲生領に移り、上杉領になるまでの間、その領主によって構築の変更もあったものと考えられる。