湯原館(ゆはらだて)

湯原館の基本情報

通称・別名

湯原城、湯ノ原館

所在地

宮城県刈田郡七ヶ宿町字町裏

旧国名

磐城国

分類・構造

連郭式山城

天守構造

築城主

不明

築城年

戦国時代

主な改修者

主な城主

横尾氏、石川氏

廃城年

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)、移築門

指定文化財

再建造物

説明板

周辺の城

中山城(山形県上山市)[15.7km]
上山城(山形県上山市)[16.4km]
上野館(山形県山形市)[17.8km]
成沢城(山形県山形市)[21.0km]
米沢城(山形県米沢市)[22.4km]
長谷堂城(山形県山形市)[22.4km]
大鳥城(福島県福島市)[22.8km]
岩波館(山形県山形市)[23.0km]
小松城(山形県東置賜郡)[24.1km]
桑折西山城(福島県伊達郡)[24.2km]

湯原館の口コミ情報

2019年09月26日 野呂利左衛門督休三
湯原館

延宝年間(1673-1680)に仙台藩から幕府に提出された「仙台領古城書上」には「湯原城」と記載されているとのこと。また横尾氏が住んでいたことが記されてもいますが、これの30年ほど前の正保元(1644)年に、湯原は伊達家一門筆頭の角田石川家に与えられ、城には同家から派遣された家臣が詰めていました。その石川家家臣の家から「刈田郡湯原城絵図」が見つかっていますが、絵図を北を上にして見たときの左上に、慶長五(1600)年に伊達政宗が横尾元篤に再建を命じて、二年後の慶長七年に竣工した際に「勝乗館(しょうじょうたて)」の名前を与えたと記されているとのことです。

城のある地域は御館(おだて)と呼ばれているそうです。
(参考:湯原小学校跡[二の丸跡]の説明板)

2019年09月25日 野呂利左衛門督休三
東光寺[湯原館  寺社・史跡]



寺の前の由緒書の看板だと九世政宗(法名は東光寺殿儀山円孝大居士)を開基に、九皐宥鶴が開いたとされます。元は米沢の東寺町にあったのが、湯原駅口玉木原を経て、慶長七(1602)年にここに遷されたとされます。

本殿は昭和二十八(1953)年に火災で失われています。薬医門、切妻造、茅葺き仕立ての山門は江戸時代中期に建てられたもので、町の指定文化財になっています。
伊達政宗(九代)の墓は本堂の左手の墓石群の中に正室の輪王寺殿の墓と並んでいます。

伊達政宗(九代)は出羽の長井郡や置賜郡への進出を進めました。鎌倉公方の南奥政策と対立し、討伐も受けています。
輪王寺殿は足利義満の母の妹です。
伊達政宗(九代)は応永十二(1405)年に、輪王寺殿は嘉吉二(1442)年に亡くなったとされています。

ちなみに九皐宥鶴は山形県川西町と宮城県東和町の東陽寺によれば、同寺を応仁二(1468)年に再興したとされます。これからすると米沢での東光寺は再興か(九代政宗時代は米沢でなく高畠が出羽での本拠)、開基を政宗の名義にして開いた(そうすると実際の開基は輪王寺殿か息子の氏宗あたり)のでしょうか?

蛇足ですが2つの東陽寺は元々は一つの寺です。伊達家重臣の原田家の菩提寺として川西町に創建され、伊達家転封により原田家と共に船岡にも建てられ、原田家が伊達騒動で取潰されると(つまり原田宗時や原田甲斐の原田家)、船岡の領主になった柴田家の故地の米山(東和町の方の現在地)に移されています。

[参考]
由緒書説明板
七ヶ宿町観光サイト
・東光寺
・東光寺山門
宮城県の町並みと歴史建築「七ヶ宿町: 東光寺」
曹洞宗宮城県宗務所十四教区「亀松山東陽寺」
全国観るなび「山形県川西町 東陽寺」
(由緒書以外はインターネット)

2019年09月23日 野呂利左衛門督休三
本陣跡[湯原館  碑・説明板]



羽州街道は東北地方の日本海側の諸家が参勤交代に用いました。この本陣は湯原宿の本陣跡で、一度に百人ほど泊まることができたそうです。
ここから東に二つ目の宿場の滑津宿にも本陣がありましたが、そちらは二百人泊まれたそうです。滑津宿の方は、見学はできませんが安藤家本陣(町指定文化財)として残っています。

ここの標注の説明では出羽の十三大名とありますが、出羽は十一の大名が通行していました(上山藩、山形藩、天童藩、長瀞藩、新庄藩、庄内藩、出羽松山藩、矢島藩、本荘藩、亀田藩、久保田藩)。米沢藩のみは板谷峠(山形と福島の県境)を越えて奥州街道に入っていました。陸奥の大名で弘前藩と黒石藩がこちらを通っていました。
滑津宿とその東隣の関宿には久保田藩(秋田藩)の佐竹家に纏わる伝説のある地蔵があります。

この辺りの旧宿場の家の前には写真のような屋号を記した札が掲げられています。

[参考]
標柱の説明
Wikipedia「羽州街道」

2019年09月22日 野呂利左衛門督休三
東館の枡形虎口[湯原館  遺構・復元物]



登り口から入ると、右手に深く落ちた斜面(切岸?)や左手に上館や東館の切岸、両郭を隔てる堀を見ながらほぼ道なりに通路(帯曲輪?)を進むことになります。
途中、両郭に上がれる場所がありますが、無視して進んで行くと、やがて左手に通路が上がります。上面が見えるようになると、前方に土橋があるように見えますが、上がりきってみると土橋と思えた物の向こう側はまっ平らです。何だろうこの堀は?と思ってその続く先を見ると土塁を切っています。変な堀だなと思いながら土塁の上から見ると、切れ目から入って左に曲がって上がる構造が見てとれ、枡形虎口とわかりました。土橋と思えたのは枡形の法面(のりめん)でした。
この枡形は2019年に発掘調査が行われています。その結果、この枡形の土塁は
①地山の上に土塁が盛られる
②土塁が断ち切られる
③断ち切られた所が埋められまた一つの土塁になる
の3つの時期があることが判っています(それぞれの具体的年代については不明)。

2019年09月22日 野呂利左衛門督休三
土塁の交差点[湯原館  遺構・復元物]



上館と東館は完全には分断されていません。堀は北側の堀に達しておらずその部分が土塁になっています。この北側の土塁に上館の西側の土塁が繋がっています。

2019年09月19日 野呂利左衛門督休三
上館・廊下橋の虎口?[湯原館  遺構・復元物]



刈田郡湯原城絵図では上館と東館の堀に架かる橋に「廊下橋」と読める記載があります。写真中央の土塁切れ目が、堀の西側の郭(上館?)の虎口か。絵図でも土塁が切れています。

2019年09月19日 野呂利左衛門督休三
堀切?横堀?[湯原館  遺構・復元物]



国土地理院の地図では尾根が続いているように思えますが、ここでバッサリと断ち切られています。さらに谷方向、東館の枡形虎口の方へと堀が延びています。城内側には土塁が築かれています。
写真では判りにくいですが、土塁上から見るとかなり深いです。

2019年09月19日 野呂利左衛門督休三
堀[湯原館  遺構・復元物]



上館と東館を区切る堀です。堀底を歩くにはここから進入するのが楽か。
現況でも深さは3m以上はあると思います。

2019年09月19日 野呂利左衛門督休三
登り口[湯原館  碑・説明板]



「街道HOSTELおたて」(旧湯原小学校)の裏手で、説明板と足場板が目印です。ここから上館と東館に登れますが、お散歩程度の距離です。
登ると早速虎口がお出迎えしてくれます。

2019年09月18日 野呂利左衛門督休三
二の丸跡[湯原館  遺構・復元物]



湯原小学校が置かれていましたが、廃校後はその建物を改修して「街道HOSTELおたて」が2018年より営業しています。宿泊以外にもランチ(11:30-13:30)、日帰り入浴(人工温泉)もやっているそうです。

2019年09月18日 野呂利左衛門督休三
二の丸跡[湯原館  遺構・復元物]



二の丸も周囲からは高台になっています。
刈田郡湯原城絵図では真ん中辺りに建物、南側に折れが連続する土塁、さらにその南に三つの三日月堀で構成された丸馬出が描かれています。現在は地表面に丸馬出は見られず、土塁の折れも全体的に緩くなってしまっています。
また同絵図では西側に2箇所、南側に2箇所、東側に1箇所の虎口が描かれていますが、西側と南側は通路が曲げられているものの虎口自体は平入りの形態です。一方で東側は平入りですが、二重の枡形に描かれています。東側が大手にあたり、今もここに入るのは東側がメインです。なお二重枡形も今は地表面には見えません。
マーカーを置いたところに説明板があります。

2019年09月17日 野呂利左衛門督休三
湯原館

アプリのマーカーだと登り口から400m程先、比高差で100m強程登らなくてはならないことになりますが、実際にはすぐの場所です。

【構造】
城は大きくは上館、東館、二の丸の三区画(名称は「安永風土記[湯原村風土記御用書出]」による)に分けることができます。城の起源は具体的には不明ですが、2016年の発掘調査から15世紀末には築城したと見られています。現況は江戸時代に手が加えられた可能性があるそうです(慶長五[1600]年に伊達政宗の命で茂庭綱元が地元民の協力を得て攻め落としている)。少なくとも2019年に行われた東館の虎口の調査では三度の普請があったとみられる痕跡が見つかっています。
上館西側の虎口は平入りに近いですが、東館の虎口は枡形虎口を形成しています。
二の丸(旧湯原小学校)には古絵図では連続した折りのある土塁が描かれています。今も緩くはなっていますが形跡を見ることができます。角田要害の絵図にも同様の折りが描かれていますが、湯原館はその角田要害の主の石川氏の領地になっています。
また古絵図では三つの三日月堀で形成された丸馬出が二の丸南側の2つの虎口を守っている様子や、二の丸の東側虎口(大手)が二重枡形に描かれています(両遺構とも少なくとも現在は地表面には見えない)。
古絵図では上館と東館を結ぶ役割の橋が描かれています。名前が記載されていますが「廊下橋」とも読めるとか。
山頂へと続く登り調子の尾根を断ち切った北側の堀も圧巻です。

【位置と周辺】
湯原城は羽州街道を扼する位置にあります。大手のそばには湯原宿の本陣がありました。この本陣は出羽の大名が利用していました。また城の近くの東光寺は米沢から移されたそうで伊達政宗夫妻の墓があります(独眼竜ではなく、その九代前の中興の祖の方の)。白石川の対岸には貝吹山城跡があるそうです。
ちなみにこの西の二井宿峠を越えた山形県の高畠町にも貝吹山があるとのことで、そこにも城跡があるそうです。また麓には二井宿があり、屋代川を越えて志田館跡と、湯原に似た構成になっているそうです。


2019年09月17日 野呂利左衛門督休三
湯原館

【七ヶ宿町と羽州街道】
七ヶ宿町は、羽州街道の7つの宿場があったことに因んだ町名です。同街道は福島県の桑折と山形県の上山を結ぶ街道です。江戸時代は七ヶ宿町の湯原を出たところで北に折れて金山峠で県境越えますが、元々は今の国道113号と同じで二井宿峠で越えていたそうです。山形との繋がりが深く、40年ほど前までは高畠への越境通学が普通だったそうで、同方面のバスも走っていたそうです(現在は原則県内通学に定められている)。

街道沿いには往来の歴史を伝えるものもあります。滑津宿では、本陣の安藤家の建物が現在も残っています(ただし非公開)。近くに滑津大滝がありますが、その対岸の川縁の尾根に古屋館跡があります。古屋館跡は単純に堀で区切った2つの郭の連立式ですが、Ⅰ郭の虎口は枡形虎口になっているそうです。
滑津にある振袖地蔵とその東の関にある関の地蔵は秋田の佐竹家にまつわる言い伝えがあります。
東の関宿では渡部家が本陣でした。建物は残っていませんが庭園が残っています。

七ヶ宿の各宿には上戸沢と下戸沢以外では必ず近くに館跡が一つあります。
西の湯原から見てみると次の通り。

湯原:湯原館、貝吹山城
峠田:南館
滑津:古屋館
関:八幡館
渡瀬:阿里谷館
(渡瀬は七ヶ宿ダムにより水没。阿里谷館はダム湖の北にある)

このうち湯原は2つあり、先述の二井宿峠を挟んだ二井宿も2つあるのは興味深いところです。
湯原の住民は普段の生業を営みつつ城の役にも就いていたそうです。
ちなみに七ヶ宿町の稲子という現在、住民が一人の地域がありますが、伊達家の足軽が国境の番を命じられたのが始まりだそうです(こちらは江戸時代に天領境界のですが。何でも境界を争ったらしい)。


2019年09月17日 野呂利左衛門督休三
湯原館

【羽州街道の中世】
伊達家は福島の信夫地方を源頼朝に与えられたことが始まりとされます。山形県の置賜郡(米沢とかの方)に進出したのは南北朝時代に入ってからですが、板屋峠からではなく、二井宿峠を越えて北の高畠の方から侵攻したようです。置賜制圧は伊達家領地の縦深をとるだけでなく、京都との連絡でも重要な意味を持ちました(当時は日本海ルートの方が盛んだったのと、東山道を押さえる鎌倉公方と対立していた)。
福島と米沢を結ぶルートは今でこそ板屋峠が当たり前ですが(国道232号や東北新幹線・奥羽本線)、板屋峠の方が比高差があったため、独眼竜政宗の頃になるまでは二井宿峠越えの方がメインでした。
豊臣秀吉の奥州仕置で置賜を、葛西大崎一揆後の仕置で刈田郡(白石市、七ヶ宿町、蔵王町)などが政宗の手を離れ蒲生氏郷に与えられます。蒲生氏郷没後は上杉景勝が治めます。慶長五(1600)年の戦乱の後、刈田郡は伊達政宗の手に戻りますが、置賜郡は上杉景勝の手に残ります。湯原館からは繋ぎの城の役割は失われ、境目の城のみの役割に変化しています。


2019年09月17日 野呂利左衛門督休三
湯原館

【交通など】
マイカーで行くのがお薦めです。
公共交通では白石蔵王駅または白石駅から町営バスの七ヶ宿白石線(水色の車体塗装に「しちがしゅく」の文字)で、なないろひろばまで。そこから千浦線に乗り換えて湯原方面へ。千浦線は乗り降りフリーですので「街道ホステルおたて」か東光寺で降りたいと言えばどうにかなると思います。
七ヶ宿白石線は平日は5本ありますが、休日は3本のみで、帰りも平日より一時間半早く16時半頃に出るのが最後です。千浦線は休日は行きが4本、帰りが5本ですが、帰りは16時が最後です(平日は17時)。
帰りの乗り継ぎはスムーズですが休日の行きの乗り継ぎは一時間強待ちになります。乗り継ぎバス停そばにイートインできるファミマがあるので、そこで早めのお昼にする手もあります(私は町役場で降りて、周辺の寺社の説明板見ながら向かいました)。
詳しい時刻は七ヶ宿町のホームページ参照(「七ヶ宿バス」検索で検索結果トップで出ます)。

宿泊は関の方に民宿もありますが、湯原館跡の二の丸にあった湯原小学校の校舎を改修した「街道HOSTELおたて」(2018年より営業)もあります。ここでも11時半から13時半までランチをやっているそうです(「街道HOSTELおたて」と七ヶ宿町観光サイト参照のこと)。

【参考文献】
七ヶ宿町・上廣歴史文化フォーラム「戦国時代における刈田郡湯原城の役割」資料
(2019年9月14日開催。「七ヶ宿街道の成立と湯原城」菅野正道、「発掘が語る湯原城跡」吉井宏)
羽州街道交流会「羽州街道紀行 桑折宿から上山宿」
湯原館跡説明板(登り口、旧湯原小学校)
関の地蔵説明板
湯原城と伊達往還道略図(水と歴史の館平成29年度企画展「湯原城と伊達往還道」パネル)
※Wikipedia「稲子」
※七ヶ宿町「町営バス」
※七ヶ宿町観光サイト「街道HOSTELおたて」
※街道HOSTELおたて
(※はインターネット)

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