成沢城(なりさわじょう)
成沢城の基本情報
通称・別名
- 氏家館、鳴沢館
所在地
- 山形県山形市蔵王成沢(成沢城跡公園)
旧国名
- 羽前国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 斯波兼義
築城年
- 永徳元年〔南朝〕/弘和元年〔北朝〕(1381)
主な改修者
- -
主な城主
- 成沢氏、坂紀伊守、氏家尾張守、安食大和守、寺内薩摩守
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- -
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
岩波館(山形県山形市)[3.4km]
上野館(山形県山形市)[3.9km]
長谷堂城(山形県山形市)[4.5km]
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中山城(山形県上山市)[12.9km]
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成沢城の解説文
成沢城の口コミ情報
2024年09月30日 駄目太政大臣政宗
成沢城
駐車場に車を停めて登城口を登ること5分位で主郭到着。除草されたばかりだった様で、藪漕ぎにならずに回れました。
2021年03月16日 大場掃部助まーP
飯田館[成沢城 周辺城郭]
入り口に城趾標柱があります。
主郭は畑地になっています。
城の範囲は南北で580メートル、東西で350メートルに及ぶ。城は斯波兼頼の孫の兼義が、成沢城より北西にある泉出館から当地に移った時の築城という。天正6(1587)年の最上義光と、伊達輝宗の応援を受けた上山満兼とが柏木山で合戦した時、山形防衛の前線基地となったのが、当城であった。
慶長5年(1600)の時の城主は、坂紀伊守。その後、氏家尾張守・安食大和守・寺内薩摩守などが城主となった。
城は、2つの中心点を持つ一城別郭型的な様相を有している。2つの曲輪がそれぞれ本丸、二の丸にあたる。両者は尾根道で連絡されており、土塁の残存も確認されている。2つの曲輪がともにその下に幾重もの曲輪を配しているが、畑やブドウ園造成のために削平されている。
さらに城の東南にも虎口がある。この地点は横矢が入る虎口であり、「大手口」という伝承が地元にあり、虎口の残存状況もよい。また曲輪に城の東北部から入る道があり、途中の折りでは横矢が入るようになっている。また、大きな堀切で尾根筋を断ち切っている。現在は、その堀切を拡張して道路が通っている。また、この堀切の東方に連なる高日向山の方から樋を用いて城内に飲料水を引き込んだという伝えもあって、堀切の付近は「樋下」と称されている。
ひとつの曲輪には秋田藩佐竹氏の寄進による馬頭観音が、またもうひとつの曲輪には秋葉社が建つ。秋葉社の真下には八幡神社が建ち、県文化財の平安末期の石鳥居が佇立している。八幡神社は成沢城のある山上に鎮座しており、築城とともに現在地に下したと言われている。成沢城の築かれた館山全体が龍山信仰の登拝道のひとつ成沢口に位置していた。
成沢城の西側真下を鴨沢川が流れ、天然の内堀を形成しており、内堀と館山との間の空間に城主の居館や家臣団屋敷が拡がっていた。また、鳴沢川に沿って道が走り、都市的な場が形成されていたことが、馬場宿・裏宿・町裏の小字名からも言える。現在の常善寺門前には六面石幢がたっている。このような都市的空間の西側を囲む形で外堀が巡っていた。成沢城は、宿町を包み込んだ宿城として総構えの構造を有していた。