中里館(なかざとだて)
中里館の基本情報
通称・別名
- 二本堂館
所在地
- 山形県山形市中里字二本堂
旧国名
- 羽前国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 不明
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 安食氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、帯曲輪、腰曲輪、土塁、堀切
指定文化財
- -
再建造物
- -
周辺の城
-
山家城(山形県山形市)[3.8km]
天童城(山形県天童市)[6.2km]
高擶城(山形県天童市)[6.3km]
山形城(山形県山形市)[7.4km]
中野城(山形県山形市)[7.9km]
寺津城(山形県天童市)[8.4km]
岩波館(山形県山形市)[9.2km]
中堀館(山形県天童市)[10.8km]
山野辺城(山形県東村山郡)[11.3km]
成沢城(山形県山形市)[12.2km]
中里館の解説文
中里館の口コミ情報
2016年02月20日 カーネル
中里館
仙山線高瀬駅から
駅の南東にある高瀬小学校の西にある川を渡ると、目の前に谷筋がありその麓に登山口があります
ネットで中里館で調べても登山口は解りませんでしたが、猪鼻山で調べると何件か出てきます
雪で道が分からず、本丸の南のピークの南の鞍部を目指します。高度があがると雪がなくなり木の階段があり、あってたんだと安心
でも道が明瞭でなく、結局行きと帰りで違う獣道を使ってしまいました
鞍部にでると、大きな平場。ここまで大きな平場はあまり見たことがありません。凄かった
ここから北に登り返すと、小さいけど明瞭な曲輪が連続します
ひとつ目のピークを越えて先に進むと、本丸に着きます。小さな社があり雰囲気がよかったです
ここは、本アプリの説明が充実してるので、読みながら歩いたら非常に参考になりました
難敵は・・・高瀬駅は仙山線の快速が停まらないので、歩きは計画が立てづらいです
往復で2時間弱。夏ならもっと早いかも??
歩き計画されている方の時間目安になれば幸いです
2013年05月05日 山野辺左京亮義忠
中里館
奥羽山系をはさんで伊達領と対峙する中里館は、最上領の境目の城として重要な位置を占めていたと考えられる。
〜山形県中世城館跡調査報告書より抜粋〜
2012年01月09日 山野辺左京亮義忠
中里館
山頂に舘が在ったらしい
北側山麓にある二本堂集落からの比高は、約180メートルを測り、平野部から望むと円錐形の急峻な山様を呈している。山全体が雑木林で覆われ、遺構の遺存状況はかなり良好で、奥羽山系ぞいに点在する山城では、かなり規模の大きい山城である。
館跡は、猪鼻山の山頂部に主郭と考えられる曲輪があり、南へ続く尾根筋にそって小規模な腰曲輪群が鱗片状に配置されている。この曲輪は約50x30メートル程の大きさで、主郭部を中心に帯曲輪、腰曲輪群が段々状に幾重にも配置され、西側山麓部から登ってきた部分に虎口があり、搦手の通路にあたると考えられる。
さらに、主郭から南に続く、かなり幅の狭い尾根筋にそって、通路を兼ねた小規模な曲輪群が連なり、もうひとつの曲輪に至る。その尾根の東西両斜面にも多数の腰曲輪群が認められる。
そのもうひとつの曲輪は、18x10メートル程度の小規模な曲輪で、現在三角点が設置されており、最初の曲輪から続く尾根の南方の肩を形成しており、そこから急激に高度を下げて落ち込んでおり、その斜面に二重の堀切がある。最初の堀切は、長さ約12メートル、もうひとつは長さ約17メートルで、稜線を分断するように設置されている。また、曲輪の南側に3ヶ所の縦堀があり、縦堀は掘り上げた土砂を一方の側面に盛り上げて土塁を築いている。
また、ふたつの大きい曲輪の南側に位置する曲輪群は最初の曲輪から続く尾根が急激に落ち込んだ山麓部にあり、東からゆるく入り込んだ谷状凹地の源頭部に位置する。ひとつは30メートルx40メートルを測り、もうひとつは75メートルx30メートル程度の規模である。この平場には井戸跡が3箇所ほど確認され、根小屋跡であったと考えれ、虎口は典型的な桝形虎口を形成している。さらに東から入り込む浅い谷に位置するこれらの曲輪に至る登道にそって、山麓部から曲輪群が段々状に連なり、その中には、小屋掛けが可能と思われる比較的広い曲輪も認められる。山麓曲輪群に入る虎口が大手口と考えられ、発達した桝形虎口を成している。
当該山城は、二口街道を意識したものであり、高瀬川が最初の防衛的性格を有している。高瀬川を渡河し、大手口の虎口から登る道は、山麓の曲輪群で防備され、正面あるいは側面からの矢掛けが可能な配置状況を呈している。その登道は、根小屋跡と考えれる最奥部の曲輪に至り、高台に位置する曲輪は見張り台的な性格の曲輪と思われる。
築城者等に関しては不明であるが、城の構造的様相からみて、戦国後期頃の時期が想定される。天正16年頃、奥羽山系をはさんで、伊達と最上の軍事的緊張が高まり、「貞山公治家記録」によれば、天正16年4月28日、秋保付近で山形の兵101人が討ち取られ、21級の首実検が行われたとの記載がある。二口街道に面し、奥羽山系をはさんで伊達領と対峙する当該館跡は、最上領の境目の城として重要な位置を占めていたと考えられる。