中野城(なかのじょう)
中野城の基本情報
通称・別名
- 中野館
所在地
- 山形県山形市中野
旧国名
- 羽前国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 中野(斯波)満基
築城年
- 応永年間(1394〜1427)
主な改修者
- -
主な城主
- 中野氏
廃城年
- 元和8年(1622)
遺構
- 横堀(空堀)
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
山野辺城(山形県東村山郡)[3.5km]
寺津城(山形県天童市)[4.4km]
高擶城(山形県天童市)[4.5km]
山形城(山形県山形市)[5.8km]
山家城(山形県山形市)[6.4km]
中里館(山形県山形市)[7.9km]
寒河江城(山形県寒河江市)[8.1km]
天童城(山形県天童市)[8.2km]
岩波館(山形県山形市)[10.3km]
長谷堂城(山形県山形市)[10.7km]
中野城の解説文
[引用元:Wikipedia「中野城」の項目]
中野城(なかのじょう)は、山形県山形市中野にあった日本の城。
概要
中野城は、室町時代から江戸時代初期にかけて存在した城である。
延文元年(1356年)出羽の南朝勢力に対抗するため斯波兼頼が陸奥国から下向し、最上郡を中心に勢力を広げる。3代最上満直の子中野満基が初めて中野(山形市)に館を築いた。中野は山形城の北方に位置し、六十里越街道(寒河江街道)と須川が交差する要衝に位置する。
その後拡張され、最終的には東324メートル、西360メートル、南200メートル、北300メートルの堀と石垣に囲まれていた[1]。堀幅は5メートルから10メートル。東西南北に門があり、南門が大手口である。西の堀のすぐ西側を逆川(さかさがわ)が流れており、逆川の西には侍町・七日市場などの地名が残る。また、北東には寺院(雲祥院:最上義定菩提寺)が配されている。
天正2年(1574年)より最上義守・義光父子による天正最上の乱が勃発すると、中野城は義守方の有力な城として兵を繰り出し、義光と江俣で戦ったという。乱の終結後義守が隠居すると、義光の下で直轄領となった。天正12年(1584年)、寒河江氏との戦いで寒河江方の将柴橋頼綱(橋間勘十郎)が中野城まで攻め寄せるが、伏兵により撃退した。慶長5年(1600年)慶長出羽合戦では、近隣の城が明け逃げを行う中防御に努め、上杉軍に攻められることはなかった。
元和8年(1622年)最上氏が改易されると、中野城は廃城となった。
なお、現在では城は完全に消滅し、跡地に建つ大郷小学校敷地に石碑が立っている。
逸話
- 天正最上の乱では、中野義時[2]が中野城に依り、兄の義光によって攻め滅ぼされたという説話もあるが、同時代の史料には中野城が攻められたとの記述は見られない。
歴代城主
歴代中野城主別説
最上氏直轄
- 中野満基
最上氏直轄
- 中野義建
- 中野義清
- 中野義政
- 中野満兼
- 中野義時
出典
- 山形県教育委員会 『山形県中世城館遺跡調査報告書第2集(村山地区)』、1996
- 北天の巨星 最上義光
- 陸奥・出羽 斯波・最上一族
- 奥羽斯波氏諸列記
- 山形市史
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中野城の口コミ情報
2024年03月24日 日和山
漆山館[中野城 周辺城郭]
漆山館
所在地 山形市漆山
分類・構造 平城
築城主 最上満頼
築城年 室町~戦国期
遺構 なし
最上氏3代満直の子満頼の館。輪郭式平城でしたが、廃城後に館のド真ん中を羽州街道が貫通して宿場町が開かれたため、遺構はほぼ無く、道路などの区画に郭の痕跡を残すだけです。江戸幕府や山形から転封になった館林藩秋元家の飛地支配のための代官陣屋の跡が小公園となっており、陣屋跡の石碑がありました。
2023年02月06日 ファン掃部助トム治郎
中野城
左沢線の東金井駅から徒歩40分。山形線の漆山駅ままで1時間です。雪深い時期でしたが生活道路は除雪してあります。かなり大きい城だったようで集落にはいくつか城張りをしめす看板が設置されています。
中野城の周辺スポット情報
漆山館(周辺城郭)