荒砥城(あらとじょう)
荒砥城の基本情報
通称・別名
- 八乙女城
所在地
- 山形県西置賜郡白鷹町大字荒砥甲字盾廻1092
旧国名
- 羽前国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 荒川清泰
築城年
- 永長年間(1096〜1097)
主な改修者
- 馬場将監
主な城主
- 荒川氏、大立目氏、水野三左衛門(蒲生氏家臣)、泉沢氏(上杉氏家臣)
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)、横堀(水堀)、帯曲輪、井戸跡
指定文化財
- 町史跡(荒砥城址)
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
畑谷城(山形県東村山郡)[11.1km]
中山城(山形県上山市)[12.0km]
長谷堂城(山形県山形市)[15.5km]
上山城(山形県上山市)[15.9km]
萩生城(山形県西置賜郡)[16.9km]
山野辺城(山形県東村山郡)[19.1km]
成沢城(山形県山形市)[19.7km]
小松城(山形県東置賜郡)[20.1km]
山形城(山形県山形市)[21.5km]
上野館(山形県山形市)[21.7km]
荒砥城の解説文
荒砥城の口コミ情報
2025年07月20日 さよなら出羽守急行津軽
荒砥城
山形鉄道荒砥駅前から、消防団の倉庫の脇の道(8枚目)を歩き、右に曲がる(4枚目)と右手に八乙女神社が見えてきます。
神社の参道(5枚目)の前に駐車場がありますが、裏にまわった所の神社の脇にあるコミュニティセンターにも車は停められそうです。神社の参道の途中に荒砥城跡の標柱(6枚目)があります。訪問した日は、神社(1枚目)は神主が所用で不在のようで、社務所(3枚目)やトイレが使用できない状態でした。境内には八乙女種まき桜(2枚目)もあります。
神社の向かって左側にある、本丸跡(7枚目)には特に説明板はありませんでした。
2024年08月12日 国府左京大夫城介
鮎貝城[荒砥城 周辺城郭]
伊達氏や上杉氏により対最上氏に活用された城
【歴史】
応永3年(1396)に、鮎貝成宗が築城したと伝わる。
鮎貝氏は伊達氏と同族ということもあり、「一家(上座)」として厚遇され、独自の所領と家臣団を有すことが出来た。天文の乱では、当初稙宗方に付くも、乱後は晴宗から所領を安堵されている。天正2年(1574)に起きた天正最上の乱においては、鮎貝宗重(盛次)は、伊達輝宗に従い、最上攻めに参陣している。宗重は若くして宗信に家督を譲り、自身は米沢城下に屋敷を構えてた。政宗に家督を譲った輝宗は、隠居御殿が出来るまで、宗重の館で何日か過ごしている。
しかし、天正15年(1585)10月に、鮎川宗信が最上義光に内応し謀反を起こすと、宗重らは政宗に通報している。政宗は即鎮圧の軍勢を差し向け、鮎貝城を攻撃した。最上の援軍が来ないため、宗信は夜半に城から脱出し、最上領へ逃亡した。鮎貝氏の家督は、弟の宗定が継ぐこととなり、「一家」としての家格は保持するも、城主ではなくなった。なお、鮎貝氏は仙台藩伊達氏の一家筆頭として、幕末まで続いている。
天正16年(1586)4月には、鮎貝と荒砥に要害普請がなされ、城代が置かれるようになった。
奥州仕置きの後、会津に蒲生氏郷が移封され、米沢城には蒲生郷安が入城すると、鮎貝の地には高井権右衛門が入った。
慶長3年(1598)になると、上杉景勝が越後から会津に移封されると、米沢を中心とした置賜地方には直江兼続の統治下に入った。鮎貝城には中条三盛が入り、慶長出羽合戦の最上攻めにも参陣している。関ケ原後も、禄高は減るが引き続き中条三盛が城主を務めていた。中条三盛の死後、下条忠親が城代になるが、元和8年(1622)に一国一城令により鮎貝城は廃城となった。この地を統治する御役屋ができ、春日主膳続元が代官として入部した。その後、寛文5年(1665)に本庄長政(忠長)が入部すると、以降明治維新まで本庄氏が鮎貝の地を統治することとなった。
【遺構】
荒砥城の西方約2kmに位置する舌状台地(標高200m/比高15m)に築かれた平山城です。
鮎貝八幡宮(二の丸)あたりが最もよく遺構を残しており、土塁や水堀、空堀がある。また、八幡宮の駐車場の北側には、大手にあたる坂虎口も残っている。
八幡宮の北西のあたりが本丸とみなされており、案内板もある。そこから更に北へ進むと、後庵ザクラがあり、その背後には周囲を深い空堀で囲まれた出丸があります。
【感想】
荒砥城と鮎貝城は、伊達氏、上杉氏共に、対最上氏における重要な城郭だったようです。この二城が連携することで、最上氏に圧をかけることが出来たのかと思います。しかし、乱世が終わり、一国一城令により廃城となったため、ある程度破壊されてしまったのは残念ですが、往時の遺構もそれなりに残っています。
特に、鮎貝八幡宮の土塁や水堀はかなり立派で、見所かと思います。
ただし、畑や私有地になっている箇所があるので、探索時には注意してください。
荒砥城を公共共通機関でリア攻めするのであれば、併せて鮎貝城もリア攻めすることをお奨めします。荒砥城から徒歩35分程度と比較的に近いですし、フラワー長井線の本数が少ないので、荒砥城だけだと時間を持て余すので(笑)
【アクセス】
四季の郷駅から徒歩で10分。
鮎貝八幡宮に駐車場あり。
【写真】
①遠景
②鮎貝八幡宮の参道石段
③土塁
④水堀
⑤大手の坂虎口
⑥本丸跡
⑦後庵ザクラと空堀
⑧空堀と出丸(橋を渡った先は私有地っぽいので入らないでください)
2022年11月22日 大場掃部助まーP
塩田城[荒砥城 周辺城郭]
尾根筋が堀切で断たれています。主郭の切岸も見物です。
2022年11月22日 大場掃部助まーP
杉沢館[荒砥城 周辺城郭]
伊達な置賜四十八館サイトで詳細確認出来ます。主郭背後の4重堀切・前面の17条の畝状竪堀が確認出来ます。
2021年05月23日 藤陸奥守重真
荒砥城
山形鉄道フラワー長井線・荒砥駅から徒歩5分程です。現在は八幡宮ですが一部の遺構が明確に残っています。
2017年07月05日 河原前秋田城介仁衛門
荒砥城
荒砥駅から徒歩5分ほどの駅近物件です。
本丸南側の曲輪に公民館があり、ここに駐車可能なようです。
遺構は藪に埋もれている箇所も多いですが、本丸を中心によく残っています。
特に本丸西側の帯曲輪は中々のものです。
旧小学校と公民館の造成によって一部破壊されたようですが、本丸西側をぐるっと囲んでいます。
城の西側には最上川があり、方角的には搦め手になるかと思いますが、
この帯曲輪から本丸や下の曲輪に何本も道が繋がっており、おそらくは兵の出撃路や連絡路として機能していたのでしょう。
その他の見所としては、本丸に八幡神社、御楯稲荷(みたていなり)があり、神社の参道脇には蛇井戸(じゃいど)があります。
それぞれに伝承がありますが、特に御楯稲荷は慶長出羽合戦の際、畑谷城に向かう直江兼続をこの稲荷の白狐が道案内したとか。
白狐が案内した道は狐越(きつねごえ)街道と呼ばれています。
直江兼続ファンの方はお参りしてみては如何でしょうか。
2012年02月12日 奥州王征夷大将軍毘沙門天乱丸
荒砥城
現在、本丸跡は八乙女八幡宮と稲荷神社になっております
2011年12月17日 三沢出羽守伊兵衛
荒砥城
御楯稲荷は、直江兼続が修理し、戦勝祈願したところ。出陣後、道に迷っていたところ、ここの白狐が道案内し畑谷城を攻めることができたと言い伝えられてます。
2011年12月17日 三沢出羽守伊兵衛
荒砥城
八幡神社に登る石段からアプローチ。八幡神社と御楯稲荷、その隣に一段高い本丸跡と思われる広場があります。その周囲を取り囲むように帯曲輪や一部空堀も残ってます。道なりに下ると公民館のある広場があります。ニノ丸跡なのでしょうか?車はここに停めればいいようでした。いずれにしてもこちらが大手筋だったようです。意外にしっかり遺構が残っておりました。
荒砥城の周辺スポット情報
帯曲輪(遺構・復元物)
蛇井戸跡(遺構・復元物)
空壕跡(遺構・復元物)
残存水堀(遺構・復元物)
二の水堀(遺構・復元物)
幸寿ヶ原古戦場跡碑(碑・説明板)
荒砥城址碑(碑・説明板)
鮎貝城(周辺城郭)
杉沢館(周辺城郭)
塩田城(周辺城郭)
菖蒲館(周辺城郭)
高岡館(周辺城郭)
大瀬館(周辺城郭)
金剛山館(周辺城郭)
荒砥館(周辺城郭)
黒藤館(周辺城郭)
黒藤下館(周辺城郭)
小屋館(周辺城郭)
大野館(周辺城郭)
沼之平城館(周辺城郭)
大峠砦(周辺城郭)
中屋敷館(周辺城郭)
廻館(周辺城郭)
大石館(周辺城郭)
岩館(周辺城郭)
馬隠曲輪砦(周辺城郭)
古お薬師館(周辺城郭)
塔の上館(周辺城郭)
横沢山館(周辺城郭)
亀ヶ森砦(周辺城郭)
虚空蔵砦(周辺城郭)
生僧入館(周辺城郭)
浅立館(周辺城郭)
西向館(周辺城郭)
高平館(周辺城郭)
政所館(周辺城郭)
横越北館(周辺城郭)
横越館(周辺城郭)
高玉本館(周辺城郭)
備後館(周辺城郭)
八幡館(周辺城郭)
金剛山砦(周辺城郭)
高玉城(高玉館)(周辺城郭)
小田館(周辺城郭)
深沢館(周辺城郭)
色摩館(周辺城郭)
四ッ谷館(周辺城郭)
長者館(周辺城郭)
山口館(周辺城郭)
掃部館(周辺城郭)
平吹館(周辺城郭)
大屋敷(周辺城郭)
手塚館(周辺城郭)
勧進代山館(周辺城郭)
金田館(周辺城郭)
戸根林館(戸根林楯)(周辺城郭)
草岡館(周辺城郭)
白山森館(周辺城郭)
小屋館A(周辺城郭)
小屋館B(周辺城郭)
小屋館C(周辺城郭)
南鴨石館(周辺城郭)
寺泉古館(周辺城郭)
飯沢館(周辺城郭)
飯沢北館(周辺城郭)
成田館(周辺城郭)
八幡館(周辺城郭)
八幡神社(寺社・史跡)
駐車場(駐車場)
伊達家文書によれば、戦国期の荒砥郷には荒砥、桑島、松岡、大立目ら各豪族の所領があったが、荒砥城主としては大立目氏が確認できる。置賜と村山の境界に位置する荒砥城は、最上領に接する伊達領国の一大要害として史料にも度々現れ、天正2年(1574)から始まる最上義光との本格的な戦いでは、一時伊達輝宗の本陣も設けられている。天正16年4月20日には、鹿俣、大窪、大石らの伊達家「御代官衆」の手によって「要害普請」が行われており、戦国末期になると在番制による城将が派遣されていたものと思われる。
天正19年の伊達氏の移封後は、蒲生氏郷の家臣・水野三左衛門が在城し、また慶長5年の上杉氏と最上氏の合戦においても、直江兼続らの上杉勢の主力は、荒砥城を兵站基地として畑谷城を攻め、山形方面へと向かう作戦であった。東方の金剛山館や最上川対岸の鮎貝城とも連携して、ますます要害としての機能を高めたものと考えられる。主郭部は南北に約100、東西に約150メートルで最長部と八幡神社の境内地とに二分され、虎口と思われるところから入城したものと考えられる。南側には土塁の名残もある。帯曲輪と空堀は周囲をめぐり、西側は急峻な切崖で防御されている。東側には水濠の名残が残っている。現在、公民館や老人福祉センターとして利用されているもう一つの曲輪は、江戸時代は荒砥御役屋として、明治以降は荒砥小学校の敷地として拡張されているが、長岡文書から推定すると、もともとは城全体を帯曲輪と堀で囲っていたものと思われる。別な小曲輪には「蛇井戸」と呼ばれる井戸があるが、有事の際にはそこから水が溢れて空堀を水で満たし、城を守ったという伝説も残っている。
明治初年の地籍図や、付近に見られる「殿町」「古城廻り」「仲町」などの地名から、家中侍屋敷地のいわば三の丸と町家も含めた総構えの城郭であったと思われ、東から北側にかけては、草木沢川が外堀の機能を果たし、金鐘寺付近にも堅固な櫓などの施設があったものと思われる。「上町」「新町」まで含めれば、東西750メートル、南北500メートルの規模となり、さらに現在県立荒砥高校や町立病院の建つ、南側の丘陵部にも城館址を想定すれば、貝生川を南の外堀とする広大な城域になり、今後の調査に期待したい。