鮎貝城
鮎貝城([荒砥城 周辺城郭])
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鮎貝城の口コミ情報
2024年08月12日 国府参議城介
伊達氏や上杉氏により対最上氏に活用された城
【歴史】
応永3年(1396)に、鮎貝成宗が築城したと伝わる。
鮎貝氏は伊達氏と同族ということもあり、「一家(上座)」として厚遇され、独自の所領と家臣団を有すことが出来た。天文の乱では、当初稙宗方に付くも、乱後は晴宗から所領を安堵されている。天正2年(1574)に起きた天正最上の乱においては、鮎貝宗重(盛次)は、伊達輝宗に従い、最上攻めに参陣している。宗重は若くして宗信に家督を譲り、自身は米沢城下に屋敷を構えてた。政宗に家督を譲った輝宗は、隠居御殿が出来るまで、宗重の館で何日か過ごしている。
しかし、天正15年(1585)10月に、鮎川宗信が最上義光に内応し謀反を起こすと、宗重らは政宗に通報している。政宗は即鎮圧の軍勢を差し向け、鮎貝城を攻撃した。最上の援軍が来ないため、宗信は夜半に城から脱出し、最上領へ逃亡した。鮎貝氏の家督は、弟の宗定が継ぐこととなり、「一家」としての家格は保持するも、城主ではなくなった。なお、鮎貝氏は仙台藩伊達氏の一家筆頭として、幕末まで続いている。
天正16年(1586)4月には、鮎貝と荒砥に要害普請がなされ、城代が置かれるようになった。
奥州仕置きの後、会津に蒲生氏郷が移封され、米沢城には蒲生郷安が入城すると、鮎貝の地には高井権右衛門が入った。
慶長3年(1598)になると、上杉景勝が越後から会津に移封されると、米沢を中心とした置賜地方には直江兼続の統治下に入った。鮎貝城には中条三盛が入り、慶長出羽合戦の最上攻めにも参陣している。関ケ原後も、禄高は減るが引き続き中条三盛が城主を務めていた。中条三盛の死後、下条忠親が城代になるが、元和8年(1622)に一国一城令により鮎貝城は廃城となった。この地を統治する御役屋ができ、春日主膳続元が代官として入部した。その後、寛文5年(1665)に本庄長政(忠長)が入部すると、以降明治維新まで本庄氏が鮎貝の地を統治することとなった。
【遺構】
荒砥城の西方約2kmに位置する舌状台地(標高200m/比高15m)に築かれた平山城です。
鮎貝八幡宮(二の丸)あたりが最もよく遺構を残しており、土塁や水堀、空堀がある。また、八幡宮の駐車場の北側には、大手にあたる坂虎口も残っている。
八幡宮の北西のあたりが本丸とみなされており、案内板もある。そこから更に北へ進むと、後庵ザクラがあり、その背後には周囲を深い空堀で囲まれた出丸があります。
【感想】
荒砥城と鮎貝城は、伊達氏、上杉氏共に、対最上氏における重要な城郭だったようです。この二城が連携することで、最上氏に圧をかけることが出来たのかと思います。しかし、乱世が終わり、一国一城令により廃城となったため、ある程度破壊されてしまったのは残念ですが、往時の遺構もそれなりに残っています。
特に、鮎貝八幡宮の土塁や水堀はかなり立派で、見所かと思います。
ただし、畑や私有地になっている箇所があるので、探索時には注意してください。
荒砥城を公共共通機関でリア攻めするのであれば、併せて鮎貝城もリア攻めすることをお奨めします。荒砥城から徒歩35分程度と比較的に近いですし、フラワー長井線の本数が少ないので、荒砥城だけだと時間を持て余すので(笑)
【アクセス】
四季の郷駅から徒歩で10分。
鮎貝八幡宮に駐車場あり。
【写真】
①遠景
②鮎貝八幡宮の参道石段
③土塁
④水堀
⑤大手の坂虎口
⑥本丸跡
⑦後庵ザクラと空堀
⑧空堀と出丸(橋を渡った先は私有地っぽいので入らないでください)