萩生城(はぎゅうじょう)
萩生城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 山形県西置賜郡飯豊町萩生
旧国名
- 羽前国
分類・構造
- 複郭式平城
天守構造
- -
築城主
- 国分政信
築城年
- 南北朝時代
主な改修者
- -
主な城主
- 国分氏
廃城年
- 天正19年(1591)
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(水堀)
指定文化財
- 町史跡
再建造物
- 石碑、説明板
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萩生城の解説文
萩生城の口コミ情報
2017年07月05日 熊野三郎友重
萩生城
以前の投稿に誤りがあったため、再投稿です。
縄張りは長方形の方形館を2つズラして、くっつけたような形をしています。
現地解説版では恩徳寺側の郭が出丸とされており、城址公園側の本丸に匹敵する面積を有しています。
本丸とほぼ同じ面積で「出丸」という表現には多少違和感がありますが、本丸と出丸の間には明確な堀があり、連郭式ではなく複郭式で間違いないようです。
遺構は恩徳寺周辺によく残っています。
恩徳寺正面の堀、裏手の土塁が見所です。
他にも恩徳寺北側に水堀、本丸西北に櫓台がありますが、かろうじて往時の姿を想像できる程度です。
肝心の本丸は城址公園となっており、コミュニティセンター(除雪機格納庫)があるのみです。
恩徳寺の住職が御不在の様でしたので、近所にお住まいの方に話しを聞いたところ、見るだけなら敷地内に入っても何の問題もないとのことでした。
ただ、無用のトラブルを避けるためにも誰かに声を掛けるのがマナーかと思います。
敷地に入らずとも遺構は充分見えますのでご心配なく。
本丸の城址公園内と恩徳寺の前に駐車可能です。
2012年06月02日 奥州王!毘沙門天伊勢守乱丸
萩生城
恩徳寺周辺に土塁と濠が確認でき本丸は散策した結果、私の推測では恩徳寺斜め正面ではないか!
2011年12月04日 三沢出羽守伊兵衛
萩生城
本丸跡は、公園・広場・除雪機格納庫として使われているようです。周囲の道路より小高く土塁が残ってます。その隣の恩徳寺が連郭式の出丸とのことです。こちらにも土塁や水堀跡らしきものが見られます。
国分氏は、伊達政宗から嘉慶2年(1388)に「長井庄萩生郷」を、応永9年には「刈田郡平沢郷(現宮城県)」に知行配分を受けているが、南北朝の末期に伊達氏が長井氏を攻略して置賜地方に侵攻した直後にあたる。萩生国分氏は、系図によれば、その2代前に「萩生郷に住した」政信をもって初代としている。その後、国分氏は伊達信夫、最上などの広範な地に所領を拡大していることや、永正6年の伊達尚宗の軍勢催促の命を受けて、下長井の被官衆に回状を発している国分平五郎胤重の存在などから、伊達氏に対しても自立性の高い国人領主であったと考えられる。
萩生城址は、現存する景観と明治8年の地籍図などから、主郭部と出丸をもつ複郭式の平城と、それを中心にした原城下町的な町割という、国人級武将の居館跡が比較的良好に復元できる遺跡である。主郭部は南北145メートル、東西77メートル、面積はおよそ1,116平方メートルで、現在は城址公園とコミュニティセンターと民家の敷地となっている。東側と南側及び北側の堀跡は、水田となってわずかに昔の姿を偲ばせる程度であるが、西側は、幅10メートルの水濠を巡らした跡が現在も明瞭に残っている。内部を囲む土塁は、現在西側の大部分と南側の一部が残っているが、幅10メートルあり、高さは3~5メートルで、一番高い所では18メートルを数える。特に、西南隅には物見櫓があったと伝えられている。東側と北側に虎口が設けられていたとみられ、大手口に当たる東側からは、家臣団集落である「内町」を通り「粕町」「雪舟町」などの商人町へとつながっている。大手門跡には、昭和20年頃まで樹齢500年以上の杉の巨木が2本あって、地元の人から“門杉”と呼ばれ親しまれていた。南方にも南門があったと伝えられている。
主郭部の西方には、南北147メートル、東西64メートルの出丸跡がある。水堀と土塁に囲まれているが、内側の土塁は高さが3~4メートルで、北側で幅13メートル、西側と南側ではそれぞれ10メートルである。さらに北側の堀には、現在も水を満々とたたえ貯水池として利用されている。西側は、現在草地などになっているが、地形的には泥田堀であったと考えられる。出丸跡には、応永年間に移転し、伝えられる恩徳寺と石硯文殊堂が建立されて、その境内地になっている。さらに、城域を中心にして西方に阿弥陀堂、諏方神社が位置し、北方には国分氏の菩提寺である吉祥寺と稲荷馬場があり、当時の姿が偲ばれる。
国分氏は、天正19年の伊達氏の陸奥岩出山移封に伴って当地を去り廃城になった。
なお、萩生城址は、昭和62年に飯豊町の文化財として史跡に指定されている。
情報提供:山形県教育委員会