萩生城(はぎゅうじょう)
萩生城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 山形県西置賜郡飯豊町萩生
旧国名
- 羽前国
分類・構造
- 複郭式平城
天守構造
- -
築城主
- 国分政信
築城年
- 南北朝時代
主な改修者
- -
主な城主
- 国分氏
廃城年
- 天正19年(1591)
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(水堀)
指定文化財
- 町史跡(萩生城祉本丸土塁濠)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
小松城(山形県東置賜郡)[7.9km]
荒砥城(山形県西置賜郡)[16.9km]
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米沢城(山形県米沢市)[19.9km]
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小国城(山形県西置賜郡)[21.3km]
上山城(山形県上山市)[27.4km]
畑谷城(山形県東村山郡)[27.9km]
湯原館(宮城県刈田郡)[29.8km]
長谷堂城(山形県山形市)[30.0km]
萩生城の解説文
萩生城の口コミ情報
2025年07月21日 さよなら出羽守急行津軽
萩生城
Yahooカーナビの指示で到着しました。城跡(1枚目)は公園として整備されており、説明板(2枚目)もあります。ただ、住宅地にある公園にしては、地域の方はあまり訪れておられないようで、土塁に登る道(5枚目 左上に登る道)も草に埋もれていました。遊具も使われていないようです。敷地内のコミュニティセンターも荒れています。もともとは小学校だったようですが、50年以上前に統合(6枚目)されたようです。二の丸跡は恩徳寺(4枚目)となっています。物見櫓跡(3枚目)は私有地です。公園は自動車が通り抜けられるようになっており、途中で舗装が広くなっている場所に数台停められそうです。
2024年06月22日 藤出羽守重真
萩生城
城址公園となっていますが、あまり訪問する人もいないのか、遊歩道にも花が咲いていました。土塁や空堀が良好に残っています。
2023年04月30日 ClaD次は広島だよ
椿館[萩生城 周辺城郭]
館の沢第一堰堤を渡った北側を少しだけ直登して東へ進むと土塁が見えてきます。東側の崖に面して畝堀があるので必見。深さ1メートル前後、幅2メートル前後で分かる畝は6つほど。城の内部はすべて藪、しかも灌木ばかりなので夏場は無理でしょう。
2021年12月12日 大場掃部助まーP
椿館[萩生城 周辺城郭]
空堀、横矢懸かる虎口、畝堀などあります。
2021年12月12日 大場掃部助まーP
手ノ子西館[萩生城 周辺城郭]
積雪前・雪溶け直後しか見ることが出来ないかも知れません。大空堀・土塁、主郭に1部残存土塁などあります。
2021年09月25日 三春田村氏
駐車スペース[萩生城 駐車場]
城跡公園内に駐車場可能。ただし、案内なく、白線もない
2012年06月02日 奥州王征夷大将軍毘沙門天乱丸
萩生城
恩徳寺周辺に土塁と濠が確認でき本丸は散策した結果、私の推測では恩徳寺斜め正面ではないか!
2011年12月04日 三沢出羽守伊兵衛
萩生城
本丸跡は、公園・広場・除雪機格納庫として使われているようです。周囲の道路より小高く土塁が残ってます。その隣の恩徳寺が連郭式の出丸とのことです。こちらにも土塁や水堀跡らしきものが見られます。
萩生城の周辺スポット情報
堀(遺構・復元物)
土塁(遺構・復元物)
水堀(遺構・復元物)
堀(遺構・復元物)
土塁(遺構・復元物)
説明板(碑・説明板)
萩生城と恩徳寺説明板(碑・説明板)
手ノ子西館(周辺城郭)
椿館(周辺城郭)
小桜城(宮村館・卯の花の館)(周辺城郭)
小豆澤館(周辺城郭)
片倉館(周辺城郭)
浦原館(周辺城郭)
金城館(周辺城郭)
正福寺館(館之内)(周辺城郭)
遠藤屋敷(周辺城郭)
大屋敷(周辺城郭)
白山館(荒館・大須賀館)(周辺城郭)
堤ヶ入砦(周辺城郭)
若尻砦(周辺城郭)
愛宕山館(周辺城郭)
桐町館(周辺城郭)
桑島館(伊佐沢館)(周辺城郭)
御林館(周辺城郭)
裏山館(周辺城郭)
下伊佐沢館(周辺城郭)
小関館(周辺城郭)
大津賀館(周辺城郭)
源徳原館(周辺城郭)
古屋敷(周辺城郭)
今泉館(周辺城郭)
歌丸館(周辺城郭)
茶臼館(周辺城郭)
井戸尻三間館(周辺城郭)
遠藤館(周辺城郭)
黒沢北館(周辺城郭)
黒沢館(周辺城郭)
黒沢中館(周辺城郭)
中村荒館(周辺城郭)
中村館(周辺城郭)
天養寺館(周辺城郭)
黒沢南館(周辺城郭)
館の宮館(周辺城郭)
椿古館(周辺城郭)
町屋敷(周辺城郭)
手ノ子南館(周辺城郭)
館ノ越館(周辺城郭)
宇津砦(周辺城郭)
駐車スペース(駐車場)
国分氏は、伊達政宗から嘉慶2年(1388)に「長井庄萩生郷」を、応永9年には「刈田郡平沢郷(現宮城県)」に知行配分を受けているが、南北朝の末期に伊達氏が長井氏を攻略して置賜地方に侵攻した直後にあたる。萩生国分氏は、系図によれば、その2代前に「萩生郷に住した」政信をもって初代としている。その後、国分氏は伊達信夫、最上などの広範な地に所領を拡大していることや、永正6年の伊達尚宗の軍勢催促の命を受けて、下長井の被官衆に回状を発している国分平五郎胤重の存在などから、伊達氏に対しても自立性の高い国人領主であったと考えられる。
萩生城址は、現存する景観と明治8年の地籍図などから、主郭部と出丸をもつ複郭式の平城と、それを中心にした原城下町的な町割という、国人級武将の居館跡が比較的良好に復元できる遺跡である。主郭部は南北145メートル、東西77メートル、面積はおよそ1,116平方メートルで、現在は城址公園とコミュニティセンターと民家の敷地となっている。東側と南側及び北側の堀跡は、水田となってわずかに昔の姿を偲ばせる程度であるが、西側は、幅10メートルの水濠を巡らした跡が現在も明瞭に残っている。内部を囲む土塁は、現在西側の大部分と南側の一部が残っているが、幅10メートルあり、高さは3~5メートルで、一番高い所では18メートルを数える。特に、西南隅には物見櫓があったと伝えられている。東側と北側に虎口が設けられていたとみられ、大手口に当たる東側からは、家臣団集落である「内町」を通り「粕町」「雪舟町」などの商人町へとつながっている。大手門跡には、昭和20年頃まで樹齢500年以上の杉の巨木が2本あって、地元の人から“門杉”と呼ばれ親しまれていた。南方にも南門があったと伝えられている。
主郭部の西方には、南北147メートル、東西64メートルの出丸跡がある。水堀と土塁に囲まれているが、内側の土塁は高さが3~4メートルで、北側で幅13メートル、西側と南側ではそれぞれ10メートルである。さらに北側の堀には、現在も水を満々とたたえ貯水池として利用されている。西側は、現在草地などになっているが、地形的には泥田堀であったと考えられる。出丸跡には、応永年間に移転し、伝えられる恩徳寺と石硯文殊堂が建立されて、その境内地になっている。さらに、城域を中心にして西方に阿弥陀堂、諏方神社が位置し、北方には国分氏の菩提寺である吉祥寺と稲荷馬場があり、当時の姿が偲ばれる。
国分氏は、天正19年の伊達氏の陸奥岩出山移封に伴って当地を去り廃城になった。
なお、萩生城址は、昭和62年に飯豊町の文化財として史跡に指定されている。