原城(はらじょう)
原城の基本情報
通称・別名
- 原の城、志自岐原城、志自岐原の城、日暮城、有馬城、春の城
所在地
- 長崎県南島原市南有馬町乙
旧国名
- 肥前国
分類・構造
- 梯郭式平山城
天守構造
- なし
築城主
- 有馬貴純
築城年
- 明応5年(1496)
主な改修者
- -
主な城主
- 有馬氏
廃城年
- 元和2年(1616)
遺構
- 曲輪、石垣、横堀(空堀)、虎口
指定文化財
- 世界遺産(長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産)、国史跡(原城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
日野江城(長崎県南島原市)[3.4km]
瀬詰崎台場(長崎県南島原市)[9.1km]
深江城(長崎県南島原市)[12.7km]
上津浦城(熊本県天草市)[16.5km]
大矢野城(熊本県上天草市)[17.2km]
釜蓋城(長崎県雲仙市)[18.1km]
本渡城(熊本県天草市)[19.8km]
島原城(長崎県島原市)[20.7km]
山田城(長崎県雲仙市)[22.9km]
寺中城(長崎県島原市)[23.4km]
原城の解説文
[引用元:Wikipedia「原城」の項目]
原城(はらじょう・はるのじょう[1])は、長崎県南島原市南有馬町乙にあった日本の城。国の史跡。別名、春城、志自岐原城、日暮城、有馬城。2018年6月30日に世界遺産登録が決まった長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産の構成遺産である。
沿革
島原半島の南部に位置し、明応5年(1496年)、日野江城の支城として有馬貴純によって、有明海に張り出した丘陵に築かれた。 16世紀末期に文禄・慶長の役で朝鮮半島の倭城や肥前名護屋城の知識を得た有馬晴信によって居城として整備された。この時の改修工事によって瓦葺きの屋根を持った織豊系城郭として生まれ変わり、本の丸、二の丸、三の丸、天草丸、出丸などが築かれた。現在残る石垣や枡形、本丸天守台はこの改修時のものである。城の完成後には日野江城が隠居城として使われる予定であった。
原城本丸大手門跡からは2004年(平成16年)の調査で8個の巨大礎石などが発見されており、当時最先端だった近畿地方の築城技術が用いられていたと考えられている[2]。
原城は近世城郭として整備されたにもかかわらず、本拠の移転は沙汰止みとなる。
有馬氏が日向国延岡城に転封となった後の、元和2年(1616年)に松倉重政が日野江城に入城するが、一国一城令の影響もあり不便な日野江城を放棄し島原城を築城した。この際に原城も廃城となり、石垣や構築物も転用されたとされるが実際には石垣や多くの建築物が残されたと推測される。[3]
寛永14年(1637年)から寛永15年(1638年)にかけての島原の乱では一揆勢が廃城になっていた原城に立てこもり決戦の地になった。島原の乱の後、幕府は原城跡に残存する石塁などの破却を行っている。原城の有明海側には抜け穴跡があり、1963年(昭和38年)の豪雨で陥没した後に郷土史家らによって調査されたが、この抜け穴は原城築城の際に造られたものか島原の乱の際に掘られたものかは分かっていない。
1938年(昭和13年)、原城跡は国の史跡に指定された。発掘調査の際には、惨殺された一揆軍の遺骨や鉛の弾丸、クルスの他、万人坑が出土している。本丸には天草四郎の居館とされる遺構も見つかっている。
2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(188番)に選定された。
島原の乱
元和の一国一城令で廃城となった原城で、寛永14年(1637年)に「島原の乱」が勃発した。島原藩主の松倉重政・勝家父子は島原城建設による出費などの財政逼迫により苛政を敷き、また、過酷なキリシタン弾圧を行ったことにより農民一揆を引き起こした。この一揆は島原半島のみならず天草にも飛び火し、島原城・富岡城が襲撃された。しかし、攻城はうまく行かず、やがて一揆の群衆は天草の一揆群衆と合流、廃城となっていた原城に約3万7千人が立て籠もった。 そこで小西行長の家臣の子孫といわれる天草四郎を総大将とし、組織立った籠城戦を展開して幕府軍と戦闘を繰り広げた。
慶長9年(1604年)に主要部の竣工が行われた際に、原城はキリスト教による祝別を受けており(『1604年度日本準管区年報』)[4]、キリストによって祝別された原城は、キリシタンの人々にとって強固な軍事施設であるとともに籠城するのに相応しい城であったといえる[5]。
このとき一揆勢は新たに堀や土塁などを設けている。
- 空堀 - 一揆勢は本丸大手前に空堀を掘り、蓮池とともに本丸を「島」のようにして籠城していた。
- 本丸門跡 - 本丸の最奥部には本丸門跡の遺構があり、絵図「原城諸手仕寄之図」や「細川忠利書状」によると「四郎家」と呼ばれる天草四郎が一揆の際に最後の居場所となった居宅があったとされる。
一揆軍の3ヶ月に及ぶ籠城には水利はあったものの兵站の補給もなく、弾薬・兵糧が尽き果ててきた。対する幕府軍は1千人の戦死者を出しながらも新手を投入し、ついに寛永15年2月27日から28日(1638年4月11日から12日)にかけての総攻撃で一揆軍を全滅させた。幕府軍の記録によると、一揆軍の中で幕府軍に内通していた山田右衛門作だけが助命され、その他は老人や女子供に至るまで一人残らず皆殺しにされたという。幕府軍の総大将であった松平信綱の子・松平輝綱(武蔵川越藩の第2代藩主)は、『島原天草日記』の中においてこの時の様子を「(前略)剰つさえ童女の輩に至りては、喜びて斬罪を蒙むりて死なんとす、是れ平生人心の致すところに非らず、彼宗門に浸々のゆえ也」と記し、一揆軍は殉教を重んずるキリシタンの信仰ゆえに全員が喜んで死を受け入れたとする旨を語っている。ただし、幕府軍は総攻撃を行う前に、キリシタンでなく強制的に一揆に参加させられた者は助命する旨を一揆軍に伝えており、これに応えて1万人以上が投降して生き延びたとする説もある[6]。
幕府軍は乱の終結後、再び一揆の拠点として使用されることのないよう原城を徹底的に破壊し、虐殺された一揆軍3万7千人の遺体は廃墟となった原城の敷地内にまとめて埋められた。その一方で、島原藩主の松倉勝家は苛政により乱を引き起こした責任から、罪人として、大名としては前例のない斬首に処せられた。
なお、明和3年(1766年)7月15日、願心寺の注誉証人と村の庄屋らが、敵味方の区別なく死者を供養するため原城跡に地蔵尊塔の「ほねかみ地蔵」を建立した。
発掘調査
1990年(平成2年)から発掘調査が開始され、破壊された城の残骸の中に大量の人骨が発見された。人骨と同時に当時の十字架やメダル、ロザリオ等も発見された。
2000年(平成12年)の調査では、国内最大級となる虎口遺構が確認された。虎口の空間は南北90メートル(以降m)、東西80mのほぼ正方形であった。発掘当初の予想を越える規模であり、全国的に見ても最大級の虎口となる。 また、城内の主通路には玉砂利が敷かれていることも確認された。
2004年(平成16年)からの調査では、当時のキリスト教関係施設に使用されていた花十字紋瓦の破片も発見されている。キリシタン大名が所有していた城郭からの初めての出土となった。
本丸西側からは立て籠もった一揆軍が使用したと推測される竪穴建物跡群が検出された[7]。一辺が約2-3mを測る方形の竪穴建物跡で、床面は焼けており、中からは多くの陶磁器や瓦、人骨などが出土した[8]。竪穴建物跡群は規格性があり、同一集落を基本とした家族単位で使用したと考えられている。さらに冬場の籠城であるにもかかわらず、竪穴建物では、個別に炉やカマドといった暖房や煮炊きにかかわる遺物や遺構の痕跡が見つかっていない。それらのことから、籠城中に失火で火災を起こさないようにした大名軍勢並みの軍規の存在を物語るといえる[9]。
検出した石垣は、慶長年間前期の豊臣系城郭の影響を色濃く受けていた。石材の大きさは長軸が80-120cm前後になるデイサイトを主体的に用い、裏込め石には主に玄武岩の礫が使用されている。石垣の傾斜角度は56-65度を測る緩やかな勾配を取っており、それぞれの石材の角度調整を行いながら高石垣の構築を志向する傾向が現れている。本丸石垣の隅角部の角石には割面石を用いており、「矢」痕跡を残す割面石が相当数混在している。
これらの調査結果から、当時の原城は廃城とはなっていたものの、石垣や城門、櫓等の防御施設が存在しており、現在の姿となったのは、島原の乱後の破却によるものと指摘されている。
交通
島鉄バス 原城前バス停から徒歩15分
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原城の口コミ情報
2024年07月15日 征夷大将軍もんたろう
原城
真砂の駐車場から本丸まで無料の送迎タクシーがありました。土日祝のみ。
2024年04月28日 薩摩安房守義弘維新斎
原城
原城址へは、天草から口之津までフェリーで約30分かかり、口之津から車で約15分で城へ行きます。
城攻めにあたっては、車を原城温泉真砂に駐車し、歩いて直ぐに大手門跡があり、舗装された道路を進むと三ノ丸跡や更に進むと二ノ丸跡、空堀、本丸と辿り着けます。
とにかく城の印象としては、広大な敷地に驚きます。それに環境整備が非常に良いです。
本丸には、天草四郎時貞の像、十字架のモニュメント、天草四郎時貞の碑があって、ここが幕府軍との激しい攻防があった場所だと実感します。
また、本丸から眺められる大海原の景色が素晴らしく綺麗です。悲しい歴史がある城ですが、続日本100名城にも選定され、世界遺産でもある原城にぜひ登城されることをオススメします。
2023年09月12日 陸奥守新九郎
原城
島原の乱の古戦場としても見応えがありますが、それ以前に近世初頭の城郭として、また破城の様子を確認するにも良いお城です。が、駐車場から結構な距離があり、この時期はシンドイです(^_^;)
2023年09月07日 にーさん尾張守佳祐
原城
海に面しているのでこれからの時期には良いかも。自分でレイアウトする御城印は初めてでしたが面白いですね。スタンプ押すだけですけど 笑3体の像は十字架オブジェの裏側海を向いています
2023年03月07日 巳之壱
原城
三体の像は見つけられず、工事をしていたからかと思うことにした。御城印はキリシタン記念館で自分でスタンプを押すタイプ!粋な計らい。但し、先に天草殿の写真を撮るべし、証が必要じゃ。
2022年09月23日 久松胆振守西門左衛門️
原城
本丸に大穴が。陥没してしまったようです。本丸には入れますが、立ち入り禁止の部分あり。
2022年09月18日 ぱぱ〜ん伊豆守
原城
天草四郎率いるキリシタン一揆軍が籠城し最後を迎えたお城。幕府軍が苦戦し、海に突き出したお城の構造が分かります。二の丸の広さが籠城時に多くの人が居たんだろうなぁと妄想出来ます。駐車場から本丸まで歩くと地味に汗だくで辛い。
2022年08月23日 mitt
原城
暑い日でしたが、無料の電動レンタサイクルで、快適に城の各ポイントを回ることができました。
2022年03月18日 Q太郎
原城
この左手からザビエル、天草四郎、お福を原城で、どこにあるか探して見てください。
2021年10月12日 :::真田土佐守持郎❖
原城
今朝行ってきました、天草を眺める石像様達が見つからず柵の外に出て草をかき分けながらも見つからず、案内所の方が来たので話してみるとあっさり見つかる、もう一度探しに。
ついに発見!しましたが、ザビエルの頭がちょこんと見えただけ。
夏場の草刈り作業は大変ですからね。
天草ではなく雑草しか見えていなかったようで苦しそうだったので、まわりの除草をして来ました。でも、絶対真似しないでください、もうすぐそこはまさに崖っぷち、雑草のわずかな隙間から綺麗なブルーの海と岩盤がみえました。
1歩踏み間違えたら滑落してても不思議ではなかったようです。危なかった!やはり城!
これから数日はしっかり見えると思いますよ。続100名城のスタンプのモデルにもなっていますし、見所の1つですからね。
案内所の方に伺ったところ、今見えている石垣は20年前は全て土に埋まっていたそうです。発掘された時は人骨、それを押さえるために小石、その上に大石と埋められていたそうです。原城で籠城していた人々でしょうか、案内所の方は小さな頃からこのお城の石垣は運ばれて無くなったのだと教わっていたそうです。
2021年07月28日 源山城守@ポンコ2…㉔㉕
原城
原城まで車で行くには、口之津港から15分(天草から上陸の為)、島原城から40分(そちら寄ったので)ほどです。
本丸付近に駐車してる車がありましたが、安心して駐車するなら、原城温泉真砂の駐車場がよいと思います。
原城温泉真砂で無料・電動のレンタサイクリングがあるようですが、駐車場から本丸まで歩いても身長125㌢の娘の速さで15分ほどでした。
原城温泉真砂の前が大手口にあたり、ここを通ると左右の平坦な地が三ノ丸となり、三ノ丸の一角に額を射抜かれ戦死した板倉重昌の碑があります。
坂を上がり海に抜ける小径の先に田尻門があったとのことですが、特に表示はなかったです。
本丸方向に進むと海側に二ノ丸、陸地側に二ノ丸出丸が続いており、田尻門から見上げると二ノ丸が断崖上にあるのがよくわかります。また二ノ丸出丸も上から見ても、陸の入江のような形状の丘陵となっているのがわかります。
二ノ丸出丸と本丸の間には幅20㍍くらいの空堀があり、今は改変され土橋のように道路で分断されています。また、空堀の反対側(海側)は蓮池跡となっており、ブラタモリで見た淡水の水源でした。
この道路の先が本丸で、ほねかみ地蔵が鎮座する本丸正門跡前の桝形虎口で、正門跡の先は規模の大きいコの字になっており、崩された石垣とともに埋門跡へと続いてます。
本丸には正門跡以外に半分の高さを崩された石垣沿いに進むと池尻口門跡になり、正門跡と異なり規模の小さな虎口で、ここを進むと天草四郎像や墓などがあります。本丸内は広く、瓦が見つかった櫓台跡や天草四郎の家など案内が充実しており、各所からの眺めは良好です。
本丸正門脇の道路を進み、その沿いに馬場が、コの字の虎口外側の石垣をいくとトイレがあり、奥は本丸の帯曲輪状になったところに竪穴建物群跡、その奥に凸に出ている本丸櫓台の上部や隅を崩された石垣を見ることができます。
道路に戻り、下っていくと田町門跡と天草丸に着き、そこから本丸方向を見上げると、堅固な段丘に築城されたのがわかります。そこから二ノ丸まで上がり、田尻門方向に下って海沿いを歩いたりして、陸側は行かずで小学生の足でだいたい2時間半くらいでした。
城内は広く、3万人強が籠城できて天剣の守りでなかなか落城しなかったのがわかり、個人的に歩き回ってよかったです。この時期は曇天でも暑さ厳しいので水分持参で行かれたほうがいいです。
2021年07月24日 多咲兵庫頭兼定
原城
駐車場から本丸跡までは歩いて10分程度。散歩がてらちょうど良い距離でした。海に向かう絶壁は難攻不落の代名詞!
2021年07月07日 ( *¯ ³¯)っ旦
原城
本来のお城としての縄張りは東京ドーム10個分という広さがあります。
全てを見て回ろうと思ったら朝から丸一日かかりますが、広すぎるので休憩もするでしょうし、足も疲れます。
本丸周辺は外せませんが、
他の曲輪は見たい曲輪を絞って、
他の曲輪は簡単でも良いと思います。
海側も回れますので最低でも
本丸外回り一周、
国道ではなく海側が大手門なのですが、
その辺りまでは外回り一周しながらお城を見て回ると私的には楽しいと思います。
本丸周りに道路を走っていますが、
石垣を見たら詰み直ししているところがあります。
その部分は本当は櫓が出っ張っていたのを潰して道路を通し、
凹ませて石垣を積み直しています。
石垣の高さも昔の半分程度になっているそうです。
2021年06月13日 竹に雀騎馬隊サンゴ摂政
原城
原城温泉真砂にてレンタサイクル借りられるかどうかで時間が節約出来るか否かが決まります。電動で無料だからお得感半端ないない。
2021年05月05日 河内守よっちゃん
原城
海沿いの広大な敷地、島原の乱の戦場地です。島原城の城内展示と合わせて見ると理解が深まります。
2020年09月23日 副将軍じあん
原城
原城温泉にて無料で電動アシスト自転車を貸して貰えます!坂道もスイスイでした!
2020年09月22日 明石家船上
原城
もちろん本丸から二の丸、三の丸と歩いて、籠城側の視点から見るのも面白でしようけれど、幕府軍側からの視点で、城の外郭をぐるりとまわるのも、興味深いです。
板倉さんが討ち死したのは、どの場所だろうか?鍋島藩の抜け駆けはどの場所だろうか、と考えながら歩きました。
2020年02月04日 駿河守蒼太
原城
駐車場から本丸までは、無料で電気自転車を借りれます。とっても景色がきれいです
2019年07月19日 虹雷 大宰大弐 サンダー
駐車場[原城 駐車場]
大きな駐車場があります。ここに車を停めて、マイクロバスで本丸まで送っていただけます。帰りも駐車場まで送迎ありです。
2018年10月22日 みやび姫
原城
先に記念館に立ち寄られることをお勧めします。見応えあります。そこで駐車場の場所のプリントをいただけます。細かく書かれているのと、途中に案内の方がいらっしゃるので車停める場所(土産物館みたいなとこ、トイレはここで)は間違えることはないかと。そこから30分置きに本丸跡までワゴン車でピストン輸送して下さいます。行きの最終は16時30分です。歩きでも少し坂があるだけで10分足らずで辿り着けます。
2018年04月15日 じょーうん隠岐守
原城
南島原市より有馬歴史ガイドというアプリが配信されてます。原城や日野江城のこと、有馬キリシタン遺産記念館のガイド、ウォークラリーなどが入っています。原城に来られる時には、ダウンロードしておくのをおすすめします。
2017年11月05日 ️
原城
有馬キリシタン遺産記念館(&日野江城)もセットで攻めることをお勧めします。
記念館は展示物撮影OK(フラッシュなしの条件で確認済み)で、展示室1には有馬晴信と日野江城に代表される「南島原の繁栄とキリシタン文化」、展示室2には原城本丸虎口発掘調査復元展示のある「キリシタン弾圧と島原・天草一揆」に分かれており、同じ地域におけるキリシタンに対する迫害(原城)と繁栄(日野江城)の陰と陽が見事に対比されています。
原城から出土した十字架、メダイ、ロザリオの珠、大砲の砲弾、龍の飾り瓦等は必見です。
2017年11月05日 ️
原城
観光ガイドの方が所持していた資料によると、幕府方の黒田軍の陣中食が「寛永十四丁丑年肥前嶋原一揆御出陣御台所日記」に記されており、白米、鯛、鮑、栄螺、タケノコ、ウド、ワラビ等が供されていたそうです。
食糧が尽きていた一揆方とあまりにも対照的な内容で、しかも、食事の回数も1日に4~6回だったとのことです。
2017年05月09日 織田上総介晃司
原城
本丸のそば、ホネカミ地蔵の前に駐車場があります。満車の場合は国道251号沿いに駐車場があります。
島原の乱後、幕府により徹底的に破却されたが、近年の発掘調査により城郭が甦りつつある。
内馬場跡付近には築城当時の石垣が残っており、その先にある1本の樹木と向こうに見える海のシチュエーションはどこか海外チック。
三の丸付近には温泉があります。
2016年05月09日 カーネル
原城
日野江城を出て南下し、国道251号にでたら右折して川を渡ります
この道も南へ向かうのでひたすら南下。途中に原城にゆかりがありそうな天満神社に参拝する(原城の文字があったので)
南下を続けると、原城のでっかい看板があるのでそれに従います
緩やかに舗装路を登り、二ノ丸とでっかい空堀を越えると到着です
城は反時計回りに、内馬場、大手口、本丸、池尻口門跡を経て1周しました
帰りは、道なりに舗装路を進み、国道に突き当たるところに島鉄バスの原城前バス停があるので、これで帰りました
バスの時間を考慮して、かなりゆっくり見て回ったのもあり、帰りのバス停についたのは、日野江のバス停を降りてから3時間半後でした
歩き計画されている方の時間目安になれば幸いです
2016年02月28日 虎御前民部卿
原城
史跡巡り周遊バスが期間限定で運行されています。2016年2月20日から3月21日までです。原城温泉真砂→原城→有馬キリシタン遺産記念館→日野江城→記念館→原城→原城温泉真砂と巡ります。木曜は有馬キリシタン遺産記念館がお休みなので、記念館には止まりません。私は原城から記念館まで利用しました。記念館は、歴史、縄張り等勉強になりました。次は日野江城にも行ってみたいです。
2015年03月28日 コロ助
原城
島鉄バスターミナルからバスで55分程、原城前で下車。バス停すぐが三の丸、本丸までは徒歩15分程。ほぼ原っぱ&一部ネギ畑な感じですが、曲輪はかなり広範囲に残っていています。
本丸の土塁や石垣は綺麗に整備されていて、本丸前の空堀はとても立派です。二の丸で、最近新たに木を切って草刈りした様な場所がありました。世界遺産暫定リストに登録された事で、整備・保全に力を入れられているとしたら、とても嬉しいです。
海の真ん前!という、素敵なロケーションです。海岸の遊歩道に回って見ると、本丸の切り立った感じがとても良く分かります。原城から日野江城までは、徒歩50分程です。
2011年01月16日 June02
原城
バス降車時から始まる城郭散策、素晴らしかったです。
緩やかな坂道に三ノ丸、二ノ丸、空堀そして本丸。梯郭式を意識してしまいました。
また、本丸櫓台跡からの風景も素晴らしく、北に雲仙岳、南に島原湾、日暮城の名前通り、1日眺めていても飽きないかも知れません。
でも、乱の舞台なんですよね。
写真は、本丸跡の石垣と櫓台跡です。櫓台跡上の影はカップルです。爽やかに感じました
乱後、復興政策として、この辺は小豆島からの移住があったそうです。
南有馬町と小豆郡内海町は姉妹町提携を結んでいる様です。